第二話 5.告白(1)
トレンツェが第八騎士団に戻って来てから三日後。アスタは数日振りにバールの店へと足を運んでいた。昨日まで任務報告の為王城を訪れており、夕刻にイルへ帰って来たところだった。
ダンジェとはあれから例の件について何も話していない。アスタもそしてダンジェもお互いその話題を口にすることはなかったが、全く頭の中から消えたわけじゃない。アスタはさり気なくダンジェと二人きりになることを避けていた。だが、ただでさえ昔から人間関係が器用でないアスタが今まで気の置けない中だった親友と微妙な距離を上手く取れるわけがない。先日の救出活動、休む暇もなく王城への長距離移動、そして親友への隠し事。色々なことが重なって心身共に疲れていた。そんな時、ふとシンガーの歌が聴きたくなったのだ。
一人で店に入り、いつものようにカウンター席に座る。すぐにバールが笑顔で声を掛けてくれるが、二三言葉を交わしてアスタはグラスに口をつけた。バールもアスタの疲れを見てとったらしく、適当につまみを見繕うと他の客の所へ足を向けた。流石接客業を長く営んでいるだけあってしつこく話しかけるようなことはしない。
舌に馴染んだ味にほんの少しアスタの気が緩む。余裕が出てきて周りを見渡すと、そこに意外な人物を見つけた。
「・・ジェシカ?」
「こんばんは。」
丁度店に入ってきたのはジェシカだった。一人で酒場に入るようなイメージがなかっただけに、一瞬本当に彼女か疑ってしまった。だが、さりげなく笑顔でアスタの隣の席に腰を下ろしたのは確かにジェシカだった。
「珍しいね。誰かと一緒に?」
「いえ。今日は一人です。」
すると彼女は少し目線をずらすと、恥ずかしそうに声を小さくした。
「ここに来れば、アスタさんとお話できると思って。」
「俺?」
意外な答えに面食らって聞き返すと、彼女は上目遣いで頷いた。
「勿論、俺でよければ何でも聞くよ。ダンジェ達は君がここにいることは知ってるの?」
「えぇ。義姉さんには言ってから来ました。」
「そうか。」
この店には先日の結婚パーティーで顔を合わせた客達もいるし、彼女もたまにはこういう場に来てみたかったのだろう。そう思ってアスタはカウンターの中のバールを呼び、酒と料理を追加した。
しばらくしてキャリーが運んできてくれた料理を二人で食べていると、ふいに酒場の喧騒が収まる。はっとしてアスタはホールの中心に顔を向けた。するとやはりシンガーが客席から立ち移動している所だった。今日アスタがここに来た目的。シンガーの歌が始まる合図だ。
彼女が静かに一礼する。客達は皆彼女に拍手を送った。アスタも彼女の顔を見ながら手を叩く。すると一瞬だけ彼女がこちらに顔を向けたのが分かった。けれどすぐにその目は前を向いてしまう。それが他人行儀に思えてなんだか寂しい。
(子供みたいだな。)
どうもシンガーのことになると今まで忘れていた感情が次々沸き起こる。愛しい気持ち。妬みの気持ち。寂しい気持ち。どれもあの戦争の中で自分がどこかに置き忘れてきたものだ。
彼女が息を吸い込む音が数メートル離れたアスタの元まで聞こえてきた。薄桃色の唇が歌をつむぎだす為にゆっくりと動く。
“沢山の花々が咲き誇る中 あなたの手が私に触れた
美しい色とりどりの花びら 蝶達でさえそちらを向くのに
選んでくれてありがとう この気持ちを伝えたいけれど
言葉を持たない私の心は きっとあなたに届かないでしょう
初めてあなたの胸に抱かれ ただ一つの花になる
あなたに貰った誇りと愛を 私は一生忘れない”
(苦しい・・・)
アスタは喉が詰まるような不安を感じていた。理由の分からない何かが胸の中でくずぶっている。叶わぬ想いを綴ったシンガーの歌がそれを表に引きずり出そうとしているようだった。周囲の客達が笑顔で彼女の歌を聞いているのがまるで別世界のように感じる。
だがアスタの隣。ジェシカもまたシンガーの切ない歌声に唇を噛んでいた。シンガーを見詰めるアスタの横顔から目を逸らす。目を閉じることが出来てもこの場で耳を塞ぐことなんて出来るわけがない。シンガーの口から流れ出る歌詞がまるで自分のことを唄っているようで嫌になる。そんなジェシカの心情などおかまいなしに彼女の歌声は胸に迫るような美しさで流れ続ける。
“数え切れないほどの星々 あなたの目が私を捉えた
眩しいほどの強い光が 私の身を隠そうとするのに
見つけてくれてありがとう この感謝を伝えたいけれど
遥か彼方に浮かぶこの身は あなたに触れることはないのでしょう
あなたの瞳に見つめられて 私は初めて輝ける
あなたが教えてくれた寂しさ 胸に抱いて私は眠る”
シンガーは思わず右手を自分の胸の上に置いた。その仕草が歌詞とリンクしてより一層切ない想いを客達へ伝える。唄いながらこれは自分のことだろうか、とふと思う。果たして自分は歌を唄っているのだろうか。それとも自分の想いを吐露しているのだろうか、と。
(この手で、胸に詰まったものを掻き出せてしまえたらいいのに。)
歌いながら頭の片隅でそんな考えがよぎる。シンガーは彼が店に入った時からアスタに気づいていた。けれどこの歌を唄っている間は意図してそちらを見ようとはしない。それはジェシカが彼の隣にいることに気づいているからだ。彼女がこの店にいるだけで、まるで自分が責められているような気がするなんて、先日の彼女の言葉を忘れられない証拠だった。
それでも歌を唄っている間は誰にも邪魔されることはない。シンガーの想いを、心の奥を歌詞の中に織り交ぜても遮られることはない。
(だから、せめて今だけは正直になろう。)
例え現実には口に出来ない言葉でも、音楽に変えれば伝えることが出来る。
シンガーは自分の胸の内を搾り出すようにメロディーを紡いだ。
“冷たい空を独り飛ぶ あなたが私に語りかけた
風が悪戯に羽を煽り 大地へ降りることは許されないのに
言葉をくれてありがとう この想いを伝えたいけれど
傍にいけないこの鳴き声は あなたの前で消えるのでしょう”
一際深く息を吸う。大気を震わせてシンガーは音を届ける。
どうしてアスタのいる今夜、自分はこの曲を選んだのだろう。その答えはきっと――
“あなたへ届けと唄い続ける 風に負けない翼を持って
たった一人でも飛んでみせるわ あなたがそこにいてくれるなら”