第三話 3.決断(2)
* * *
バッハ=ヒューブリックは一枚の書状を前にふんっと鼻を鳴らした。一度目を通せば十分だとばかりにそれをデスクに戻す。受け取ったグルドーは席に座ったまま目の前に立つ男を見上げた。
「貴公としては願ったり叶ったりという所か?」
白髪混じりの眉がピクリと上がる。老獪さを含んだ両目がグルドーをジロリと見下ろした。
「君としても反対する理由は無いのだろう?」
「・・・。無いな。」
それだけ聞くとバッハは踵を返してグルドーの執務室を出て行った。七十になろうという歳の人間ながら、未だ引退することなく騎士団に強い影響力を持つバッハ=ヒューブリックは上層部の一人であるグルドーにとって目の上のタンコブだ。
(嫌な目だ。)
内心毒づきながらグルドーは手元の書状に再び目を落とした。大臣としてはこの一枚の書類に書かれた内容に意見する理由など何も無い。だが、個人としては別だった。後はこれに宰相と国王の判が押されれば、益々ヒューブリック家が強い力を持つことになるだろう。そして何より彼が、今後自分の前に現れることはなくなる。それは一つの時代の終わりを感じさせた。
(グラン・・。君の意思もこの国から消えてしまうのか。)
国が変わる。騎士団も変わる。そして自分だけが変わることなくこの席でそれを傍観している。そんな気分になる。
流れは変えられない。そしてグルドー自身もその流れの全てを否定するわけではない。だが他の上層部連中のように今の状況に疑問一つ抱かず、流れに身を任せるのには抵抗があった。失ってしまえば取り戻せない何かを見逃してしまいそうで。
ふと部屋の隅に目を移す。そこにはかつて自分が使用していた鎧と剣がある。仲間達と肩を並べ、あの剣を振るっていたのは遥か昔のことのようだ。皆歳を重ね、自分は文官となり、ニコライやグランは騎士団に残った。
(昔を懐かしむなんて、歳をとった証拠だな。)
自嘲するかのように口元が歪む。そして手元の書状を三つ折にすると、白い封筒に入れて印を押した。これで後二週間もすれば辞令が下りるだろう。
これを書いた人物の顔が浮かぶ。自分に出来ることがあるだろうか。かつての旧友が残した若者の為に。
* * *
“眠れ 眠れ 可愛い子 柔らかな夜風が頬を撫で
眠れ 眠れ 愛しい子 綺麗な星に見守られ
君が夢見る世界には 楽しいものが沢山あるわ
両手一杯のそれを持って 私の所へ帰っておいで
眠れ 眠れ 可愛い子 森も眠る深い夜
眠れ 眠れ 愛しい子 この歌を聴きながら
竜の背に乗り天飛べば お月様が笑ってくれる
優しい世界で遊んだ後は 君のお話聞かせておくれ
眠れ 眠れ 可愛い子 眠れ 眠れ 愛しい子”
唄っている内にすっかり瞼は閉じられていて、ベビーベッドの中でミリはすやすやと小さな寝息を立てていた。それに気づいたシンガーは歌を終える。惜しむように柔らかな髪を撫でて手を離した。
今ミリの母親であるイレーヌは畑仕事を手伝っている。今日は酒場の仕事が休みだったので彼女の家に遊びに来ていたのだが、ついでとばかりに子守を頼まれたのだ。
(可愛いな。)
結婚して子供を産んで、家事をしながら夫を待つ。シンガー自身もいつかそんな風に家庭を持つものだと思っていた。後二年もすれば故郷の友人達も皆結婚して子供を産むのだろう。こうして旅をしている自分ではいつになるのか分からない未来だ。漠然と考えていた未来。それが今はこんなにも遠い。見えない旅の先を考えるのが怖くて、時々足を止めたくなる。それでも周囲を見渡せば此処は自分がいるべき場所ではないのだと思い知らされ、たった一人で旅をする孤独の中に戻っていく。
いつか来るのだろうか。自分の求めているものを見つけ、安らぎの場所を得るその時が。
(ダメだわ。一人でいると考えが暗くって・・・。)
逃げても仕方の無い問題だと分かっているからこそ、こうして一人悶々と考えるのは嫌なのだ。後少しすればイレーヌも戻ってくるだろう。そうすればおしゃべりに花を咲かせればいい。
(アスタさんに会いたいな・・・。)
それは自然に頭に浮かんだ考えだった。こうして誰かの家庭の中にいると自分は一人だと思い知らされる。家族で囲む食卓、ソファ、人数分の食器や手入れされた庭。どこか懐かしさを感じると共に寂しくもある。バールの家に居る時も、ダンジェとイレーヌの家に居る時も。今シンガーが自然にいることが出来る場所はアスタの隣だった。
(急に会いに行ったらダメよね。夜勤かもしれないし。もっとアスタさんの勤務予定を聞いておけば良かったな。)
恋をしているなぁ、と思う。自分の気持ちを受け入れるのには抵抗があったけれど、一度手に入れてしまえば手放すのは難しい。これ程誰かのことを考えるのは、旅をする前にも無かったことじゃないだろうか。
アスタといると甘えたくなる。傍にいて、体温を感じて、あの広い背中に抱きつきたくなる。優しく髪を撫でてくれれば、それだけで幸せを感じるのだ。
(こんなに好きになるなんて思わなかった・・。)
幸せを感じる頭のどこかでブレーキが掛かっている。これ以上依存してはいけないと。もうすでに手遅れである事にも気付かずに。
カタンッと物音がしてシンガーは思考から意識を浮上させた。顔を上げればイレーヌが畑から戻った所だった。
「あ、お帰りなさい。」
「ごめんね。遅くなっちゃって。あら、ミリ寝ちゃった?」
「えぇ。ついさっき。」
イレーヌは着替えるとお茶と菓子を用意してくれた。軽くお礼を言ってそれを受け取り、暖かなお茶に口をつける。それからは他愛の無いおしゃべりが続く。先程までの不安や羨望がシンガーの笑顔の裏に残ったまま。