第二湯 異世界はゲロの香り(前編)
王宮の正門を駆け抜けながら、ユーナは考えた。
(なぜだろう。どうして、こうなったんだろう――)
彼女が暮らす、剣と魔法の世界・ピアー王国。
そこは一見、数百年前の地球とそっくりだが、お風呂文化が存在しない世界だった。
一日に何度も肌着を取り替え、大量の香水で体臭をごまかすことが、貴族のエチケットとされている。
貴族ですら、お風呂を知らない。ましてや、庶民の暮らしの不潔さたるや、推して知るべし。
ただし王国の人々は、平均して年に二回ほど、浄化の儀式に参列して祝福を受ける。この時に、汚れた体が魔法の力である程度清められる。
だが、あとは濡らした布で、体をたま拭く程度。髪を水で洗うのは、月に一回未満。水浴びは、基本的にしない。
ユーナは、その事の重大さに、今日初めて気がついた。
そして、その気づきの代償も、小さくはなかった。
(大事な社交界デビューは、台無しになってしまった……お招き頂いたパーティーから逃げ出し、王子殿下の靴を汚した。貴族令嬢としては、もう何もかもおしまいだぁ……)
その時、王宮前広場を颯爽と走るユーナの背後から、呼び止める声が聞こえた。彼女を探して追いかけてきた、騎士ヴァン・ダイノンの声だった。
「お嬢様! お待ち下さい、ユーナお嬢様!」
ユーナが振り返ると、御者のライアンが馬車を巧みに操縦して、ユーナのそばにピタリと寄せてきた。
ヴァン・ダイノンは、馬車のすぐ後ろを必死で走っていた。息を切らしながら追いつくと、馬車のドアをうやうやしく開けてみせる。
「ゼェ、ハァ……ユーナお嬢様。お帰りなら、せめて馬車を……」
ユーナは観念したように足を止め、苦笑いしながら馬車に乗りこんだ。
男爵家も普段使う馬車は所有しているが、今日ユーナが乗ってきたのは、借り物の馬車である。馬は2頭だけなのが男爵家の財力の限界だが、これでも無理をしたのだろう。金ピカに光る飾りがたくさん付いた、豪華な箱型馬車だった。
その馬車の中で、ユーナは帰り道の間、ずっと涙を流し続けていた。ヴァン・ダイノンが、慰めの言葉をかける。
「お嬢様、今夜はお疲れでしょう。帰ったら、ゆっくりお休み下さい……」
ヴァン・ダイノンは、彼女をわがままな小娘だとは思いつつも、なぜか突然パニックになって逃げ出したことには、同情の余地があると感じた。
男爵が余計なプレッシャーをかけすぎたのが悪いのだ。もともと、この子は社交界なんて向いてない。やはり、騎士の夢をあきらめ切れなかったのだろう、と。
しかし、ユーナが泣いている理由は、そんなことではなかった――。
――隣に座っているヴァン・ダイノンの汗の臭いがキツくて、泣いていたのだった。
確かに、今夜のパーティーに出かける前、父である男爵、ケーン・ユトリノ卿に、ユーナはさんざん釘を刺された。
「今日のパーティーが、お前にとっての初陣だ、ユーナ。社交界という名の戦場を駆け、未来の夫を捕まえよ。何ごとも最初が肝心。先手必勝だ。昔、私は魔族との戦いで手柄を立て、爵位を得た。だが、跡取り息子がいない。せっかく創設した男爵家だ。一代限りで終わらせたくはないんだ」
「お言葉ですが、男爵様。その話、ユーナさんには少し荷が重過ぎるのではありませんこと?」
ユーナの継母に当たるクレア夫人が口を挟み、いつものように皮肉をまくしたてた。
「ユーナさんは女性なのに、この春まで騎士学校で剣を振り回していたような方ではありませんか。まあ、体力不足で、とうとう従騎士にもなれませんでしたけど? ほら、男みたいにバッサリと短く切った髪だって、まだ伸びてませんしね」
クレア夫人と、その娘のエリザベスが、揃ってフフッと鼻で笑っていた。クレアとエリザベスは髪型も、王都で最近流行中の、高く結い上げて油で固めたお揃いのカチカチ盛り頭だ。
「お父様、王宮に早く行けるようになりたいですぅ。今日は王子殿下の誕生パーティーなんでしょう?エリザベスだったら、殿下のハートを射止めちゃいますのに」
十五歳のエリザベスは、甘い声で自分の存在価値をアピールしていた。男爵はエリザベスに言った。
「エリザベスも、来年は社交界デビューだな。だが、王子殿下は要らんぞ? 我が家からお妃候補が選ばれるわけがないし、万が一選ばれたとしても、結婚持参金が払えんから辞退する」
騎士出身のケーン・ユトリノ男爵は、故郷周辺の村を、男爵領として認められただけの零細領主。領地収入は、貴族としての体面を維持するのがギリギリだし、金儲けの才覚も特になかった。家族ぐるみで、王家とお付き合いする経済的余裕はない。
「王子殿下には、深く関わるな。適当な中流貴族の、次男・三男坊あたりを狙え。婿養子に迎えて爵位を継がせるんだ。分かったな?」
男爵はユーナをジロリと見つめて念を押すと、別の馬車に乗り込んで、クレア夫人と先に王宮へ向かったのだった。
ユーナは、本当は父親のように、騎士になって活躍したかった。そして、女性でも爵位を相続できるだけの十分な資質があるのだと、実力で認めさせたかった。
しかし、体力で男たちにかなわず、騎士学校を辞め、ユーナの夢はあっさり破れて、今日のパーティー参加に至る。
しかし、このような家庭事情も、今の彼女にとって、泣く理由にはならなかった。
(早くお風呂を自作して、入りたい! そして、人にもお風呂を勧めよう……)
ユーナの胸に、もはや悲しみはなかった。ただ、お風呂への熱い思いだけが満ちあふれていた。
――こうして、異世界湯けむり革命の伝説は始まった。
湯鳥野柚菜「次回、帰宅したユーナは……
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