第一話 2.シンガー(4)
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朝の日差しが開けられた窓から差し込んでいる。部屋の中に入ってくる心地よい風を感じながら、アスタは一人汗を流していた。何も着ていない上半身の左肩と胸にかけて真っ白な包帯が巻かれている。アスタは怪我をしていない方の手一本で黙々と腕立て伏せをしているのだ。怪我で仕事が出来ないからといって、何日も体を動かしていないのではなまってしまう。熱も引いたし、少しくらいはいいだろうと思って柔軟から始まり、こうして腕立てを続けていた。
するとガチャッという音と共に木製のドアが開く。そちらに目を向ければ驚いた表情をしている女性と目が合った。美しい金髪は顎の辺りで切りそろえられ、女性らしい長い水色のスカートがよく似合っている。
「あ、イレーヌ。おはよう。」
腕立て伏せの状態のまま声をかけると、我に返ったイレーヌは次に目を吊り上げた。
「アスタさん!ダメじゃないですか、まだ安静にしてなくちゃ!!」
イレーヌはこの街で育った女性で、農場を営んでいる家の一人娘だ。この街に来てから知り合い、もう二年以上の付き合いになる。
「いや、寝てばっかりじゃ暇だし・・。」
「お医者さんの言う事聞かない人にはご飯作ってあげませんよ!」
「・・すいません。」
怪我をしてからは彼女が食事などの面倒をみてくれていた。アスタは左肩を負傷してしまった為、上手く利き手の左腕が使えない。元々得意ではない家事を右手一本でこなせる筈も無く、素直に彼女の好意に甘えている。
アスタは汗を拭うと仕方なく上着を羽織ってベッドに腰掛けた。それを確認してからイレーヌは自分の家から持参してきたエプロンを付け、キッチンで食事の準備を始める。
しばらくして良い匂いがしてくると、手馴れた様子でイレーヌは料理を並べていく。彼女は自宅でいつも食事を済ませてから来るので遠慮なくアスタは一人で食事を始めた。食べ終わった頃には昼の分まで料理を作ってくれていた。
「ご馳走様。美味しかったよ。」
「隊長さんはいつもそう言ってくれるから、作り甲斐があるわ。」
嬉しそうに笑い、彼女は食器を下げて後片付けを始めた。片付けくらいは自分でやるからと以前言ったのだが、アスタが片手でやっているのが危なかっしくて見ていられないと却下されてしまったのだ。
少なくとも彼女が家にいる間は大人しくしていないと怒られてしまうので、アスタは再びベッドに戻った。歳は自分の方が上なのだが、隊長だろうが年上だろうが関係なく彼女は素直に自分の言いたいことを口にする。年下の女性に怒られるなんて情けないことだが、口では到底勝てる気がしない相手だ。
彼女が帰ったら掃除でもしようかな、とアスタは部屋を見渡した。彼の家はそれほど広くない。隊長と言っても男の一人暮らしだし、仕事に出ていることがほとんどなので物も少ない。二十畳ほどの部屋にベッド、本棚、キッチン、暖炉など全てがある。風呂やトイレの他に部屋は無い。広いと掃除が面倒なので、これで十分だとアスタは思っている。
しばらくするとコンコンッとドアをノックする音がした。来客の予定は無いので首を傾げると、イレーヌが玄関まで行ってくれた。
「はい。・・あら。」
イレーヌが驚いた声を上げる。気になってアスタも玄関まで行けばそこに立っていたのは幼い少女だった。若草色のワンピースを着て、手には大きな籠を持っている。
「マナ!」
イレーヌの後ろからアスタが顔を見せると、知らない女性が出てきたことに驚いていたマナは途端に笑顔を見せた。
「あ、アスタだ!!」
籠を持っていた手を離してアスタに飛びつく。同時に籠が玄関に転がった。
「マナ。どうしてここに?」
「へへへぇ。お見舞い!アスタのお友達にお家の場所を聞いたの!」
そんな二人を見て、驚いていたイレーヌも笑みを浮かべる。
「可愛いお友達ね。アスタさん。」
「あぁ。酒場で働いてるターナの娘さんなんだ。」
落とされたままだった籠をマナの後ろから現れた白い手が持ち上げる。そして、その手の主は控えめに彼らに声をかけた。
「あの・・。」
アスタが顔を上げてそちらを見る。黒い髪に黒い瞳。玄関に立っていたのはシンガーだった。
木の丸テーブルの上ではイレーヌが淹れてくれたお茶が湯気を立てている。彼女は既にアスタの家を出ていて、今頃自分の家の家事をしているか、家業である農業を手伝っている頃だろう。
見舞いの品だとマナが持ってきてくれたターナお手製の焼き菓子を頬張りながら、アスタはマナの話に耳を傾けていた。
「でね、ママがね、仕事で一緒に来られなくなっちゃったの。」
「そうか。ターナさんにもお礼を言っておいて。美味しいお菓子をありがとうって。」
「うん!」
どうやら母親と共にアスタの見舞いに来るつもりだったらしいが、仕事が抜けられなかったらしい。酒場は夜からだが、昼でもやる事は山ほどある。そこで手の空いていたシンガーを連れ出したそうだ。
(それにしても・・・。)
アスタはちらりとシンガーの様子を伺う。彼女も笑いながらマナの話に相槌を打っているが、どうにも彼女が自分の家にいると思うと落ち着かない。
「アスタ。」
「ん?」
「怪我、痛い?」
「ん、あぁ。」
服の袖からはみ出た包帯を見ながら、マナが心配そうに呟いた。
「大した事は無いんだ。しばらく休めばすぐに動けるようになるよ。」
笑って答えると少し安心したのかマナの表情が柔らぐ。
「そう言えば、俺の友達に家を聞いたって言ってたけど?」
「あ、えっとね。えーっと・・・。」
名前が思い出せないのか、マナは必死に頭を捻っている。その様子にクスリと笑って、代わりにシンガーが口を開いた。
「ダンジェさんです。」
「あ、そう!ダンジェ!!」
「あぁ。店で会ったんだ?」
「会ったよ!友達になった。」
「ははっ。そうか。」
それを聞いて嬉しそうにアスタが笑う。そんな彼を横目にしながら、シンガーには気になっていることがあった。それは先程この家にいたイレーヌという女性。家の中を見れば彼女が作った料理がキッチンに並んでいる。独身とは言え、アスタも良い歳だ。恋人ぐらいいてもおかしくないのだが、ダンジェ達はそんなことは言っていなかった。
「シンガー?」
ぼーっとしているのに気付いたマナが小首を傾げてシンガーを見上げる。慌ててシンガーは笑顔を作った。
「ごめん。ぼけっとしちゃって。」
まさか二人の前で先程の女性が気になっていたなんて言えない。曖昧に笑っていると、ベッドの脇に置かれた剣が目に入った。
(・・剣。)
二人の前で穏やかな表情を見せるアスタには似合わない代物だった。護身用だろうか。随分と使い込まれている。
「ねぇ。イレーヌはなんで帰っちゃったの?」
マナが投げかけた疑問にシンガーは思わず息を止めた。不自然じゃないようにアスタの表情を窺いながら答えを待つ。
「あぁ。彼女も自分の家の仕事があるんだよ。」
「ここに住んでるんじゃないの?」
「いや。そうか、ダンジェからは聞いていないかもしれないけど、イレーヌは彼の奥さんなんだよ。」
(え・・・・。)
思わぬ回答にシンガーは目を見張った。
「ダンジェから俺の怪我のことを聞いてね。わざわざ子育てと家事の合間に料理を作りに来てくれてるんだ。」
(あ、そう言う事・・・)
なんだか気が抜けてしまって、シンガーは椅子の背もたれに身を預けた。先程までのソワソワした気持ちも落ち着いて、やっと目の前のお茶に手を伸ばす。
(おいし・・・。)
遅まきながらもイレーヌのお茶を味わい、シンガーはほっと息を付いた。
「ねぇ。早く怪我が治るお歌ってないの?」
しばらくしてマナにそう言われ、シンガーは頭を捻った。
「うーん。聞いた事無いなぁ。」
「そっかぁ・・。」
その回答にマナは残念そうに呟いた。目に見えて肩を落すマナの姿にシンガーは慌てたが、マナはすぐに顔を上げた。
「じゃあ、元気になる歌!」
その切り替えの早さに思わずシンガーから笑みが零れる。同時に頭にある歌の中から一つを選んだ。そしてあまり近くで見られると恥ずかしいから、と言って席を立つ。キッチンの方まで行くと、アスタとマナに向かって店で歌う時のようにお辞儀をした。パチパチと二人分の拍手に包まれ、シンガーは息を吸う。
“目を開けて さぁ行こう
ドアを開ければ世界が広がる
桃色の花に 緑の木
見上げれば水色の空 お日様が光ってる
泣いてるの? 怒ってる?
前を向いて僕と行こうよ
風が全てを攫ってくれる
下を見ればモグラ達 顔を出して歌ってる”
分かり易いアップテンポなメロディーにマナは体を揺らしながら聴き入っている。楽しそうに唄うシンガーと楽しそうに耳を傾けるマナ。どちらにも笑顔があって、成る程、確かに元気になる曲だ、とアスタは思った。
“越えていこう どんな涙も
手を繋いで共に歩こう
七色の虹が空にかかるよ
君が笑えば僕ら どこまでだって行けるんだ”
唄い終わってシンガーが再び一礼する。マナもアスタも先程より大きな拍手を彼女に送った。照れくさそうに笑う彼女は本当に眩しく美しかった。