第一話 3.恋(2)
* * *
アスタとザックが駐屯地に戻ると、城に行っていたトレンツェが一足先に帰っていた。詰め所に騎士達を集め、まず口を開いたのは隊長であるアスタだった。
「急に召集かけてすまないな。今日集まって貰ったのはトレンツェが宰相からの伝言を預かってきたからだ。トレンツェ。」
アスタが目配せすると、隣に控えていたトレンツェが一歩前に出る。詰め所には全部で三十人ほどの騎士達が綺麗な列を作って副隊長の言葉を待っていた。今日休みの者も合わせれば第八騎士団は全部で五十名ほどになる。他の騎士団に比べるとその平均年齢は高い。
トレンツェはいかにも副隊長らしく皆の顔を見渡した。
「今アスタ隊長からご説明のあった通り、お預りしたお言葉を申し伝える。王への、しいては国への謀反をほのめかしているものがこの街に居るとの噂が陛下の耳にも届いている。我が第八騎士団は速やかにその人物を探し出し、しかるべき処分を下せよとの宰相殿からのお言葉だ。」
それだけ言ってトレンツェは後ろに下がった。だが他の隊員達と共にそれを聞いていたダンジェは眉間に皺を寄せてそれを引き止めた。
「おいおい、ちょっと待てよ。それだけか?」
ダンジェの真意が分からず、トレンツェは眉根を寄せる。
「宰相殿からの伝言は以上だか?」
「お前なぁ、そりゃ・・」
片手を上げてアスタはダンジェの口を閉じさせる。不服そうな彼と視線を交わすと、トレンツェを振り返った。
「トレンツェ。」
「はい。」
「俺の代わりに遠方までご苦労だったな。」
アスタは表情を和らげ、隊員達に向き直った。
「噂の元を突き止めると言ってもそう簡単にいくものじゃない。詳しいことが分かるまでは不用意に騎士団を動かすわけにもいかないだろう。街の人々をいたずらに怯えさせる事は避けたい。そこで、今日と同様明日から俺とザックが噂の調査に出る。トレンツェに警備の指揮は任せるから、皆は警備に専念して貰いたい。今回の噂に関して何か気になることを耳にした場合、どんな些細な事でもいい。必ず俺に報告してくれ。今日は以上だ。」
アスタの言葉で皆が解散し、それぞれの持ち場に戻って行った。ある程度人が掃けるのを待つと、再びアスタはトレンツェに声をかける。
「トレンツェ。」
「はい。」
「今日はもう下がっていい。明日からの指揮を頼む。」
「はい。お疲れ様でした。」
「あぁ。お疲れ。」
まだその場に残っていたダンジェはトレンツェが部屋を出るのを見送り、納得のいかない顔でアスタに詰め寄った。
「おい、アスタ。」
ダンジェは不機嫌を隠そうともしない態度を見せるが、彼の言いたい事は十分分かっている。アスタは苦笑して応えた。
「そんな顔するなよ。」
「伝言をそのまま口上することならガキにだって出来る。こっちはただでさえ情報が少ないんだ。命があったのなら、それなりに宰相から詳しい事を聞きだしてくるべきだろう。」
「分かってるよ。後でトレンツェには俺から言っておく。」
だがダンジェは引き下がらない。アスタの表情から真意を読み取ろうと、睨むように彼の表情を窺う。
「何故あの場で言わなかった?」
「・・皆の前で恥をかかせる必要も無い。」
「ったく。お前、トレンツェに甘すぎやしないか?」
「そうかな?」
「・・・。何考えてる?」
「別に、何も。」
腕を組み、指で腕をトントンと叩くのはダンジェがイライラしている時の癖だ。それを視界に収めて、アスタはあくまで穏やかな表情を向ける。それを見たダンジェはチッと舌打ちしてすぐに踵を返した。アスタはそれを見送り、扉が閉まった後に息を吐いた。
元々アスタは隠し事が得意ではない。相手がダンジェなら尚更だ。それでも悟られないようにしているのは、二十八年生きてきた経験が成しえるものに他ならない。
(何を、か・・・。)
口にすればきっと親友は怒るだろう。
(いや、あいつなら黙っていたこと自体怒るんだろうな。)
怒られると分かっていてもアスタの口元に浮かぶのは笑み。それは彼が、自分の事を思ってくれている故だと知っているからこそ。
アスタは最後に詰め所を出た。太陽はもう山の向こうに沈んでいて、アスタの頭上には北の一番星が輝いていた。
久しぶりに訪れた酒場は相変わらず多くの客で賑わっていた。店内を見渡しながら奥に進むと目的の顔と目が合った。肩までの髪を二つに括った幼い少女はアスタの顔を見るなり座っていた席から飛び降り、アスタの方へ駆けてきた。
「アスタ!!」
「マナ。久しぶりだな。」
腰に飛びついてきた彼女の頭を撫でると満面の笑みでマナはアスタを見上げる。
「ママ!アスタが来たよ!!」
マナはアスタの手を握り、そのままグラスを運んでいたターナの元へ引っ張っていった。ターナもアスタの顔を見て笑みを浮かべた。
「あら。お体の方はもうよろしいんですか?」
「えぇ。療養中はお見舞いの品まで戴いてしまって、ありがとうございました。」
「いいえ。いいんですよ、あのくらい。こちらこそいつもマナがお世話になっていて。」
すると、二人を見上げていたマナが頬を膨らませる。
「違うもん!マナがアスタをお世話してあげてるんだもん!」
「マナ!なんてこと言うの。失礼でしょ。」
ターナはマナをたしなめるが、アスタが気分を害した様子はない。むしろその言葉を聞いて笑っていた。
「あはははっ。マナも、見舞いにわざわざ来てくれてありがとな。」
「うん!!」
「アスタさん。何か飲みますか?」
「いや、今日はお礼を言いに来ただけだから。」
「えぇ!アスタもう帰っちゃうの?」
「ごめんな。まだ本調子じゃなくてね。」
すると先ほどまで笑顔だったマナの顔がみるみるうちに不機嫌なものに変わる。アスタはターナと共に宥めていたのだが、しばらくすると彼女は客に呼ばれて行ってしまった。
「じゃあ、俺ももう行くな。」
踵を返そうとするが、マナはアスタの右手をがっちり掴んだまま離そうとしない。
「マナ。」
「ね、これからシンガーが唄うの。それだけ聴いてってよ。お願い。」
店の中央を見ると確かにシンガーが客の前でお辞儀をしている。アスタが「分かったよ」と答えると、二人は端のカウンター席に並んで座った。
シンガーの姿を見るのも久しぶりだ。彼女の歌を聴くのは、マナと二人で家までお見舞いに来てくれたあの日以来だった。どうやら客からのリクエストがあったようで、シンガーの近くに座っていた女性客が「恋の歌を」と言ったのがアスタの耳に入った。シンガーはそのお客に向かってにこりと笑い、ゆっくりと息を吸う。彼女の唇が開き、そこから流れ出たメロディーはゆったりとしたバラードだった。
“どうかこの歌を聴いて
あなたを傷つけた言葉なんて嘘
この歌だけが私の心 本当の気持ちを示しているから
雪のように積もる切なさ あなたの温もりで溶かして欲しい
出てきた芽はやがて花開き 美しい想いに形を変える
風に乗せて届けるのは あなたを思うこの歌だけ
どうかこの歌を聴いて
あなたの全てを抱きしめたい
それが出来ない臆病な私の 精一杯の歌だから”
彼女の声がオレンジ色のランプに照らされた店内にゆっくりと染みていくようだ。客の誰もが口を閉じてその心地よい旋律に聞き入っている。
シンガーが唄っているのは片想いをしている女性の歌。そして心に秘めた想いをメロディーにのせて相手に伝える為の歌。まるで彼女自身が今誰かに恋をしているような錯覚に陥って、アスタは何故か自分が落ち着かなくなるのを感じていた。
“心を傷つける無責任な刃 傷はあなたに触れることで消える
その背中に縋っていられたら きっと楽なままでいられたのに
私の声を空気に溶かして 溢れる想いが届けばいい
どうかこの歌を聴いて
真っ直ぐに私を見て欲しい
勇気を振り絞って歌う 私の全てを籠めるから
どうかこの歌を聴いて
言葉に出来ない想いをのせる
胸にあるたった一つの言葉 あなただけを愛してる”
ビブラートのかかった高音が空気に溶けていく。歌が終わり彼女がお辞儀をすると、店内は沢山の拍手で一杯になった。彼女が笑顔でその拍手に応える。その表情にアスタは釘付けになっていた。
『愛してる』
彼女が歌ったその歌詞がやけに自分を動揺させている。ドクドクと自分の心臓がやけに煩い。
(嘘だろ・・。)
あまりに頭が混乱していて、アスタは店内を沸かせたその歌手に拍手一つ出来ずにいた。
彼女が魅力的なのは分かる。若いし、歌が上手い。それ以上に人々を惹きつける魅力を彼女自身持っている。だが自分はもう二十八だ。それなのに、ろくに知らないような相手にこれほど惹かれることなど、もうないと思っていた。恋なんてものに今更振り回される事になるなんて。
「アスタ?」
アスタの様子がおかしいと気付いたマナは彼の袖を引っ張った。アスタはそこでやっと我に返る。慌てて自分を見上げているマナに笑顔を向けた。
「ごめん。ぼーっとしてた。」
「もう!ちゃんとシンガーの歌聴いてたの?」
「あぁ。聴いてたよ。いい歌だった。」
これ以上この場に居るのに耐えられなくて、アスタはマナ達に挨拶をするとそそくさと店を出た。見舞いの礼の為に来たのだから、当然シンガーにも声をかけるべきだがそれは出来なかった。恋を自覚した恥ずかしさと、それとは反対に彼女を想うと浮かれそうになる感情でアスタの頭の中は一杯だったのだ。