第一話 4.疑惑(1)
今日も共に街を歩き回っていたザックと詰め所で別れ、アスタは訓練場へと向かった。太陽は沈みかけ、すっかり空は真っ赤に染まっている時間。けれど一日中街へ出ていては鍛練に費やす時間がない。既に隊員達のいなくなった後の訓練場で、アスタは一人剣を振る。しばらくそうしていたのだが、汗で手が滑り剣を落としてしまった。普段から鍛えてはいるものの、やはり利き腕ではない方で剣を持つと勝手が違う。
「あっ。」
慌ててそれを拾おうとした時するが、アスタよりも先に太い腕が落ちた剣の柄に伸びた。
「騎士が剣を落すなんて致命的だな。」
「アーロンさん。」
顔を上げた先に立っていたのは今日の勤務を終え、鎧を脱いだアーロンだった。彼は剣を拾い上げてアスタに手渡す。言葉は悪いが、白髪混じりの髪と髭面の彼の顔には笑みが浮かんでいた。軽装の袖から伸びる腕は硬い筋肉で覆われていて、齢五十になる事を感じさせない。
彼の目線がアスタの左肩に移動した。
「左はまだダメなのか?」
「えぇ。剣を振るにはまだ。」
普段の生活をする分にはそれほど支障はないが、左腕に力を籠めると痛みが走る。左の筋肉が落ちるのは避けたいけれど、無理をして怪我の治りが遅くなるよりはマシな筈だ。
袖で軽く汗を拭い、アスタは受け取った剣を腰の鞘に戻した。
「どうだ?例の噂の方は?」
「やはり噂の元を掴むのは難しいようです。そもそも本当なのかも曖昧ですし。」
思わず苦笑いするアスタを見て、アーロンも「まぁ、そうだろうな」と一人ごちた。
「だがなぁ、アスタ。昼に出回る噂なんて、近所の女共がする井戸端会議から出たものぐらいだろ?謀反なんて物騒な話が出るなら、昼に聞きまわったんじゃしっぽは掴めないんじゃないのか?」
アーロンの言葉を聞き、成る程とアスタは納得した。確かに謀反の様な暗い噂が囁かれるのなら、昼の街中ではなく夜だろう。それも男の社交場と言ったら酒場や娼館、賭博場などに限られる。だがこの辺境の街に娼館や賭博場はない。ならば酒場だ。
アスタは神妙な表情で頷くと早速今日から行ってみようと思い立つ。けれどすぐにその案は駄目だと気がついた。
「アーロンさん。」
「あ?」
「実は俺、しばらく医者に酒を止められているんですよ。」
酒場で酒を呑んでいなければ当然目立ってしまう。店主の印象にも残るだろう。聞き込みではなるべく目立たないようにするのが鉄則。それが今のアスタには不可能だった。
「何?怪我と酒は関係あるめぇ。」
胃と肩では場所が違うだろう、と言う実にアーロンらしい主張に思わず笑ってしまう。
「それが、医者から処方して貰ってる薬が酒と相性悪いらしくて。もし良ければアーロンさんに手伝っていただきたいんですが。」
「そりゃあ、構わねぇが。聞き込みの一環なんだ。酒代は経費で落ちるんだろうな。」
短く刈った顎鬚を手で撫でながら、アーロンがにやりと笑う。当然そう来るだろうと思っていたので、アスタとしてもそれを否定する気はなかった。
「検討しておきます。行く時はザックを連れて行って下さい。諜報活動には向いている人材ですから。」
「あぁ。分かった。なら、今日からでも行ってくらぁ。」
「お願いします。」
頭を下げ、アスタは詰め所に戻っていくアーロンの大きな背中を見送った。ザックを連れて行って欲しいと頼んだのは当然彼の能力を買ってのことだが、先日ザックから聞いた話が頭をよぎったのが大きかった。ザックは過去の話をアーロンにする気はないと言っていたが、それを抜きにしてもゆっくり二人で話をする機会を作ってやりたかったのだ。あの戦争で誰もが多くのものを失った。だからこそ、今の時代に残った人々の絆は大切にしたい。
アスタは再び柄を右手で握り滑らかな動きで抜刀した。型にそって踏み込み、剣を振り下ろす。その動作は陽が落ちるまで続けられた。
三日後。アスタはザックから聞き込みの報告を受ける為に彼を隊長室に呼んでいた。連日夜にあちこちの酒場を渡り歩いていただろうに、若い部下から疲れた様子は窺えない。二人はそれぞれソファに向かい合わせに座り、まずアスタが労いの言葉をかけた。
「ここの所休み無しですまなかったな。」
「いえ。夜の勤務代わっていただいてありがとうございました。」
「昼夜なしに働いて貰ってるんだ。当然だろう。それで、何か分かったか?」
「えぇ。」
表情豊かではないザックの表情がそれでも硬くなるのが分かった。
「この辺りの酒場ではどこでも似たような噂が飛び交っていました。現在の王政に不満を持っている者がいると。」
「謀反の話か?」
「具体的に謀反の動きを見せているという話はそれほどありませんでした。不満を持っているだけならどこにでもいるでしょうし、それほど問題はないと思います。ただ・・」
そこでザックは言葉を切った。どう話をしたらいいのか迷っているようだ。アスタは無理に話を進めようとはせず、黙って彼の口が開くのを待つ。
「それとは別に、異国の人間が街の人間をたぶらかそうとしている、という話がありました。」
「異国の人間?」
「えぇ。それらの話が混ざって謀反だとの噂が広まったんだと思います。」
この街に居る異国の人間。そう聞いて頭に浮かぶのはただ一人。黒髪に黒い瞳の女性。彼女は確かにこの国の人間ではないと言っていた。旅をしているのだと。
ザックは顔を曇らせたアスタの表情を窺いながら、言葉を続けた。
「サラサ川沿いの酒場ではバールの酒場で唄っている歌手が街の人間を謀反に先導しているという話になっていました。」
「シンガーの事か。」
「えぇ。」
今度はザックがアスタの言葉を待った。初めてシンガーを見たあの日から数回ザックも仲間達と共にあの店を訪れている。客の前で唄っている彼女も、幼いマナの面倒を見ている彼女も、どれも今回の噂とは程遠い気がした。それに彼女はアスタの家に見舞いに訪れたこともあるという。すでにアスタとシンガーは友人と言っても良い仲なのだ。アスタが彼女にどういった対応を取るのか、ザックにも予想できなかった。
一方、アスタは困惑していた。まさかこんな所で彼女の名を聞くことになるとは思わなかったのだ。異国の人間はどうしても何かあれば疑われ易い。暗によそ者だと思われている証拠だ。今までそんな話などなかった平凡な街に不穏な動きがあると分かれば、街の人間よりも外から来た彼女に疑いの目が行くのは仕方が無い事なのかもしれない。
バールの店にだけ出入りしていたのでは、今回の噂がアスタの耳に入ってこなかったのも頷けた。だが、それを知った今でも彼女が謀反を先導するような人間には思えない。自分の家で楽しそうに歌を唄っていたシンガーを疑う事など今のアスタには出来そうになかった。しかしだからこそ、この件を人任せにすることは出来ない。
「俺が、直接彼女と話をしてみよう。」
やっと口にしたアスタの一言に、ザックは何も言わずに頷く。詳しい話はしなかったが、恐らく一人で話をする気なのだと分かる。
「今日行くんですか?」
「あぁ。そのつもりだ。ザックは、今夜はゆっくり休んでくれ。」
「はい。」
「アーロンさんにもお礼を言わないとな。」
アーロンの名前が出て、ザックはソファから立ち上がろうとしたその動きを止めた。
「隊長。」
「ん?どうした?」
「俺、アーロンさんと話が出来て、嬉しかったです。」
ザックが照れているような表情で頭を下げる。珍しい彼の表情に、アスタの顔にも笑みが浮かんだ。こうして感情を表に出せば、普段大人っぽい彼もまだ若い青年なんだと改めて実感できる。
「そうか。」
アーロンの下で働きたいとザックは第八騎士団を希望した。普段任務を共にしていてもじっくり話をする機会などこれまでなかった筈だ。仲間達と酒場に行ってもザックはそれほど自分から話をする方ではないから、今回は良い機会だったのだろう。
「今回の件が片付いたら、また皆でゆっくり酒を呑みに行こう。」
「はい。」
二人は控えめな笑顔を交わして立ち上がる。隊長室を出て、互いに警備の仕事へと向かった。