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擬似エデン

 覚えているのは、荒れ狂う海と叩くような強い風。

 視界は大粒の雨で覆われ、自分を抱き締める祖父の体温さえ分からない。

 それは八年前の真夏の夜のことだった。

 まだ海の危険性を知りもしなかった少年は、日が沈んでも帰ってこない祖父を探すため海へと出た。短い手足で懸命に船を漕ぎ祖父と再会できたのは良かったものの、突然の嵐で海は荒れ、少年と祖父は孤立無援となってしまった。

 子供ながらに少年は思った。

 ——ああ、自分は今日ここで死ぬのだろう、と。

 嵐の海に小舟一隻。どう足掻いても助けはこない。ふと上を見上げれば、焦っている祖父の顔が少年の瞳に映った。いつも穏やかで優しい祖父が、見たこともないような顔をしている。その事実に、少年は自分の死がいよいよ避けられないものであると確信した。

 けれど、不思議と恐怖はない。

 祖父と共にいるからだろうか。後悔がひとつもないからだろうか。それとも、生きることに執着がないからだろうか。

 少年は目を閉じる。祖父の手のひらが少年の後頭部を包み、強く抱きしめられたのが分かった。少年も、祖父の背に腕を回す。恐怖は微塵も感じないが、祖父ともう二度と会えなくなるのだと思うと、ほんの少しだけ寂しさを感じた。

 雨粒に突き刺され、風に激しく殴打される。小舟はみしみしと悲鳴をあげ、今にも破壊されてしまいそうだ。少年は目を閉じたまま、待っていた。自らが海に投げ出されるのを。自らの死を、ただ待っていた。

 ——しかし。一向にそれは訪れない。

 寧ろ、何故か身体が温まるような錯覚を感じた。雨粒も強風も消えている。もしや、死は一瞬にして訪れ、瞬きの間に天国にでもやってきてしまったのだろうか。

 少年はそう思い、目を開ける。

 しかし、そこは天国ではなく、景色は先ほどと変わらない荒れ狂う海だった。けれども不思議なことに、少年と祖父の乗る小舟の周辺のみ天から太陽が降り注いでいる。その太陽は少年と祖父に暖かな光を与えるだけではなく、結界のように雨と風から守ってくれているようだった。

 ふと、少年は正面の海に視線を映す。

 大粒の雨で見えにくいが、何者かがそこに立っていた。この嵐の中、誰かが海面に立っている。そのあり得ない光景に少年は不安を覚えたが、祖父は眩しいものを見るように目を細め、しっとりと呟いた。


「——聖人様」


 祖父のその一言には、あらゆる感情が込められていた。希望を抱くような、悲しみを閉じ込めたような、宝箱を開けるような、悪夢を見ているような、形容しがたい想いを、少年は感じた。

 海面に立つ人物は何も言わない。祖父の声が聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか。

 その人物は暫く少年と祖父を見つめていたが、空が晴れ始めたことに気づくとくるりと踵を返して背を向けた。そして、そのまま無言で海面を歩いていく。

 一瞬、雲の晴れ間から差した光が、謎の人物を照らした。

 雪景色のような銀色の髪が、太陽光に照らされて煌めく。後ろ姿だけでも分かる、とても美しい男性であった。

 それは刹那の間で、美しい男性の姿はすぐに雨粒で消えてしまったが、少年の脳裏には激しく鮮明に焼きついた。


「聖人、様…」


 少年は祖父の言葉を復唱するように呟く。

 十歳の少年——アル・デッダーの瞳は、未来に期待を抱く子供のようにキラキラと輝いた。



 ———八十年前。

 世界に未曾有の大災害が訪れる。突如として襲ってきた激しい雨、そして急激な海水の上昇。本来ならば起こるはずのないその相反した災害は、世界の全てを飲み込んだ。それは十年間も続き、次々に大陸が海へと沈んでいった。発達していた科学も技術も海の底に沈み、更には異常気象により数多の動物たちが姿形を変えた。水棲動物は巨大化し、地上の動物には翼が生えた。生を渇望する人間たちは生きるための進化を求めたが、不思議なことに人間だけは世界に適した体へと進化を遂げることはなかった。人間たちは嘆いた。悲しんだ。そして祈った。どうか我々に慈悲を。情けを。

 その祈りが天に届いたのか、海より救世主が現れる。

 救世主は人々の嘆きを受け止めると、僅かに残った六つの大陸の欠片を撫でた。すると、その大陸の欠片は特殊な守りを受け、上陸した人間たちはあらゆる災害から逃れることが出来るようになった。豪雨、洪水、疫病。それらが遠い記憶となり、人々は救世主に心から感謝した。そうしていつしか人間たちは感謝と尊敬の意を込めて救世主をこう呼び始める。

 ———聖人様、と。


「オースじいちゃん、今日の魚の準備できてる?」


 朝の身支度を終えたアルは、外で作業中の祖父へと声をかけた。

 朝日を浴び、潮風を吸い込めば、彼らの一日は始まる。

 名前を呼ばれたオースは魚を捌いていた手を止めて、顎で海上の小舟を指した。


「できている。しかし、アル。何度も言うが、陸へは私が行くからお前はここにいなさい」

「じいちゃん、何度も言うけど、ぜってー嫌。ただでさえ海は危険なのに、そんな場所を年寄りのじいちゃんに行き来させるなんてありえねえ」


 小舟に飛び乗ったアルは捌かれた魚を端に寄せながら困った顔で笑った。

 四方は一面の海。見上げれば青い空。潮風が全身を撫でるこの場所でアルとオースは暮らしている。

アルは建築に詳しくはないが、オースの話によると巨大化した海草と珊瑚を基盤に、大陸から運んだ土と木を使って家を建てているらしい。家の周りは海で、陸地に住んでいる人間たちのように隣人などは存在しない。しかし、さほど寂しいと思ったことはなく、むしろアルはこの家が好きだった。

 八十年前。未曾有の大災害が訪れた。

 これはおとぎ話などではなく、れっきとした実話である。

 アルの祖父であるオースや、友人たちの祖父母たちはそれらの歴史を経験した人物であり、彼らを中心にして聖人の物語が読み聞かせられるようになったそうだ。

 しかし、件の聖人には誰もが会ったことも話したこともないという。実在することだけは真実のようだが、聖人なる人物を大陸で見たことは一度もなかった。

 けれども、アルは確信している。数年前の嵐の夜、まだ子供だった自分を助けてくれたのは、聖人である、と。姿を捉えたのは一瞬だったため、会話はしていないし、顔を見たわけでもないが、それでも、彼が聖人だとアルは信じていた。

 八十年前の大災害で人類のほとんどは海へ呑まれてしまったが、少数ながら生き残った人間は存在する。彼らは残された六つの大陸で暮らし、食料や水、生活雑貨などを分け合うことで生活していた。一日に一度大陸の中心地に集まり、自らの担当する品物を交換する。彼らはそれを物々交換と呼んでいた。

 何もかもが揃っていた旧時代とは違って、この時代の地上は更地だった。雨風を凌ぐ家、暖かい衣服、そして水と食料。その中でも特に、水と食料は必需品である。残された人間たちは生きていくため分担し、水を確保するもの、肉を育てるもの、魚を調達するものなどに別れ、生活水準の底上げを目指した。

 当時、若かりしオースは海へ出ることを選択した。

 海は巨大な海洋生物の縄張りであるため、力のない人間たちは海での狩りに恐れを抱いたが、オースだけは違った。

 海上に家を建て、陸地から様々な物を運び、一日に一度大漁の魚を持って物々交換にやってくる。年老いてからは物々交換の任はアルがほとんど行っているものの、漁獲の腕は今も尚健在であった。

 その証拠に小舟には大量の魚。これらは本日、アルが物々交換に持っていく品物である。


「オースじいちゃん。じゃあ、オレそろそろ陸に行ってくるよ。あ、そうだ。今日昼から雨降るから洗濯物取り込んどいて」

「雨…なあ。全くそうは思えないが、お前が言うのだからそうなのだろう」


 オースはアルの言葉を受けて天を仰ぐ。差すような太陽の光と真っ青な空。一見、雨が降るとは思えない天気だが、アルの勘はよく当たる。

 オースは軽く頷くと、オールを手に取ったアルの背を優しく撫でた。


「…アル。くれぐれも気をつけておくれ」

「大丈夫だって!もう何度も一人で陸に行ってんだからさ」


 飲み水の入った竹筒。干し肉に魚の干物。そして、大切な品物用の魚介類。それらを小舟に詰め込みながら、アルは溜息をついた。

 オースの心配も分かるが、先の会話の通りアルは何度も単身で陸と海を行き来している。海洋生物が危険なのは理解しているが、大陸と大陸を渡る行商人のほうが何倍も苦労しているのだ。アルとオースの住む家は海上にあるとはいえ、陸との距離はさほど遠くはない。

 アルは未だ不安げなオースの肩を叩くと、安心させるように快活に笑った。

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