第一話 2.シンガー(2)
* * *
この日、アスタは夜の警備を請け負っていた。石造りの壁と門が国境を守っているが、城壁とは違いそれ程立派な造りではない。当然警備が必要になる。壁の外は若い騎士達に任せ、隊長であるアスタは壁の上から周囲を監視する。だが、至って今日も平和だ。
欠伸をかみ殺しながら足音のする方へ目を向けると、こちらに向かって歩いてくるのはダンジェだった。
「なんだ。今日は夜勤なのか?」
彼の姿を見て、アスタは眉根を寄せた。
ダンジェは二年前に結婚し、生まれたばかりの娘が一人いる。家庭を守るのも立派な男の務めだ。だから戦力配分に注意しながらも、家庭を持つものは出来るだけ夜勤には当たらないよう警備を組んでいるのだ。
「隊長自ら出張っているのに俺がサボるわけにはいかないだろ?」
「馬鹿言うな。俺は独身だぞ。無理に家に帰る必要はない。お前とは違うだろ。」
「まぁまぁ。そう言うなって。」
笑いながらダンジェはアスタの隣に立った。
「あんまり真面目過ぎるのも考えものだぞ。アスタ。」
「なんだ急に。」
「そんなんだからいつまで経っても女が出来ないんだ。」
「・・・放っといてくれ。」
ダンジェは昔から変わらない。見習いだった頃も戦争中も。戦時中は皆それぞれに傷を負っていた。それは体の傷だけではない。心の傷もだ。そんな彼らをダンジェは持ち前の明るさと開けっぴろげな性格で時には士気を上げ、時には癒してきた。それはアスタも同じ。自分は彼にずっと助けられてきたと思う。なくてはならない戦友、そして親友だ。
ピ――――ッ
「!?」
笛の音が聞こえてアスタとダンジェは顔を見合わせた。この笛は何かを発見した時や異変が起きた時に騎士が鳴らすものだ。目を凝らして辺りを見ると、森近くの防壁の前で松明を振っているのが見えた。
「アスタ!オオカミだ!」
ダンジェが指差す方にすばやく視線を移せばその近くに一匹のオオカミが見える。かなり大型で毛並みは浅黒い。それを確認してアスタはダンジェを伴いすばやく現場に向かった。
この場所ではたまに森からオオカミが姿を見せることがある。それでも防壁に阻まれ街の中に入ってこない筈なのだが、危険がないよう森の中へ追い払うのも警備の務めだ。けれど、あのオオカミは少し様子が違うように見えた。餌を求めて森から出て来たにしてはやけに興奮している。
「おい!人がいるぞ!!」
近くまで来るとオオカミから逃げるように男が木の上に登っていた。背中に弓を背負っている所を見ると猟師のようだが、矢筒の中にはもう矢が無いのかもしれない。オオカミを追い払おうとはせず、ただ木の上で怯えていた。それに気付いた騎士の一人が松明の火で追い払おうとオオカミの前でそれを振り回している。獣は火を恐れるのが常だが、オオカミはそれを警戒しつつも猟師から離れようとしない。
(おかしい・・・。)
ダンジェも仲間から松明を受け取り、どうにか猟師が避難している木からオオカミを離そうと回り込む。だが、予想外にもオオカミは火を持っているダンジェに向かって飛びついた。
「ダンジェ!」
素早く腰の剣を抜き、アスタはオオカミの腹に向かって切りつける。オオカミは飛びのき、切られた腹から血が流れ地面に落ちる。
(何故逃げないんだ。)
通常勝ち目が無いと分かれば、獣はそれ以上襲ってはこない。そもそも獲物を狩る為ではない筈だから、ここまで猟師を追い詰めようとするのはおかしな事だった。
ダンジェも松明を持ち替え、利き手で剣を抜く。一方オオカミは両足を大地に突っ張り、いつでも跳びかかれる低い姿勢でこちらを窺っていた。相手は手負いの獣。だからこそ油断は出来ない。
緊張感がその場を包む。そんな中、突然男の悲鳴が後ろから聞こえた。
「ひっ。」
木の上から足を滑らせたらしい。何とか両腕で枝にすがり付いているものの、足が宙に浮きバタバタともがいている。
アスタとダンジェがそちらに気を向けたその一瞬をオオカミは見逃さなかった。松明を持っているダンジェではなく、今度はアスタの首元を狙って飛び出してくる。アスタは姿勢を落としてそれを避けようとするが、その動きを止めた。とうとう木から落ちてしまった猟師が自分の後ろにいることに気付いたのだ。アスタが避ければ、オオカミは一直線に後ろにいる彼を襲うだろう。
アスタは避けずに剣を繰り出そうとするが、その前にオオカミの牙がアスタの肩に食い込んだ。
「くっ!」
「アスタ!!」
肩が熱い。けれど退かずにそのまま肩でオオカミの体を押しのける。ヘタに引けば傷が酷くなるだけだからだ。オオカミはアスタの体から離れるが、それも一瞬。再びずらりと牙の並ぶ口を開け襲ってくる。だが冷静にアスタはオオカミの喉元に剣を突き立てた。
鈍い感触が剣を通して伝わってくる。しばらく苦しそうにもがいていたが、アスタが傷を抉る様に剣を捻り、大量の鮮血が流れると共にその体は動かなくなった。
剣を抜き、腰元の布で拭って鞘に収める。黙祷をしてからアスタはしばらく足元に転がったその遺体から目を離さなかった。剣を握っていた手が流れる血で染まっている。自分の肩から流れる血なのか、それともオオカミのものなのか、アスタには分からなかった。
その間に保護された猟師は必死に騎士達に頭を下げている。礼を言ってその場から去ろうとするその男をアスタは引き止めた。
「待て。」
「へ?」
「その背の荷を降ろしてもらおう。」
アスタが厳しい目で猟師を見ると途端に無精髭の男の顔色が青くなる。後ずさりする彼の後ろにダンジェが立てば、おどおどした態度で彼は弓と矢筒、そして黒い皮袋を下ろした。アスタはその中から迷わず皮袋を手に取る。それはかなりの重さがあった。中を開けるとそれを見たダンジェが眉間の皺を深くした。
「やはりか。」
中に入っていたのはオオカミの子供だった。調べれば腹と首に矢傷がある。先程のオオカミはメスだった。連れ去られた子供を追ってのことだったのだろう。
獣は当然商用価値がある。肉でも毛皮でも市場に出せば金になるのだ。けれどユフィリルの法は幼獣を狩ることを禁止している。
「連れて行け。」
その一言で騎士二人が猟師を連行していく。それ程大きな罪にはならないが、そのせいで母オオカミも犠牲になってしまった。
アスタは仔が入った皮袋を担ぎ、母オオカミの元へ歩み寄る。それに気付いたダンジェがその背に声をかけた。
「アスタ?」
「埋めてくる。」
身勝手な人間のせいでオオカミの親子が犠牲になってしまった。これくらいしか、アスタにはしてやれることが無い。
暗い感情が自分の腹に溜まっていく気がした。
「馬鹿野郎。お前は傷の手当てが先だ。こいつらは俺が埋めてくる。」
ダンジェはアスタの手から皮袋を奪い取り、軽々と大きなオオカミの体を持ち上げる。そして一度アスタを振り返った。
「お前・・。いや、いい。」
「なんだよ。」
「さっさと宿舎に戻って手当てして来い。」
「あぁ。すまない。」
森の中に入っていくダンジェを見送り、アスタは他の騎士達と共に門の中に入る。死に物狂いのオオカミから受けた傷は思ったよりも深く、アスタは医師に手当てを受けた後も傷からくる熱に苦しむ事となった。