第三話 5.答え(1)
シンガーはその日、紺色のワンピースを着ていつものように店に出ていた。彼女の身に馴染んだそれは旅に出た頃から着ているもので、初めてバールの店を訪れた時の服でもある。華やかな色でこそ無いものの、彼女の黒髪に良く似合う一着だった。
今夜も沢山のお客がこの酒場の席を埋めているが、シンガーはまだ一曲も披露していない。彼らはそれぞれに酒と会話を楽しみながらもそれを今か今かと待っている。それでもシンガーはひらりひらりとお客に笑顔を振りまきながら、唄うことはしなかった。待っているのだ。唄うべきその時を。今夜唄うのは一曲だけと決めているから。
カランカランッと金属製のドアベルが鳴る。シンガーが顔を上げてそちらを見ると、そこにいたのはアスタだった。仕事終わりで真っ直ぐここに来たのだろう。今までよりも少し店に来る時間が早い。
毎日シンガーがアスタの家を訪れるようになってから、彼はこの店に通わなくなっていた。久しぶりに顔を出したアスタに馴染み客が次々と声を掛ける。第十二騎士団への異動の話があってから既に三週間。人々も彼がこの街を離れると知っていた。一人でこの店に来た時はいつもカウンター席で落ちついていたアスタも、今日ばかりはそうもいかず、客達に呼ばれてテーブル席に着いている。
今日、アスタは酒場の人達に挨拶をしにここへ来ると聞いていた。だからシンガーは待っていたのだ。彼の前で唄う時を。いつもとは違う緊張感がシンガーを包む。客と話をしているアスタの笑顔を見ていると、胸が詰まりそうな、気を緩めれば座り込んでしまいそうな気がしてぐっと両手を握った。周りの客は彼がいなくなることを寂しがり、また激励の言葉を次々かける。何度目になるのか分からない乾杯をするアスタも同じく複雑な笑顔を浮かべていた。
「シンガー。」
「・・え?」
カウンターに座ってその様子を見ていたシンガーは不意に呼ばれて振り返った。向かいには客の酒を作っているバールがいる。彼はちらりとアスタの方を見ると再び手を動かした。
「大丈夫かい?」
バールには何も話をしていない筈なのに、まるで彼はシンガーがこれから何をしようとしているのか察しているかのようだ。その労わりの言葉がほんの少し自分を後押ししてくれる。シンガーはなんとか口の端を上げて笑った。
「うん。大丈夫。ありがとう、バールさん。」
「いいさ。今夜も良い歌を唄ってくれればね。」
「はい。」
ようやくシンガーは座っていた椅子から腰を上げる。彼女が酒場の中央に進んだ事に気付いて、客達はそれぞれに雑談を止めて彼女に注目した。酒場には似つかわしくない一瞬の静寂。シンガーは客に紛れて座るアスタを見る。彼も真っ直ぐにシンガーを見ていた。
「皆さん。今夜もお店に足を運んでくれてありがとうございます。」
シンガーが軽く腰を下げて礼をすると、一斉に拍手や歓声が起こる。シンガーはくるりと客席を見渡して言った。
「今宵は旅の歌を。」
目を閉じて、静かに深く息を吸う。唄う前にいつも自分を包む少しの緊張、そして静かな興奮からくる微熱。
(大丈夫、唄える。)
頭の中で浮かぶメロディーをシンガーはそっとなぞった。
“私は闇の中にいた
足元の見えないこの道を 震えながら歩いていた
知らない間にこの両手は 空っぽになっていた”
目を開けて自分の両手を目の高さにかざす。
旅を始めたばかりのあの頃、シンガーは何も持っていなかった。そして何も持っていないことに絶望しながら、それでもがむしゃらに進むしかなかった。上げた両手を重ねて自分の胸の上に置く。そして再び目を閉じた。
“私は闇の中にいた
昔感じた温度も忘れて ただ前を向いていた
振り返ることをしなくなって どちらが前か分からない
夢に見ていた筈の未来は 用意されていたあの場所は
あっという間に消えてしまった
ただがむしゃらに進むだけ 思い出せないあなたの名前”
当たり前にあったものを全て失って、誰を恨めばいいのかすら分からない。そんな日が続いていたあの頃が流れるメロディーと重なり、シンガーの口から零れていく。いつもとは色の違う歌に客達は黙って耳を澄ましている。
“私は闇の中にいた
目から零れた涙の滴が 私の胸の奥を濡らした
泣いて叫んだその先に 懐かしい温もりを見つけた
私は闇の中にいた
手を伸ばしてすがりついた そこにあなたが立っていた
記憶の隅に残っていた あなたの名前を呟いた
ずっと傍にいたんだよって どうして気づかなかったんだいって
あなたが私を抱きしめ笑う
ただひたすらにしがみついた あなたが私の希望だった”
この街に来てアスタに出会った。見つけた温もりに縋り付いて、与えられる優しさにしがみついた。駄目だと思いながらもその手を離すことが出来ずにいた。いつだって迷うシンガーをアスタは笑って待っていてくれたから。
シンガーはうっすらと微笑んでアスタを見る。大勢の人々の中にいてもすぐにアスタを見つけることが出来る。まるでここが二人だけしかいない空間のように、アスタもじっとシンガーだけを見つめていた。
“二人は闇の中にいた
安らぎをくれる優しい暗闇 怖いものは見えやしない
安心できるこの場所を 失くさぬように抱きしめあった
二人は闇の中にいた
再び前へと進んだ先は 一人ずつの渡し舟
早く乗れと船頭が叫ぶ 海の向こうは別々の未来”
目を閉じ、歌に集中するシンガーの声に力が篭る。広い店内に広がる彼女の歌声だけがこの空間を支配していた。まるで時が止まってしまったかのように店内の誰もがピタリと動かず彼女の歌を聴いている。
“やっと出会うことが出来たのに やっと笑うことが出来たのに
二人の時間は終わりを告げる 別れたくないと心が叫ぶ”
そっとシンガーは目を開けた。その先にいるのはただ一人。今のシンガーと同じように触れれば涙が零れそうな顔をしている愛しい恋人。
この歌が偽りの無いシンガーの本心だった。一人の旅は苦しくて、辛くて、アスタに出会ってからも自分に嘘をつき続けた。ジェシカから後押しされてやっと素直になれたのに、目を逸らしていた現実が突きつけられてしまった。
もう、逃げることはできないのだ。
“私は船の上にいた
段々離れる二つの小舟 あなたは笑って手を振った
海の向こうから昇る朝日が 二人の道を照らしてる”
私は光の中にいた
あなたと私が選んだ道は 暖かな未来へ繋がっている
胸の奥にしまった名前を 御守りにして先へ進もう”
柔らくも力強い旋律がランプが照らすオレンジ色に染まった店内の空気に溶けていく。
唄い終わると同時にシンガーの目から一筋の涙が零れる。それを誤魔化すようにシンガーは頭を下げた。歌詞とそして想いの篭った彼女の唄声に心を揺さぶられ、涙を拭いている女性客が何人もいる。そして全ての客が自分達の感情を動かしたシンガーという素晴らしい歌手に惜しみない拍手を送った。ただ一人、アスタを除いて。
これが、この歌が、シンガーの出した答えだった。