第二話 4.任務(3)
様々な店が軒を連ねる商店街。皆先ほどまで降り続いていた雨を避けていたのだろう。普段はそれほど人が多くない夕方過ぎのこの時刻でも、今日ばかりは多くの客が顔を見せていた。それは買出しに来ていたシンガーも同様だ。大きな籠をもって八百屋を覗いている。
すると不意に視界の端に赤いものが入ってそちらに目を向けた。夕暮れの空の中、一際赤いそれは良く見れば旗だった。第八騎士団の駐屯地である石造りの塔の上から無地の赤い旗が風に煽られ、はためいている。
「あれは非番の騎士を呼び出すための合図よ。」
突然背後から聞こえた声に驚き振り返れば、そこに立っていたのはイレーヌだった。彼女の後ろには買い物籠を持ったジェシカもいる。二人に会うのは先日の結婚パーティー以来だ。
「イレーヌさん!ジェシカさんも。」
するとジェシカは声を出さず、ただ軽く会釈した。
「何かあったのかしらね。」
旗を見たままそう呟いたイレーヌの言葉に不安を感じ、シンガーはすがるように彼女の横顔を見る。
「あの・・、休みの騎士を呼び出すってことは、緊急事態ってことですか?」
するとにわかに周りの買い物客達がざわつき始める。三人がそちらを向くと、一人の青年が周囲に向かって話をしていた。
「テトの近くで土砂崩れが起きて、騎士団が巻き込まれたらしいぜ。」
「おいおい!それ本当かよ!」
彼はトルテ侯爵の元で下働きをしている青年だった。どうやら侯爵の元に連絡が入ったらしい。彼の話を聞いて店の者までもが通りに顔を出し、客達は口々に騒ぎ出す。
「巻き込まれたってどの程度なんだ?」
「トルテ侯へ連絡に来た騎士が言うには、中には重傷者もいるらしいよ。」
第八騎士団。土砂崩れ。そして緊急事態を示す赤い旗。全てが繋がってシンガーの頭に真っ先に浮かんだのは一人の男性。
(アスタさん・・)
重傷とはどの程度なのだろう。途端に心臓が嫌な音を立てて騒ぎ出す。はっきりした内容が分からない周囲の話だけでは悪い想像ばかりが頭を占める。
イレーヌは隣でシンガーの顔色が悪くなったことに気づいていた。
「シンガーさん。」
「あ、はい・・。」
「大丈夫よ。そんな顔しないで。」
そう言ってイレーヌは安心させるように微笑んだ。まるで確信があるかのような彼女の言葉にシンガーは何故?と疑問が浮かぶ。
「え、でも。ダンジェさんだっているんでしょう?イレーヌさんは心配じゃないんですか?」
彼女の質問にイレーヌは笑って見せた。
「逆よ。」
「逆?」
「ダンジェがいるから大丈夫なのよ。」
そう言ってイレーヌはウィンクする。それだけで不安が少し軽くなる。思わずシンガーも彼女の笑みにつられていた。
「素敵ですね。」
「そんな大層なものじゃないけどね。あなたもよ、ジェシカ。」
「え。」
はっとジェシカが顔を上げる。どうやら彼女も心配のあまり思考に耽っていたようだ。
「そんな顔しないの。どーせ、いつもの通り帰ってくるわよ。」
「あ、うん。そうね。アスタさんもいるんだもん。大丈夫よね。」
ジェシカの口から出たアスタの名前にドキッとする。ジェシカが心配していたのはダンジェだけではない。アスタも同様だったのだ。
なら、自分は?シンガー自身は一体誰のことを思っていた?ダンジェもロニもザックも、今ではすっかり顔なじみのお客さんだ。けれどシンガーの頭にあったのは一人だけ。
(私・・・)
いつの間にこれ程アスタの存在が自分を占めていたのだろう。いつだって彼の笑顔が思い出せる。彼に何かあったのかと思うと、これほどまでに動揺する。
「シンガーさん。」
「え?」
シンガーを呼んだのはイレーヌではない。それは彼女の後ろで厳しい表情をしたジェシカだった。
「あ、はい。」
彼女の表情を見てシンガーは気後れしてしまう。何故か悪いことが見つかってしまった子供のように心臓が跳ねた。
「ちょっとお話しませんか?」
「・・・はい。」
一瞬二人の様子にイレーヌが怪訝な顔をして口を開くが、結局何も言わずにジェシカについていくシンガーを見送った。
商店街から外れた小道。畑が広がる人気のない場所にジェシカとシンガーは立っていた。二人はここに来るまで一言も言葉を交わしていない。重苦しい空気を感じながら、それでもシンガーは努めて明るい声を出した。
「明日はいい天気になりそうですね。」
西に沈む太陽を見ながら微笑む。口を開くきっかけが欲しかったのか、それともジェシカの顔を見るのが怖かったのか。多分その両方だろう。
すると相反してジェシカはシンガーを真っ直ぐに見つめた。
「アスタさんとはどういう関係なんですか?」
「・・・。え?」
シンガーの表情が硬くなる。きっとアスタのことを訊かれるだろうと思っていた。それでもあまりにストレートな物言いに、ここに来るまでに考えていた言葉が上手く出てこない。
「どういうって・・・。アスタさんはバールさんのお店に来る、その、お客さんですけど・・・。」
無意識に足が一歩下がる。笑顔を作ろうと思っても、体はシンガーの言うことを聞いてくれない。ジェシカの目はじっとシンガーの顔を窺っていて、まるで自分が罪人になったかのような錯覚を覚える。
「言い方を変えます。シンガーさんはアスタさんのことをどう思っているんですか?勿論、男性として。」
「っ・・・。」
思わず息を呑む。アスタをどう思っているのか。ただそう訊かれただけだったら上手くはぐらかすつもりだった。けれどジェシカはそれを許してくれない。はっきりと彼女は“男性として”と言った。
「私は・・・。」
黙ってしまっては駄目だ。言葉を詰まらせてしまったら駄目だ。沈黙は肯定になってしまう。分かっているのに、言わなくてはいけないことがあるのに、シンガーの口は動かない。
(言わなくちゃ・・・。)
アスタのことなどなんとも思っていないと。自分にとって重要なのはこれからも旅を続けていくことであって、大切な誰かをつくることじゃない。
それなのに――
(私は、アスタさんのことは・・)
頭に浮かぶアスタの笑顔がそれを邪魔する。彼を手放したくないと心の奥で誰かが叫んでる。
(違う。違う。違う。)
そんなのは私じゃない。誰かに縛れ、この地に留まることなど出来ないくせに。後悔するのは自分だ。一時の安らぎを得れば、自分は一生続く後悔に苦しめられることになる。
シンガーは拳を握り締め顔を上げた。
「アスタさんは大切なお客さんです。男性としてなんて、考えたこともありません。」
その言葉を聴いてジェシカは一瞬驚いた顔をするが、何故か唇を噛み締めた。
「じゃあ・・・」
「え?」
「本気じゃないなら、もうアスタさんには近寄らないで。」
本気だ。彼女の何かに追い詰められたかのような表情を見て、瞬時にシンガーはそれを感じた。けれどどうしてジェシカがこんな表情をしているのだろう。追い詰められていたのは自分の方ではなかった?
「ジェシカさ・・」
「私に譲ってよ!!」
「・・・・。」
何も言えないシンガーを睨み付けると、ジェシカは踵を返して走り去った。
シンガーの動揺した表情を見れば彼女が本音を言っていないことは明らかだ。けれど彼女はアスタへの想いを否定した。ならば絶対に邪魔させない。アスタが誰を想っていようと、シンガーが誰を想っていようと関係ない。
アスタさん。私にはあなたしかいないんです。ずっと寂しくて寂しくて。唯一の心の拠り所だった兄も、今は私だけのものじゃない。二人が私を受け入れてくれているとは分かっていても、私はあの家庭の人間じゃない。皆と居てもどこか孤独感が付きまとう。そんな時、私に人の温もりを与えてくれたのは他でもない。アスタさん、あなたでした。
* * *
アスタ達が詰め所に戻ってきたのはすっかり日が落ちて夜を迎えてからだった。怪我人のことはアーロンに任せてある。彼らはしばらくテトの町に留まることになるだろう。第二騎士団と共に行動しているトレンツェは本来の予定通り山を越えた先にあるリンバルという町で一泊して、明日こちらに戻ってくる筈だ。
詰め所に戻ってきてからもやるべきことはある。任務についていた隊員達に今回の件の報告を聞くと、疲れている彼らは早々に帰宅させてアスタは一人隊長室で頭を抱えていた。
(やはり俺が行くべきだったのか。しかし・・)
今回の任務にトレンツェは必要だった。アスタにとってもトレンツェにとっても。けれど土砂崩れが事前に予想されていていた時点で今回の件は不幸な事故だった、では片付けられない。トレンツェは指導者として先導者として隊員達に実力を示さなくてはならなかった。しかし結果がこれだ。第二・第八共に負傷者を出してしまった。本来の目的を果たすことが出来たとはいえ、これは大きな痛手だ。城の者達の評価も決して良いとは言えないだろう。
その時、聞きなれたノックの音がしてアスタは顔を上げた。
「入るぞ。」
「・・ダンジェ。まだ帰っていなかったのか。」
するとダンジェは呆れた顔をした。
「それはお前もだろ。」
「俺は・・」
「あー、いいいい。そんなこと言いに来たんじゃない。」
ダンジェはアスタが座るデスクの前に立ち、ふっと表情を変えた。
「アスタ。トレンツェが第二の奴等を説得できなかったのはお前のせいじゃない。」
「・・・。」
「だが、トレンツェを指揮に選んだのはお前だ。あいつの性格上、ヨハン副隊長に強く言えないのはお前も予想できた筈だろう。」
「・・分かってる。今回の事は俺の判断ミスだ。」
ダンジェの厳しい言葉にアスタは目線を外した。だが、ダンジェは容赦なく言葉を叩きつける。
「あいつは人の上に立つのに向いていない。」
「・・・・。」
「俺を今回のメンバーに入れたのは、お前もそれを分かってるからじゃないのか?」
ダンジェは自分を過大評価しているつもりはない。けれどそうとしか考えられなかった。アスタは人の能力を冷静に判断することに長けている。彼のお人好しがそれを邪魔することがあったとしても、それが彼が隊長に向いている要素の一つなのだ。
トレンツェが判断を誤った時、そのフォロー役として自分が組み込まれたのだとダンジェは確信を持っていた。その証拠にアスタは一言も否定の言葉を発していない。だが、はっきり自分の口から肯定する気もないらしい。言わないと決めたらアスタは例え国王が相手でも口を開かない。そんな親友の意思の強さをよく知っているダンジェは、あえて指摘はせずに話を進めた。
「お前、何考えてる?」
「・・・どういう意味だ。」
「分かってるだろ?最近お前はやけにトレンツェを表に出そうとする。何故だ?」
「部下の成長を望むのはおかしいことか?」
「それだけか?」
一瞬ダンジェの言葉に苛立ちが現れる。それに気づかないフリをして、アスタはデスクの上で組んだ自分の指先を見つめた。
「あぁ。」
「・・・。言う気がないならいい。」
挨拶もせずにダンジェが隊長室を出る。ドアが重い音を立てて閉まると同時にアスタの口から溜息が漏れた。
(気づいていたか・・・。)
気づくならダンジェだろうと思っていた。けれどアスタはそれをダンジェに言う気はない。自分が、自分だけが抱えていればいい問題だ。何故ならこれは全て自分の我儘なのだから。例えそれが親友の怒りを買うことになったとしても。
両肘をデスクに突き、指を組んで額を載せる。何かを祈るようなその姿勢で、アスタは心の中だけでそっと呟いた。
(ダンジェ・・。すまない。)
心の中でしか謝罪することが出来なかった。