第三話 2.言葉(3)
* * *
先日の約束通り、ウィズと共にバールの店に呑みに来ていたアスタはグラスが空になると時計を確認した。
「そろそろ腹も一杯になっただろ?うちで呑みなおそうか。」
「え?」
そう言った上司の言葉に驚き、ウィズは思わず聞き返していた。
「隊長の家ですか?」
「あぁ。トルテ侯爵から貰った良い酒があるんだ。」
「侯爵から?それはすごいですね。」
侯爵家からの貰い物といえば、当然一介の騎士が呑めるようなものではない。最初は戸惑っていた様子のウィズにもこの提案は魅力的だったらしい。素直に頷くとアスタの奢りで店を出た。
アスタは宣言通りトルテ侯爵からの頂き物のボトルを開けた。コルクを開けた途端に香る酒の匂いに思わず頬が緩む。ムーロと呼ばれる穀物を発酵させて作られた酒で十年物だ。戦争が長く続いたユフィリルではこの頃の酒の生産量はとても少なく、今となっては希少価値が高い。
ラベルを見てウィズは感嘆の声を漏らした。
「トルテ侯爵もすごいですね。こんないい酒くれるなんて。」
アスタはグラスを用意しながら、この酒を貰った経緯を思い出して苦笑した。
「侘びに、と貰ったものでね。ありがたいが複雑だよ。」
「お詫び?あぁ、もしかして例の婚約騒ぎの?」
「そうなんだ。せめてこれくらい受け取ってくれと言われてね。」
アスタは元より婚約したかった訳ではないし、ソフィー嬢が好きな相手と結ばれる事を心から祝福していた。けれどトルテ侯爵はアスタに世話になったとの思いが強かったらしく、謝罪の言葉を受け取ろうとしないアスタに、それでは困るとこのムーロ酒を譲ったのだ。
コポコポと心地よい水音と共に琥珀色の酒がグラスに注がれる。
「でも、良かったんですか?こんないい酒今開けて。」
これだけ高級な酒ならもっと特別な時にとっておけば良いのに。口ではそう言っていても目の前にグラスを勧められ、素直にウィズはそれを手にする。やはり呑んでみたいとの欲求は強いらしい。
「いつまでもとって置いたらただの置物だ。それこそ宝の持ち腐れだよ。」
アスタのこういう考え方は気持ちがいい。ウィズはアスタとグラスを合わせると、遠慮なくそれに口をつけた。
良い酒と他人がいない空間が心地よいのか、最初は仕事中のように多少の遠慮があったウィズも段々と饒舌になってくる。アスタは彼の顔色を伺いながらグラスに酒を注いだ。
「隊長はさっきの店よく行くんですね。」
「あぁ。そうだな。バールにはいつも世話になってるよ。」
「歌姫目当てに通ってるわけですか?」
「へ?」
突然の指摘頭がついていかずに呆けてしまう。その顔を見ておかしそうにウィズは目を細めて笑った。いつも落ち着いて見える彼にしては珍しく歳相応の表情が覗く。
「すいません。さっき、あの歌手の方が唄っている時の隊長の顔を見たら、そうなのかなって。」
「なっ・・・」
アスタの顔がみるみる内に真っ赤になっていく。この状況では酒のせいだと誤魔化すのは難しい。ウィズは中々笑いの発作が収まらないようだ。
(どんな顔してたんだ、俺・・・)
年下の部下にからかわれている事に顔をしかめて見せるが、ちっともウィズには効いていない。大人げないとは思いつつも、悔しくなって言い返していた。
「そういうお前はどうなんだ?」
「え?」
「片想いの相手がいるって言ってたじゃないか。」
そこでやっと彼の笑いが止まった。それどころか少し表情が固くなる。仕返しのような一言だったが、アスタにとってはこれが今日彼を誘った目的であり、話したかったことの本題だった。
ウィズが持っていたグラスをテーブルに置く。その目はグラスの中に写る自分の表情を見ているようだった。
「隊長、俺はね・・」
酒のせいか少し顔が赤いが、その眼は悲しげな色を湛えている。アスタはじっとウィズの言葉を待った。
「嫌われるのが怖いんです。」
外から虫の声が聞こえるほどの静寂。それを先に破ったのはアスタだった。
「怖いのは分かるよ。」
「・・隊長も、ですか?」
「あぁ。この歳になって恥ずかしいけどね。」
自嘲するような笑いを浮かべるアスタを見て、ウィズは首を横に振った。恐らく彼にもアスタがシンガーのことを言っているのだと分かった筈だ。
「誰だって自分が大切に思う相手に嫌われるのは怖い。当然の事だ。」
「・・。」
「けど、一歩踏み出さなくては何も変わらない。」
「・・はい。」
返事をする声が震えている。アスタは下を向く彼の頭をくしゃっと撫でた。
「“来た道を引き返してもいい。何度分かれ道をやり直してもいい。けれど決して立ち止まるな”」
ウィズが顔を上げる。それを確認してアスタは微笑んだ。
「俺の、恩人の言葉だ。」
「・・アーロンさんですか?」
「いや。グラン隊長だよ。」
自分を見るアスタの瞳は穏やかで、ウィズは泣きたくなる気持ちをぐっと堪えた。彼が第八騎士団に入った頃すでに隊長はアスタだった。だから前任のグランのことは知らない。けれど先程の一言で、彼がどれほどグラン=ハンバットのことを慕っていたのか知ることが出来た。
「・・そうでしたか。」
アスタの手がウィズから離れる。椅子の背もたれに体重を預けると、アスタはふと目線を逸らした。
「俺は、グラン隊長に後任を引き継ぐと言われた時一度断ってるんだ。」
「え?」
初めて聞く話にウィズは目を丸くする。グランが戦死した際、彼の遺言でアスタが後任に指名されたのだと聞いていた。だが実際は、彼がまだ健在だった時に一度その話をされていたらしい。その際断りを入れたが、やはりグランは考えを変えずに遺言をアーロンに託していたのだろう。
「本当ですか、それ?」
「あぁ。自信がなかったんだ。自分に隊長なんて重要な役職が務まる訳ないってね。他にふさわしい人は沢山いたし。・・・情けないことにそれは今でもあまり変わっていないけどな。」
ウィズはアスタを異例の若さで就任した隊長として今まで見ていた。周囲に期待され、二十三で隊長に任命された非常に優秀な人材だと。それなのにその功績を鼻にかけることもなく部下に接するアスタにウィズを初め若い騎士達は非常に好感を持っていたのだ。まさか当のアスタがそんな風に思っているなんて考えてもみなかった。
「何言ってるんですか!戦争が終わっても若い奴らが第八に留まっているのは、アスタ隊長が俺達の隊長でいてくれるからですよ。」
「・・・それは初耳だな。」
アスタはお世辞だと思っているかもしれない。それでも自分達の思いを伝えたくて、ウィズは力強く言った。戦争終了後、若い騎士達には国境の警備よりもやはり城下で勤める方が魅力的だ。その為に自ら上司に自分を売り込む者もいれば、貴族の親や親戚を頼る者もいる。だがそうしないのは、アスタだからこそだと分かって欲しかった。
「事実です。」
「・・・。ありがとう。」
アスタの瞳が揺れるのをウィズは確かに見た気がした。いつも穏やかで情けない姿など見せたことがなかったアスタが、本音で自分の話をしてくれるのが素直に嬉しかった。
だからだろう。言うまい、と思っていた胸の内を零してしまったのは。
「隊長・・・。」
「うん?」
「俺、」
「ん。」
目線を下に向ける。まともに顔を見る勇気がなかった。
「・・ロニが好きなんです。」
「そうか。」
あまりにもあっさりそう言われ、思わずアスタの表情を確認してしまった。けれど先程と何も変わらない顔で彼は自分を見ている。
「気持ち悪いでしょう?男がいいなんて。」
自分で言いながら顔が歪む。嫌な汗が背を伝うのが分かった。先程までの酔いなどどこかに行ってしまったかのよう。けれどアスタは眉を下げて笑っただけだった。
「そんなことないさ。けど、ロニか・・。」
そう言ってアスタは少し考える仕草をした。ウィズの告白に何の嫌悪も示さなかったことに驚いたが、普段からロニと親交のあるアスタは普通の男性を好きになるよりもこの恋が難しいことを分かっているようだ。
ロニは既に十九歳だが彼の明るい性格とそばかすの残る顔立ちは少年らしい幼さを残している。そのせいか昔から男色家に声をかけられることが多かったらしく、普通の男性よりも男色家を毛嫌いしているのはウィズも分かっていた。言えない、嫌われるのが怖い、というのはそのせいだったのだ。彼と話をしていても自分の想いを気づかれないよう神経質になり、この恋が嫌になる。けれどやはり彼を愛しいと思う心を捨てられなくて堂々巡りを繰り返し、結局何もできずに時間だけが過ぎていた。
「ウィズは第十のカイルを知ってるか?」
突然違う話題を振られてウィズは戸惑った。首を傾げてその名を思い出してみるが、顔までは思い浮かばない。
「・・・カイルさん、ですか?名前を聞いたことはありますが、話をしたことはないですね。」
するとアスタは何故か楽しそうに笑った。
「一度二人で話してみるといい。変な奴なんだ。」
「?」
「俺みたいな男が好みらしい。」
「へ?」
自分でも間抜けな声を上げてしまったと思う。好み、と言うのはつまりそういうことだろう。自分もそうだと言うのに、何故かカイルが男色家という事実がすんなりと頭の中に入っていかない。
「昔あいつに口説かれたことがあるんだ。しかも戦時中、敵兵の一団を攻めている最中だぞ?信じられるか?」
「そ・・それは、すごいですね・・。」
カイルと会ったことは無いが、そう言えば腕は確かだが奔放な人物だと聞いたことがある。アスタは当時を思い出したのか、おかしそうに笑った。
「敵を目の前に剣振ってる時に何考えてるんだって言ったら、だから今なんだと。」
「え?」
「明日が来ないかもしれない。だからこそ今やりたいことをやるんだって、あいつは言っていた。」
「・・・・・。」
言葉は違う。状況も違う。けれどそれはアスタが教えてくれたグラン=ハンバットの教えに通じるものがある。嫌われるのを恐れて足踏みしているせいで何一つ前に進んでいないウィズには深く突き刺さるような言葉だった。
「それ以来顔を合わす度に口説かれたな。あの頃はあいつも本気だったらしいが、今じゃあ冗談交じりの挨拶みたいなもんさ。」
会う度彼に愛しい人と呼ばれ、アスタがそれを軽く笑い飛ばす。それが二人のいつもの光景。友人とは違うかもしれないが、カイルとの関係もアスタにとっては大切な絆の一つだ。彼が男色家であることに驚きはしたが軽蔑する気はサラサラ無い。それは何よりカイル自身がその事実を恥じる事無くアスタに話してくれたからだと思う。
そんな昔話をウィズは真剣に聞いていた。
「人の考えなんてそれぞれだ。だが、後悔はするな。」
「はい・・。」
沢山いる部下の一人一人をアスタは大切にしている。自分がその中の一人であることをウィズは誇りに思った。誰にも打ち明けられず苦しんでいた悩み。くだらないと鼻で笑われても当然だと思っていたのに、アスタはいとも簡単に受け入れてくれた。例えこの想いが叶わなくてもいいのだと初めて思えた。一歩を踏み出す大切さを示してくれた。
「隊長。」
「ん?」
「ありがとうございます。」
うっすらと涙の浮んだ表情でウィズは笑った。アスタも笑顔でそれに応えると、再び空いたグラスに酒を注いだ。