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遅れてきた花嫁

前後編を一つにまとめた本編です。ここにありました。悲劇の夫人に同情して恋をさせてあげた事件。この2の番外編をどうぞ。甘甘のもありますが。

一応順番に載せてみますね。

時空を超えて2遅れてきた花嫁 


彼の腕の中で彼女は眼を覚ました。というよりこの世に覚醒した。

人工羊水に成長促成剤。彼女に親はいない。一人の女性の遺伝子から生まれた。そう。クローン技術。未だもって禁止事項の科学である。そして誰もが夢見た遠い世界への旅路。コールドスリープの被験者成功例である。

 クリストファー・エドワード・ワトソンはあらわになっている肌にそっと毛布をかける。だが彼女にそれが恥ずかしいことなのだとはまったく思わなかった。なぜなら彼女には成長に付随するであろう心身の成長はなかったのである。言葉すらしらない女性。それがこの女性のすべてであった。


「う・・あ・・・?」

 疑問らしき声を出した彼女であったがクリストファーも必死だった。いとこのワトソン博士にまかされたもののこんなアクション映画のようなことはいたってしたことはない。人選を間違えただろうとクリストファーはワトソン博士につっこんでいた。

「さぁ、とりあえず我が家に帰還だ」

 クリストファーは政府が用意してくれた家へと逃げ出した。


「うーあ」

「クリス」

「うーあ」

「だから私はクリス、だと」

 いらいらしながらクリストファーは机をばんと叩いた。

 みるみるうちに未沙の目に涙が浮かんで流れ出す。この女性の名を橘未沙という。オリジナルの苗字が橘であることから名字をとり、黒い髪に黒い瞳の間違いない日本人である彼女に適した日本語名をつけた。未知なる旅をはじめるこの女性に祝福をと名付けた。

 クリストファー・エドワード・ワトソンはいとこのワトソン博士のたっての願いでこの仕事をうけた。クリストファーは名医ともいわれる小児科医だからだ。何も知らない赤子同然の女性と接するのはやさしい小児科医のほうがいいだろうといとこは言った。が。一日中赤子と一緒にいればいやというほど陰鬱になる。それも同じ人間だと。患者はかわいい。一瞬だけみればいいのだから。愛情もわく。だが、この女性は体は大人。なのに言葉すら覚えてくれない。クリストファーは自分が情けなくなってきた。この際、この難事には別人に当たってもらおう。

そう思ってワトソンに打診したが答えはノーだった。一度かかわったら最後巣立ちの時まで面倒みてほしいとのことだった。トップシークレットにかかわる人間は少なくていい、とのことだ。下手すれば殺されるぞとおどされて今に至る。

「ぼっちゃま」

と家政婦のナタリーが声をかける。

「いいかげん大人になった私にぼっちゃまはやめてくれ」

 新しい家ごとまるまる環境は移ってきてくれた。家政婦まで。

「ぼっちゃまはぼっちゃまです。お迎えが来ております。病院へどうぞ」

「わかったよ」

「未沙。それじゃ行ってくるよ」

 朝食の惨劇を見ないふりしてクリストファーは未沙の頭をひとなでして出て行った。


 そしてそこに落ちた言葉が一つ。


「クリストファー・エドワード・ワトソン」


 誰も知らない空間にクリストファーの名前がころころ転がって行った。


疲労困憊でクリストファーが帰ってきた。パジャマ姿の未沙はにまーっとわらって部屋に入るとぬいぐるみをとりだしぽむ、とクリストファーに投げた。

クリストファーもにまーっと笑う。そして飛んできたぬいぐるみで応戦する。

 その子供らしい時間が何分かつづく。イライラしがちなクリストファーもこの時間は自分を子供に戻してくれる魔法の時間だった。そこへナタリーの大雷がおちる。

「ぼっちゃまも、じょうちゃまもそんなことしていないで夕食を食べてくださいまし!」

 そしてクリストファーはもしかしてという期待をもって未沙をみる。

「あーい」

 返事らしきものを未沙が発してクリストファーは喜びに喜んだ。

「ナタリー。未沙が返事したぞ。返事」

「あら。ぼっちゃま。それぐらい前からしていましたよ。知りませんでしたか?」

 がっくりとクリストファーは首を落とす。ナタリーとの過ごす時間が多いゆえ知っている情報が多いのだろう。自分がもっと接する時間を増やせばいいのだろうか。

「あい。くー」

「くーとは私の事かい?」

「あい」

 クリストファーはギャグ漫画の世界の住人のように浮かれ舞い踊った。これほど子供のことで舞い上がる馬鹿は自分しかいないと思いながらも。

 それを見たナタリーは少々気の毒に思った。はいはいしたときもたって歩いた時もすべてナタリーが最初に見ているのである。一番一緒にいるのであるから当然であるがあの様子を見てはとても口が裂けても私が最初ですとはいえない。

「さぁ。夕食ですよ」

「あい」

「ああ」

 クリストファーはいつも行儀作法にうるさいのだが今日は非常にすこぶる機嫌がよくなにもいわなかった。ひたすら努力したことが実って行儀作法どころではなかった。

 ので、未沙がびーびー泣くこともなく今夜はしずかに過ぎていこうとしていた。


 クリストファーが書斎で書類を書いていると家に取り付けてある警報機が鳴った。クリストファーはとっさに未沙の部屋に飛び込んだ。その扉のまえでナタリーが腰を抜かして座り込んでいる。

「ナタリー!!」

 なかば放心しているナタリーの肩を揺さぶってクリストファーは呼ぶ。未沙の部屋にはすでに彼女はいない。知っているのはナタリーと監視カメラだけだった。


「だめだな。監視カメラは全部いかれている」

 この日、初めてオリジナルと結婚したシャーロック=ホームズといとこのワトソン博士がやってきた。

「残りはナタリー夫人だけか」

 ワトソン博士が尋ねる。

「ショックであまり覚えてないらしい」

 希望薄だとクリストファーは答える。

「いや、案外あの手ならいけるかもしれない」

「あの手?」

「催眠術だよ」

 そう言ってシャーロックは立ち上がった。だが、ただナタリーが見たのは未沙が男たちに連れ去れたというだけだった。

「兄に聞こう。敵に回すと恐ろしいが味方にすると非常に役に立つ」

 兄になんという言い方かと思うが実際そうなのだ。役に立つというより彼のバックアップなしではこの二人の女性の行先は非常に悲惨だったろう。

 シャーロックが携帯で訊ねた直後に再びかかってきた。

「マイクロフトかい? ふむ。やはりモリアーティーか。妻は完全警備をしているから大丈夫だ。心配は未沙本人だ。言語の通じない苦しみはアミィもしってるからね」

 順調に話をしていたシャーロックの顔がふっと青ざめた。

「シャーロック君! 未沙に何か?!」

心配してクリストファーが尋ねるがシャーロックは首を振る。

「いや、うちのじゃじゃ馬が・・・」

「じゃじゃ馬?」

 クリストファーが問い、ワトソン博士が忍び笑いをしているとセキュリティシステムの警報音とともに一人の女性。いや、未沙が戻ってきた。

「未沙!!」

 駆け込もうとしたその瞬間、未沙はびしぃとシャーロックを指差しどなりつけた。

「私の妹のことなのに秘密事とはなによ? またマイクロフトにお世話になるわよっっ」

「アミィ・・・マイクロフトのところに行くのだけはやめてくれないか。手が出せない」

「だったら、私も連れて行くのね」

「わかったからその服の下に隠してるレイガンを捨ててくれ」

 クリストファーはなんのことだかわからない。未沙と同じ顔をしている女性がシャーロックを圧倒している。いや、英語を話している。

「あれがアミィだよ」

 ワトソンがそっと教える。レイガンをさしだしてシャーロックに近づくと彼はいきなりアミィという女性を抱きしめた。

「このじゃじゃ馬が」

「ごめんなさい。でも妹にかかわることだもの。私一人のけものはずるいわ」

「悪かった・・・」

 二人の熱い抱擁にあっけにとられているとワトソン博士がぱんぱんと手をたたいだ。

「そこまで。お熱い抱擁はベッドの中でするんだね」

「ワトソン」

「ワトソンさん!」

 二人とも照れているのが妙にかわいい。と、思っているがそれどころではない。

「で、私の未沙は?!」

「もう招待状が届いたみたいだよ。私のかわいい奥さんが郵便受けからしっかり持ってきてくれた」

「え? それこんなに重要な?」

「だから警報機がなったんだろうに。君は相変わらず物覚えが悪い」

「そう教育したのは・・・と。クリストファーさんでしたよね。このたびはご迷惑、いえご心配をおかけしました。未沙さんも一度はこちらでと思ったのですが主人があいにくトラブルメイカーですのでそちらにお願いしたのですが・・・」

 さきほどのいかれ娘のど迫力満点の女性アミィも今はなりをひそめた猫のようにおとなしく話していた。

「未沙・・・。素敵な名前ですね。きっと見つかりますわ。モリアーティーの考えることは一辺倒ですからね」

「ああ」

 クリストファーはなんだか目が滲んでくるのをおさえるので必死だった。


未沙はモリアーティーの手につかまれて立っていた。レイガンを持っている。未沙には詳細はわからないが強力なもので人を殺す道具だと認識していた。

 未沙はわけのわからないところに連れていかれてモリアーティーとその仲間たちと突っ立っていた。やがてその目の前にクリストファー、シャーロック夫妻、ワトソン博士が立ちふさがった。

「馬鹿ですな。相変わらず。しっかりオリジナルまでついてくるとは。今日でこの因縁を解消したいものです」

「こちらこそ。そう願いたいね」

 シャーロックが応じる。

「それではオリジナルを返してもらおうかな」

「あなたが興味あるのはコピーでしょ? 以前はっきり明言したようだけど?」

 アミィがつっかかる。

「もちろん。私にはオリジナルもコピーも大事なんだよ。さぁ、お嬢さん方いらっしゃるがいい。さもないと・・・」

 そう言ってモリアーティーがレイガンを構えた。瞬間、その後ろでかちりと音がした。一味のレイガンはしっかりモリアーティーに定められていた。

「お前たち何をしているんだ。照準はあちらだ」

「いやですな。モリアーティー教授。今日からは私がトップなんですよ」

細い体の男がレイガンを持って登場した。蛇のように絡みつ視線をまわりにふりまく。

 その瞬間、モリアーティーにつかまれている未沙の注意がそれた。弱まった力をかんじて未沙はとっさに走り出した。

「クリス!!」

 しっかりとクリストファーの名を呼びながらクリストファーのもとへと走っていく。

「未沙!!」

 だきしめようとしたその瞬間、未沙はくずおれた。一発のレイガンが彼女の背中を打ち抜いた。

 シャーロックが射手をさがして打ちとめる。

「どこもかしこもほしいってわけか」

「未沙大丈夫?!」

 アミィが駆けつけワトソン博士が応急手当てをする。

「クリス」

 背中が痛いだろうに未沙は笑って名を呼ぶ。

「馬鹿だな。走り出さなくても助けたのに」

 そう言って頭をやさしくなでる。

前もって打ち合わせしておいた警官たちが侵入してくる。モリアーティー一味は霧散した。あとを追いかけてもまた未遂に終わるだろう。

かくしてトップシークレットの二人の女性を巻き込んだ事件は幕を下ろした。


 そしてまた育児の時間が戻る。

「未沙!! フォークを振り回さない! スプーンもだ!」

 朝食の惨劇に額に目をやる。だが、あれから「くー」は「クリス」になった。「ナタリー」も。それだけは神様がくれが褒美だと思っていた。いつしか彼女をプリンセスにしたてるのがクリストファーの夢になっていた。どれだけ時間がかかるか途方もなく骨折りするだろうが育児に目を覚ましたクリストファーにはもう何も見えなかった。親ばかってこういうのかしらねぇ、ナタリーはのほほんとクリストファーと未沙のやりとりを見て忍び笑いをしていた。





「ふぅ」

 と未沙はため息をついた。

クリストファーとの楽しい成長の勉強は滞りなく終わり、若い男性のもとに一人いるのはいけないとクリストファーはこの家を未沙に与えた。その時にふっとよこぎったさびしげな色に気がかりではあったが。


 そして今日、関係者を集めてガーデンパーティをするのだ。

 シャーロック夫妻にワトソン博士。そしてマイクロフト。限られた人数だがこれが、未沙が知っている全世界での人間だった。


 はじめにチャイムを鳴らしたのはホームズ夫妻だった。もうアミィは妊娠している。今年の秋には生まれるという。よくその身で敵の前に出ていけてものだ。うっすらと覚えているモリアーティという人物とみんなの顔。そして必死に名を呼んでくれたクリストファー。

悪い記憶だが未沙にはとてもいい思い出になっていた。今一人で暮らしてると特にそう思う。クリストファーがそばにいてくれたらと。

「あら。頭痛がするわね。薬でも飲んでおこう」

 ラブラブなホームズ夫妻を、ほうっておいて未沙は薬棚にいって頭痛の薬をぽんとほうりこんだ。

「なにを飲んでいるんだい?」

「きゃっ。水がこぼれるじゃないの。クリス」

 こういう悪がきのようなことをするのは大抵クリストファーだ。ぬいぐるみ投げ合戦も今ではいい思い出だ。

「頭痛薬よ。最近ときどきあるのよね」

「君の体質ではないはずなんだが」

「未知なるものがひそんでるのよ。たぶん」

 そう言って未沙は一笑に付すとガーデンパーティの準備にまたとりかかった。

「クリスも手伝ってよ」

「あ・・・ああ」

 なんだか緊張した面持ちでクリストファーは一緒にテーブルの料理を運び出した。クリストファーが緊張するのも無理はない。ポケットの中には婚約指輪が入っているのだから。いつわたそうかと時期を狙っているのにその時期がない。いっそ別れるときに求婚しておけば、よかっと思う。だが、一度は一人で外の世界を見る必要がある。だから求婚は延び延びになっていた。

やがて遅刻魔のワトソン博士が登場すると楽しいパーティが始まった。

おいしい料理に楽しい音楽。そして私の双子の姉。アミィ。自分がコピーだと知らされても驚かなかった。目の前にオリジナルがいたのだから。それも自分の身を守るために身を呈してくれた。他人だとは思えなかった。

「もっと早く知り合えていたらよかったのにね」

 アミィがいう。

「ええ。本当に。助けてもらってもう自分と違う人ででもお姉さんだとはすぐにわかったわ」

「不出来な姉でごめんね」

「なにを言ってるの? あんなふうに身を守ってくれた姉さん・・・お姉さんと呼んでいいかしら」

 恥ずかしそうにアミィの意見を未沙は聞いてくる。

「ありたりまえじゃないの。アミィと呼んでもいいのよ。双子なんだから。ほら。呼んでみて」

「あ・・アミィ」

 消え入るような声で未沙は呼ぶ。

「もう。じれったいわね。もうちょっと大きな声で呼んでみてよ」

「こらこら。未沙は君と違って繊細なんだから強要はだめだ」

 シャーロックが間に入ってくる。未沙はその会話の中に入れてうれしかった。

いずれ、私はここをでていく。まだ入ったばかりの家。でも病人にはここはうるさすぎた。

「うちの未沙をいじめないでください」

 そこへクリストファーが強引に入ってくる。どうやらアミィたちとの接点はあまり残したくないらしい。

「何言ってるの。クリス。私はお姉さんができてとっても嬉しいんだから」

「だからアミィと・・・・」

「アミィ」

「未沙!」

「クリス!」


 思い思いの名前が飛び出す。それを悠々自適に見るワトソン博士とマイクロフトである。

「何かこげてないか?」

 ワトソン博士がふっという。

 ぎゃーと未沙は言って台所へ走る。

「メインのシチューが焦げちゃった・・・・」

 しゅんとなっている未沙にアミィが肩を叩いてはげます。

「きれいなクイーンね。きっとクリスは大変な思いであなたを育てたのね。私、あなたにあえてよかった。機械にはいっているあなたをみたときまさか生きているあなたと出会えるなんて思えなかった」

 嬉しそうに言うアミィに未沙は涙ぐんで喜ぶ。

「私もあなた・・・いえアミィに出会えてよかった。たった二人の家族だもの。ってあら、やだ、アミィの赤ちゃんもシャーロックも家族なの?」

 目を丸くして未沙は驚く。

「そうよ。これから生まれてくるあかちゃんもみんなあなたの家族。一人ではないことを絶対覚えていてね」

 うん、うん、と未沙はうなずく。そこへ第二弾の焦げたにおいがする。

「アミィ! こっちも焦げた!! 手伝って」

「ほい来た」

 妊娠してから強くなった我が妻を見てシャーロックはため息をつく。

「昔はもう少し繊細だっだんだが、妊娠してからころりと性格が百八十度変わってねぇ。君も実感するよ」

「シャーロック。それは今まだ秘密にしておいてくださいよ」

 シャーロックはにひひ、と格好に似合わない、まるでアニメのキャラクターのごとく笑うと悠々とテーブルのほうに方向転換した。


パーティは夜遅くまで続いたがさすがに妊婦の身には悪かろうとシャーロックが強引にアミィを連れて帰ってしまった。わからぬものではないがもう少し話したかった。最後の逢瀬としては。しかしそれは誰も知らない。今から始まる夢のパーティだと思っていたから。いや、マイクロフトだけはしっていた。あの頭痛のもとを。


パーティの片づけをしながら走馬灯のように自分の人生を思い出していた。自分の人生はほんの一年足らず。生まれた時からいたクリストファーと一緒にいて、やっと思考もしぐさも言葉も大人になったかと思ったらこの家に住んでいた。ここはいい。自然の中でのびのびできる。犯罪の温床の都会から離れて。だが、もう限界だ。クリストファーは気づいただろうか。あの頭痛薬のことを。一番強烈に効くものだ。

 明日一番でコテージに行こう。マイクロフトが用意してくれたコテージに・・・。


 コテージに行って数週間は何事もなくすごせた。頭はだんだん割れるように痛むが薬を飲むと治まる。在宅療養にはうってつけだ。コテージはレトロな感じで何か懐かしさを覚えた。ここが終の住処になるということを考えるとさみしい気がしたが。それでも一人で終わろうと決めていた。クリストファーやナタリーを悲しませたくなかった。こんな恐ろしい事実を知ればわがことのように悩み苦しむだろう。それはいやだった。一番大事な人にそんな思いをさせたくなかった。

 こんこん、とドアをたたく音がした。一応は形だけあるのぞき窓を見るとそこにはクリストファーがいた。恐怖で身が縮む。

「未沙!! ここにいるのはわかっているんだ。出て来い。そうでないとこちらから動くぞ!!」

 クリストファーはやる男だ。どんな手段を使っても入ってくる気だ。

 しかたなく未沙はドアをあけた。

 クリストファーはドアが開いたときに目に飛び込んできた未沙のやつれ具合に驚いた。だが、次の瞬間にはもう胸の中に引き込んでいた。

「馬鹿。未沙。一人でこんなところに・・・」

 未沙はこの人のぬくもりに甘えたかった。だが、それはしてはいけない。震える腕でクリストファーの胸を押しだしていた。

「お茶をさしあげるから、それで帰ってくださらない?」

 クリストファーは首をかしげた。彼女はそんな上品な言葉を使わない。教えてもまったく身に付かなかったのだから。

 それに気がかりなことがある。来院記録があるのに電子カルテがロックされていた。極秘扱いだった。一介の小児科医には見ることはできなかった。マイクロフトに申し立てるとこのコテージのカギと地図をもらったのだった。

「っ・・・・」

 未沙はどこか痛むように顔をしかめた。

「どうした。どこか痛むのか?」

「ちょっとね。薬を飲むからお茶を待ってくださらない?」

 そう言って未沙が取り出した瓶をみてクリストファーはとっさにそれをとりあげて薬の構成物質を見て判断していた。

「どうしてこんな強烈なものを飲むんだ? もしかして・・・・」

 クリストファーの中で恐怖の答えが出つつあった。

「そのもしかしてよ。ここにできちゃったの」

 とんとんと頭の中を指し示す。脳腫瘍だった。

「だからもうみんなのところへは帰れない・・・。だって弱っていく私を見て誰がうれしいの? 死にゆく私を見てアミィが泣かないとでもいうの? 彼女の赤ちゃんまで悲しませてしまう。だからパーティをしたのよ。みんなの思い出を作るために」

 ぽろぽろと涙をながす未沙にただクリストファーは抱き寄せてあやすしかなかった。昔よくしたようにぽんぽんと背中をたたくしか。いくらか時間がかかっただろうか。不意にクリストファーは声を発した。

「決めた。今から結婚しよう」

 涙でぐちょぐちょだった未沙の顔が何を考えているんだろうかという顔になる。狂気のさたとでも思わんばかりに。

「そう。君のガンは必ず私が治す。以前研究していていいところまで行った。研究費が莫大でままならなかったが、今度はポケットマネーでもやってやるさ。未沙を死なせはしない。この私が守る。だからまず結婚しよう。前から求婚しようと思っていた。今、婚約指輪を持っている。これで今は我慢してくれないかな?」

 そう言ってポケットから指輪の箱を取り出すとやせ細った未沙の指にはめた。

「ぶかぶかだわ」

「すぐに元に戻るよ。健康的な食生活を送ればこんなにやせなかったはずだ。さぼったな。料理を」

 そう言ってクリストファーは未沙の鼻先をちょんとつつく。

「だって。食糧持ち込むのも面倒だし、作るのも面白くないし。一人はつまらないし・・・」

「よし。それなら我が家のコテージを提供しよう。ここはマイクロフトの家だから、かってに実験もできない」

 そう言ってクリストファーは未沙を抱き上げるとコテージを出る。

「クリス。私、荷物もあるけど」

「そんなもの、あとから取りに行けばいいだろう。うちのコテージは遠いからね。今のうちに行こう」

「いつからクリスはこんなに強引になったの? ジェントルマンが自慢だったのに」

「アミィから教えてもらったのさ。亭主関白というやつを」

「なに、それ?」

 同じく知識は貧弱な未沙が尋ねる。

「夫が妻よりも強い力を持つっていうことだ」

「まぁ、なんてこと!」

「でも君たちの故郷の言葉だそうだよ。なかなか素敵な国だね。日本も」

「私にはわからないわ。日本とかイギリスとか・・・」

「行けばわかるよ。いつか、ね。と逃亡はなしだよ。君の身の回りの物を取ってくる」

 クリストファーはそういって車の後部座席に座らせた。

「クリス!みんなの写真だけは持ってきてね!!」

 未沙の顔には未来への希望の証の笑顔が戻っていた。それをみてクリストファーは手をふって答える。


クリストファーのコテージにはすでに家政婦ナタリーがいた。クリストファーは未沙を連れていく間にあっという間に根を回してしまったらしい。恐れ入る旦那様だ。

「まぁ。じょうちゃま!こんなにやせ細って。今から元気の出るお食事を作りますからね。ベッドでゆっくりしてくださいませ」

「ナタリー」

未沙はいつもとかわらないナタリーの姿に涙ぐんだ。だが再会のよろこびもつかの間クリストファーによってあっという間に抱きかかえられてベッドに連れて行った。シングルの質素なベッドだった。

「味気ないベッドで申し訳ない。ナタリーがそのうち改装してくれるよ」

 日曜大工までしているナタリーのコミカルな動きを想像して思わず未沙はくすりと笑った。

「何がそんなにおかしいんだい?」

クリストファーのきらきらした瞳が未沙を覗き込む。

「日曜大工するナタリーって笑えない?」

 家政婦がえっちらおっちら釘やらのこぎりやら振り回しているのは面妖なシーンだ。

クリストファーは大声で笑う。

「それは傑作だ。君のイマジネーションは大したものだ」

「そんなにおおげさなものじゃないわ」

「ぼっちゃま! 嬢ちゃまを早くベッドにいれてくださいまし。料理がさめてしまいます!!」

ぷんぷん怒ってナタリーがクリストファーをせかす。相変わらずの構図だ。

「わかったよ。我らが姫君にここでゆっくりしてもらおう。私はこれから研究に向かうから」

「え?もう?」

ついさっきマイクロフトのコテージにいてここに移ったばかりなのに疲れないのだろうか?

 しかし未沙の心配をさっしたのかクリストファーは未沙の鼻をちょんとつついて言う。

「心配ない。私だって寝たり食べたりする。大丈夫だ」

 しかしクリストファーは研究者肌だ。一度はまるととことんまでいく。まるで未沙を育て上げたときのように。

「未沙。はやくナタリーの料理で元気になってくれ」

そういって未沙にかるくキスをするとクリストファーは部屋を出て行った。

「まぁ。坊ちゃまも人の悪いこと。人前でキスをするなんて」

 もはや世界の破滅かといわんばかりのナタリーに未沙はくすりと笑う。そして手の甲をみせる。

「見て。私とクリストファーは婚約したの。キス一つじゃすまないかもね」

軽々と言ってのける未沙にナタリーはまぁ、と声をが上げるとベッド専用のテーブルに料理を置き始めた。それから数週間してナタリーのかいがいしい世話で未沙の青白い頬がバラ色そまった。体力もほぼ戻っている。鎮痛剤を打っているがコテージの外で日光浴をあびて散歩するぐらいには元気になっていた。しかしクリストファーの研究は一向に進まなかった。連夜徹夜することもあった。ナタリーがついに未沙に泣きついた。

「サンドイッチすら手にとってくださらないんですよ。嬢ちゃまからしかりつけてくださいまし」

「クリスは寝ていないの?」

 未沙の表情が曇る。

「寝る寝ると言っては朝方すこし寝るだけです」

「わかった。クリスのベッドはダブル?」

 どういう質問かわからないがナタリーは聞かれるままに答えた。

 未沙はにやりと笑うとナタリーにそっと耳打ち始めた。

一方、何も知らないクリストファーは三日目の朝方に自室のドアを開けた。そこにはすやすやと眠る未沙がいた。クリストファーはぎょっとする。

「未沙。ベッドが違う。寝ぼけたのか?」

以外にも動揺してクリストファーは声をかけた。

ぱち。と未沙は眼を開けた。確信犯である。

「私がいると思えば、徹夜なんてできないと思ったのよ。それなのにあなたは三日も戻ってこないなんて」

うっすらと未沙の涙がまぶたにうかぶ。あわててクリストファーは頭を下げる。

「これからは愛する婚約者のいるベッドにもどらないことはないわね?」

 ちろんと未沙がみるがクリストファーには痛い問題である。彼とて成人男性である。万が一体力のない未沙を・・・。

「わかった。毎日眠るから自分のベッドにもどってくれ。」

お手上げだというばかりにクリストファーが言う。

「この目で確信できない限りはだめです」

 きっぱりと未沙は言う。

「だめなんだ。君がいると心が乱れる。よからぬことを考えてしまうんだ。私だって聖人君子じゃないんだから」

「そこまで言うなら」

 確かに成人男性だ。クリストファーは。しぶしぶ未沙は立ち上がる。クリストファーがあわてて抱きあげようとする前にしっかりと未沙は地に足をつけていた。その回復ぶりに目を細めてクリストファーは喜ぶ。

「未沙。もう少しで完成だ。待っていてくれ」

 クリストファーがふわりと未沙を抱きしめる。うん、と未沙は泣きそうな気持で首を縦に振った。

半年の命といわれていた未沙だがなんとか命をつなぎとめていた。ときおり眠りこむときもあったが。そんな未沙の部屋にクリストファーが飛び込んできた。

「未沙。薬が完成した。すぐにでも入院して投与を始めるぞ」

「クリス。おめでとう。あとは私の体さんに頑張ってもらわないとね」

入院して未沙に臨床検査として投与が始まった。他の患者もそうだった。薬の力は偉大だった。初期患者がみるみる回復していく。未沙のように末期にはなかなか効果が表れなかったが。実際、成功はゼロだった。激しい副作用が未沙に襲う。吐き気。脱毛。痛み、ありとあらゆる症状に未沙は耐えた。時間がたりなかったのか。クリストファーに絶望を襲う。

もっと早く完成していたらと。しかし無情にも時間はすぎていく。

 そしてある日を境に未沙はこん睡状態に陥った。クリストファーは何もかも放り出してつきっきりで看病した。管があちこちに刺されて痛々しい姿を未沙はしていた。

「未沙目をあけてくれ。私をこのまま置いていかないでくれ」

 クリストファーの涙がぽとりと未沙の手におちた。それが合図のように未沙は瞼をあけた。か細い声でクリストファーに訴える。

「クリス。わからないけど川の向こうにお父さんとお母さんがいたわ。クローンの私にも。一歩進むごとに痛みが消えてあるいていたけどあなたの泣く声が聞こえてきてあわてて戻ってきたの。これから私が意識を失っても薬の投与はやめないで。最後まであなたの希望をうしないたくないの。」

未沙といったかぎり彼女の胸にうつぶせてクリストファーは肩を震わせていた。未沙はこの管の付いている手がうごかせたら背中をやさしくたたいてあげるのにと悔しく思いながら言った。

「クリス。私のいるところはあなたのいる空の下よ」

 未沙と涙声だけがその部屋にだけ落ちた。

未沙はある朝起きると突然いつも悩ませる頭痛がないことに気づいた。鎮痛剤が効いたかとおもっていたが妙な感じがする。

「クリス!頭痛がない。すぐ来て!」

 ナースコールで恋人を呼び出す自分も馬鹿だと思いながらも未沙は興奮を抑えることはできなかった。

 髪の毛はすべて抜け、いったんはこん睡状態になりながらもこの世界に戻ってきた未沙には強さが実っていた。

「本当か?頭痛がしないというのは?」

 飛んできたクリストファーも驚きながら聞く。薬が出来上がるまで半年。ほととんど眠らず作った。その薬は他の患者にはよく効いたが末期患者の未沙には効かなかった。激しい副作用に苦しむ未沙をみて自分勝手な行動で苦しめているのではないかと思ったクリストファーは投与をやめることも考えた。だが、未沙はあきらめなかった。さっそく脳の腫瘍の具合を調べることになった。

「つるぴかになってたすかったわね」

 そんなジョークを飛ばす未沙をクリストファーは抱きしめたくなった。一緒にいる時間が長ければ長いほどクリストファーは未沙を愛するようになっていた。子供ではなく一人の女性として。未沙もそうだといいが。

 検査結果はまさに未沙が言っているようになにも「なかった」。末期患者の生還率はゼロに等しいのに。

「クリス! すごいわ。これで結果データーが新しくなるわ!!」

 未沙は自分の命が助かったことを忘れてクリストファーのことを気にかけた。

「そうだよ。そして君は私の花嫁になるわけだ」

「えっ・・・」

 未沙の顔が赤くなる。照れているようだ。

「いやかい? トップシークレットとして扱っていっているのでも情がわいたからでもない。君を愛している、から」

 未沙のなんの表情もない瞳から涙が流れた。嗚咽をこらえていたがそれもこらえきれず、わっと泣き出した。

「どうした。未沙?!」

 おろおろとクリストファーはうろたえるばかり。

「馬鹿。クリスの。嬉しくて泣いてるのよ!! なにもこんなところで言わないでもいいじゃない。私がいついやだって言ったのよ!?」

 病院のど真ん中で愛はなんちゃらとやっているのだから、そりゃ未沙でなくても恥ずかしいわけである。

「それじゃ、結婚してくれるのかい?」

「あたりまえでしょう。一番好きな人から婚約指輪もらって突っ返す馬鹿がどこにいるのよ!」

「未沙」

 細く折れそうな体をクリストファーは抱きしめる。花の香りがして未沙はもう子供ではないのだと思い当たる。

「だーっ。クリス。人がいる。人がっ」

 昔のように言葉使いは子供と化しているがそれは照れているのだとクリストファーには手に取るようにわかる。

「それでは。次は結婚式だな。どこがいいか? 今ならマイクロフトが祝いにどこでもおさえてくれるぞ」

「クリスの馬鹿」

 未沙は小さくつぶやく。ん、とクリストファーが気を向ける。

「だれがつるぴかで式を挙げたいもんですか。せめて髪が肩まで伸びるまでは式を延期しますからね」

「未沙~~~~~」

 医学賞の受賞もまちがいなしの完璧なジェントルマンが困っているのをみると未沙はおかしくなってしまう。くすくすと笑う。

「大丈夫ですよ。指輪はしっかりもらいます」

 未沙は左手を差し出す。

「未沙、強くなったんじゃないか?」

 いつのまに対等に渡り合えるようになったのか。あーうとしか言えなかったこの「子」が・・・。

「さぁてね。これから一仕事待ってますもの」

 クリストファーはそっと未沙の左薬指に結婚指輪を通す。号数はつい先頃合わせたかのようにぴったりだった。心からの笑みが未沙からこぼれる。輝かんばかりでクリストファーは見惚れてしまう。

「で、一仕事って?」

 興味深げにクリストファーが問う。

「あら。子供じゃないの。あなたの後継者になる子をたくさん産まないといけないだからね。覚悟してよ」

 ちろん、とみられてクリストファーは一瞬蛇に睨まれたかと思った。シャーロックしかり、クリストファーしかり、奥方にはてんで弱いようである。


はい。クリスはオリキャラ。ワトソン君にそんな親戚いません。奥さんならメアリという名前のかたが複数いるけれど。いつのメアリかなんとかかは知りません。中途半端な知識しかないためいいかげんです。でも甘甘はあったと思います。すみません。それでは次の番外編で。

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