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第三話 4.選択(3)

 

 * * *


 見上げた夜空がいつもより明るく感じて、アスタはぐるりと首をめぐらせた。行き着いた先はもうすぐ満月になりそうな大きな月。それがやけに眩しく見える。視線を前に戻すと道の先にある自宅に明かりが燈っていた。

 見慣れたドアを開くと良い匂いが鼻をつき、次に温かい光が目に映る。ゆっくり中に入れば、キッチンに立っていたシンガーがこちらを振り向いた。


「お帰りなさい。」


 自分の家にいるのなら彼女だろうと分かっていた。この家の合鍵を持っているのは彼女とダンジェ一家だけだから。それなのに彼女の姿を見て彼女の声を聞いて、涙が出そうになってしまうなんて、余程自分はまいっているのだろうか。


「ただいま。」


 アスタが応えるとシンガーは少し照れたように微笑んだ。






 川魚の塩焼きに根菜のスープ。野菜と共に煮た骨付き肉は先日イレーヌに教わったという家庭料理だ。シンガーはユフィリル出身ではないが、時折キャシーやイレーヌに教わったこの国の家庭料理を振舞ってくれる。いつか彼女の地元料理も食べてみたいと思っていたが、それを口にしたことはない。彼女自身が出身地のことを話そうとしないからだ。ついこの前までは彼女の気が向くまで故郷の話を聞くのは待とうと思っていたのだが・・。


(まるで誰かが用意した舞台のようだな。)


 彼女の手料理を口にしながら、アスタはそう胸の内で呟いた。

 いつもならこの時間シンガーは酒場で働いている。今日はたまたま休業日だった為、アスタが仕事に行っている間にここで料理を作って待っていてくれたらしい。それが異動の発表日と重なったことは果たして偶然なのだろうか。全てが自分を逃れられなくする為の罠の様だ。一瞬そう思ったが、罠ではなく実は手助けなのかもしれない。彼女が今日ここに来なければ、また話をする決心が鈍っていたのかもしれないから。


 料理を食べ終わるとシンガーは食後のお茶を淹れてくれた。ユフィリルでは香りの強い花茶が好まれるが、彼女は少し苦味のある葉茶を好む。単品で飲むには花茶もいいが、食後に飲むにはアスタも葉茶の方が好きだった。

 アスタは黙ってお茶を淹れる彼女の後姿を見つめる。いつもより言葉数の少ないアスタの態度が気になっているようだが、彼女はそれに関して何も言わない。それがアスタにとってはありがたかった。そういった心遣いが彼女と共にいて心地良い理由の一つかもしれない。人には言えないこともあるのだと、彼女自身が良く分かっているからかもしれないけれど。彼女が自分の出自について話さないように。

 二人分のお茶を持ってシンガーは再びテーブルについた。「ありがとう」とアスタがそれを受け取る。白い湯気を揺らすカップからは葉茶のさわやかな香りがした。それを口にすればすっきりとした苦味が広がる。カップを置いて一息つくと、アスタは黙ってテーブルの上に置かれたシンガーの手を握った。


「アスタさん?」

「・・・・・。話があるんだ。」


 二人きりの時には見せないアスタの固い表情。シンガーは一言「はい」と返事をした。

 橙色のランプに照らされたシンガーの顔。彼女の手を握るアスタの手にぎゅっと力が篭る。


「第八から異動になった。」

「・・・異動?」


 アスタは静かに頷く。シンガーはそれ程騎士団の構成について詳しくは無い。隊からの異動が珍しいことなのかは分からないが、ユフィリルの騎士達はそれぞれ所属の隊ごとに各地の警備を行っているのは知っている。異動ということはつまりこのイルの街を離れるということなのだろう。それを理解すると同時にドクンと大きく胸が鼓動する。言いようの無い不安が頭をよぎるが、それを顔に出さないようシンガーは注意しながらアスタを見つめ返した。


「第十二騎士団に。君はこの国の北部に行ったことはある?」

「いいえ。」

「クレモール山脈と呼ばれる険しい山岳地帯にシブネルという小さな街があってね。そこに第十二騎士団の駐屯地がある。騎士団駐屯地の中でも最北端に位置する場所だ。」


 ユフィリルは南北に縦長の地形をしている。王城は丁度中心に位置していて、イルは王城から東にある。シンガーはユフィリルに来る前アンバにいた。この国の同盟国でもあるアンバは南に広がる大国だ。最南端の関所から北上してイルにやってきたシンガーにとってはこの街よりも北は未知の土地だった。


「そこに・・アスタさんが?」

「あぁ。」


 シンガーは今までユフィリルに来る前のことを話したことはない。どこで生まれ、どうして故郷を出て旅を続けているのかも。そしてアスタからもそれについて質問されたことはない。もしかしたら、彼はいつかこうなることを予期していたのかもしれない。そうシンガーは思った。

 二人の間に沈黙が流れる。アスタもシンガーも話を進めることが怖かった。アスタは知りたくない事実を知ることになるかもしれない。聞きたくない言葉を聞くことになるかもしれない。そしてシンガーは話したくないことに触れられるかもしれない。ずっと避けてきた言葉を言われるかもしれない。そう思うとお互いに言葉が出なかった。

 けれどしばらくして、呟くように口を開いたのはアスタだった。


「俺は・・、君のことを何も知らない。」


 シンガーの肩がビクッと震える。けれど逃げることは出来なかった。アスタの手がずっとシンガーの手を握っているから。


「けど・・」


 彼の目が真っ直ぐにシンガーの目を捉える。彼女の目には不安と迷いが浮かんでいる。それが分かっていても、もう言葉は止まらない。


「君のことをいい加減に考えたことはない。短い付き合いで終わってもいいと思っているわけでもない。俺の都合で自分勝手な言い分になってしまうけど・・」


 自分の手を包むアスタの大きな手に段々と力が篭る。怖い、とシンガーは思った。隠すことも誤魔化す事もない彼の心が伝わってきて、シンガーの心を揺さぶってくる。旅を続ける自分はいつかアスタと別れなければならない。そうと分かっていても彼の手を取ってしまったあの日から、愛しさに溢れた幸せを噛み締める反面、頭の隅ではこの人と離れなければならないのだと思っていた。だから、今回のアスタの異動はシンガーにとって好都合な筈だ。別れを切り出す良いきっかけになる。それが向こうからやってきたのだから。けれど一瞬そんな考えが浮かんだシンガーのことなど見透かしているのか、力が篭るアスタの手はまるで彼女を逃すまいとしているかのよう。

 アスタの瞳がまるで自分に暗示をかけてしまったかのように、シンガーは身動き一つすることができなかった。


「俺は君を本気で愛してる。だから、君さえ良ければ一緒について来て欲しい。」


 シンガーの目からポロリと涙が零れた。何も言えずにただ頬を涙が伝っていく。それをアスタはつないだ手とは反対の手でそっと拭った。


「ごめん。困らせてしまったかな。」

「・・・・。」


 肯定も否定もできずに、シンガーはただ俯いた。

 嬉しい。けれど悲しい。初めて言われた『愛している』という言葉。けれど同時に言われた『ついて来て欲しい』という言葉。

 行けない、と言わなくてはならない。自分の旅には目的があって、それはアスタと共に生きることを選んだのでは果たせないのだと。自分はこれからも旅を続けなくてはならないのだと。けれどシンガーの震える唇からは何の言葉も出てきてはくれない。愛しているからだ。自分も、他の誰でもないアスタのことを。旅の途中で出会ったこの騎士のことを。


「ごめん・・・。」


 椅子から立ち上がり、アスタはシンガーを抱きしめた。ただただ涙を流す恋人をアスタはその日、抱きしめながら眠りについた。






 シンガーはアスタの寝息を聴きながら目を閉じていた。自分の体に回された太い腕。全身に感じる彼の体温。耳に届く穏やかな鼓動。アスタから与えられるもの全てが優しくて再び涙が零れそうだった。

 シンガーの体はアスタの温もりを求めているのに、頭はそれを拒絶する。ならば心は?シンガーの心は何を選べばいいのだろう。

 ぎゅっと閉じた瞼に力を入れてシンガーは思考を止めた。今はただ彼の腕の中でこの穏やかな心音に包まれていたかった。

 

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