第一話 1.アスタ(2)
アスタ達が訪れたのはバールという名の店主が経営している、街の中でも比較的大きな酒場だ。二階建ての木造の店内は中央が吹き抜けになっていて、一度に四十人程の客を迎えることが出来る。街には他の酒場も沢山あるのだが、陽が落ちてそれ程時間は経っていないにも関らず彼の店は客で溢れていた。アスタ達もやっとの思いで店の隅に空いている席を見つけた程だ。
「すごい客入りだな。」
席に着いて一息つくとアスタは周りを見渡した。その言葉にロニも首を縦に振る。
「前に来た時はこんなんじゃなかったと思うんですけど、例の歌手の効果ですかね?」
「そんなにすごいモンなのか?」
二人が首を捻っていると、明るい声と共に店員が顔を見せた。
「いらっしゃいませ。あら、アスタさん。」
注文を取りに来たのはロニとそう歳は変わらないバールの娘だ。バールは酒場の店主をさせておくには勿体無いほどの体格のいい壮年の男性だが、娘のキャリーは似ても似つかない可憐な女性だった。大きな目を瞬かせ、お客に笑顔を振りまく様はまさに看板娘だ。親子の共通点と言ったらグレーの目と髪くらいのものだろう。
「こんばんは。すごいお客さんだね。」
アスタは周りを見て苦笑した。国境の警備を任されこの街に赴任してきてから、この店には何度も足を運んでいる。おまけに騎士団の隊長とあって、この辺りにアスタの顔を知らないものはいなかった。
「えぇ。もしかしてアスタさんもシンガーがお目当てなんですか?」
「シンガー?」
アスタは聞き覚えの無い名前に首を傾げた。同じテーブルに着いている仲間達も心当たりの無い顔をしている。
「あら、知りません?最近うちのお店で働き始めた歌手なんですよ。」
「へー。シンガーって言うのか。変わった名前だな。」
キャリーの言葉に応えたのは同僚のダンジェだ。彼とは騎士見習いだった頃からの腐れ縁で、アスタが本音を言える友人でもある。貴族の子息だが、本人曰く田舎貴族の次男坊では騎士団に入るぐらいしか先が無かったそうだ。ダンジェ自身も貴族とは思えない程気さくだし、アスタよりも長身で体格も良い。酒を呑んでゲラゲラと笑う様を見ればとても貴族の出だとは思えない。黄土色の短い髪の下にある額の左半分には戦で負った横一線の刀傷が残っていた。
「この国の出身じゃないそうですよ。あちこち旅をしながら歌を披露してお金を稼いでいるそうです。」
「女一人で旅を?」
「えぇ。最近は平和になりましたからね。」
アスタ達はバルム酒を人数分と適当な料理を注文し、運ばれてきたそれらに早速手を付けた。そして今日の労働を労って乾杯する。長い間寝食を共にしてきた仲間は、先の戦で身内をなくしたアスタにとって家族も同然だった。
「今頃トレンツェ副隊長は良いモン食べてるんでしょうねぇ。」
今夜城で行われている夜会の事を言っているのだろう。根菜の揚げ物を摘みながらロニがそう一人ごちた。
「どうして隊長は城の夜会に出席しなかったんです?」
先月第八騎士団に入隊したばかりの新人がアスタに顔を向けた。切れ長の目をした細身の男で、確か名はザックといった。彼に向かってアスタは苦笑する。
「どうも、俺はああいう場が苦手なんだ。」
「勿体ねぇよなぁ。上等な酒と料理。それに貴族の綺麗なおねぇちゃん達がパーティーには出揃うんだろう?」
太い指で顎鬚をなでながら、からかうように言ったのは仲間のアーロンだ。今年五十になる偉丈夫で、副隊長を務めるほどの豪傑だったものの、足に深い傷を負い今は平の隊員となっている。それでもアスタにとっては隊長になってからも頭の上がらない、世話になった人の一人だ。
「あんなに小奇麗な場所じゃ、緊張して食べている物の味も分かりませんよ。」
「隊長のくせに、肝っ玉のちいせぇ野郎だ。」
「アーロンさんにはいつまで経っても敵いません。」
それぞれ談笑しながら食事を進めていると、突然荒々しい声と共にテーブルが叩かれた。
「クソッ!」
どうやらアスタ達の隣のテーブルに座る五・六人の集団の一人の仕業だったようで、彼はテーブルの上で拳を握り締めている。同じテーブルの客達も彼と同様沈痛な面持ちでそれを見ていた。
「もう我慢できねぇ。いくらなんだって、こんなの理不尽じゃねぇか。」
酒場は騒がしいのが常だとしても、隣のテーブルともなればその話し声はアスタの耳まで届く。気になっているのは仲間達も同様らしく、彼らの話に耳を傾けていた。
「そんなこと言ったってよぉ。村にゃあ、俺らの稼ぎを頼りにしている家族がいるんだ。ここで辞めるわけにもいくめぇ。」
「けど、ここ丸一年家族の顔を見てねぇんだぞ!少しの休みも貰えず、ただ安い賃金で働かされるだけ。もううんざりだ。」
貧村からの出稼ぎ労働者といった所だろう。市場の変化で物価の安定しないユフィリルでは、少しでも人件費を抑えようと経営者側が安い賃金を課すのが問題になっている。けれど働き口がないのでは悪条件でもやらざるを得ない。このまま放っておけば、情勢は悪化し犯罪に手を染める者が現れるのも時間の問題に思えた。
勿論そういった現状をアスタは国へ報告していた。雇用に関することなどそれぞれの領主が先ず手を打つべき問題であり、騎士団が首を突っ込む話ではない。だからアスタの陳情もまともに受けてはもらえない。流石に国府もここまで対応が行き届いていないのが現実だった。
「どうする?このまま我慢するのか?」
「どうするったって・・。どうしようもないだろ?」
「そんなことねぇよ。皆で訴えようぜ。」
「え?訴える?」
「そうだよ。ちょっとエリアの野郎を脅してやれば・・・。」
物騒な話になってきて、アスタはダンジェと顔を見合わせた。
「エリアってのは、聞いた事あるか?」
「いや。」
小声で交わした二人のやり取りに、口を挟んだのは新人のザックだった。
「街の東で牧場経営している地主ですよ。事業拡大に成功して、最近羽振りがいいみたいですね。」
騎士団とは言え毎日警備と鍛練に明け暮れていて街の情勢には詳しくない。意外な所からの情報にアスタは目を丸くした。
「詳しいんだな。この街の出か?」
「いえ。第八騎士団に入隊が決まった時にこの街の事も少し調べたんです。と言っても街の有力者ぐらいですが。」
中々抜け目の無い性格らしい。
(うちの隊には勿体無いかもしれないな。)
辺境の地で警備ばかりしている第八騎士団ではザックの能力を持て余してしまうかもしれない。そんなことを思いながらアスタは再び隣のテーブルに目を向けた。運の悪い事に彼らの計画はアスタ達騎士団に筒抜けになっている。当然本気で彼らが雇い主に対して何かしようものなから、どんな事情があろうともアスタ達は止めに入らなくてはならない。酒の勢いで少し気が大きくなっている程度だといいのだが。
彼らの様子を窺いながら、アスタはグラスの中のバルム酒を飲み干した。
(ん?)
すっと彼らのテーブルの近くに座っていた女性が立ち上がる。何故彼女が目についたのかは分からない。きれいな姿勢で彼女が酒場のカウンターに向かうと、アスタだけではなく他の客達も彼女を見ているようだった。その証拠に先程までの酒場独特の喧騒が収まっている。
彼女はカウンターの向こうで酒を作っているバールと二言三言交わした後、客達のテーブルが並ぶホールに向き直った。この国には珍しい真っ黒な髪と真っ黒な目。髪は背中の中ほどまで真っ直ぐ伸びていて、簡素なワンピースを身に纏っている。キャリーより少し年上だろうか。どこか神秘的な雰囲気があるのは、珍しい髪色のせいかもしれない。
彼女が一つお辞儀をすると客席からは拍手が沸き起こった。
「誰だ、あれ?」
ダンジェの言葉にロニは興奮した様子で耳打ちする。
「もしかして、あれがシンガーなんじゃないですか?」
(あれが?)
オレンジ色のランプに照らされ、彼女は一歩前に踏み出し正面を見た。その時、自分と目が合った気がして不意に鼓動が跳ねる。だがそんなのはアスタ気のせいだろう。彼女からすれば視界に入る大勢の客の一人でしかない。
彼女の薄い唇が開かれると、ゆったりとしたメロディーが店内を包んだ。
“どれほどの闇に包まれても どれほどの嵐にさらされても
あなたは涙を流さない
どんなに辛いことがあっても どんなに悔しいことがあっても
あなたは涙を流さない”
(何だこの歌・・・・)
アスタは言葉を失っていた。通常歌手が歌うのは季節の歌や豊穣を祈る歌、王や国を称える歌、英雄譚が一般的だ。だが、シンガーが唄う歌はそのどれとも違った。まるで一個人の為に作られたような歌詞だった。
“一人で走らないで 一人で探さないで
あなたが地面に膝を着く時 同じ大地の上で幸せを祈ってる
あなたが空に溜息を付く時 同じ空の下で未来を願っている
その胸に残して あなたは一人じゃない”
彼女の声が、詩の一つ一つがアスタの胸に響く。彼女から目を離すことが出来なかった。目の前で湯気を立てる料理に手を付けることも出来ない。そしてそれは他の客達も同様だった。店中の目が彼女に向けられている。
“絶望に嘆きそうになる時思い出して あなたの大切な人の笑顔
孤独に負けそうになる時思い出して あなたの大切な人の涙
その瞳に残して みんな一人じゃない
太陽が降り注ぎ 花が咲くように
あなたが笑えば みんなが笑顔になる
嵐の夜も越えていける 厚い雲も晴れるから
忘れないで 私が隣にいることを”
大きな歓声と拍手が沸き起こり、そこで初めてアスタは彼女の歌が終わった事に気がついた。遅まきながらも拍手を送る。彼女は穏やかに微笑み、優雅な仕草で客に向かって一礼した。そして今度はカウンターの空いている席に腰掛ける。再びバールとの会話を楽しんでいるようだ。すると近くの席の客達が次々彼女に声をかける。
「どうでした?」
ロニに言われ、アスタは彼女から視線を剥がした。
「・・確かに、変わってるな。」
「ですよね。俺もあんな歌初めて聴きました。ユフィリルの人間じゃないって言ってましたけど、どこの出身なんでしょうね?」
話しかけにいくか?、とダンジェが言ったがアスタは笑顔で断わった。確かに気にはなる。けれど今彼女に群がっている客達を押しのけてまで話しかけようとは思わない。
すると隣からすすり泣く声が聞こえてアスタは視線をそちらに向けた。見れば先ほどエリアに抗議しようと言っていた集団の一人が泣いている。どうした?と仲間の一人が訊くと、彼は首を横に振った。
「やっぱり止めよう。脅すなんてダメだよ。」
「なっ!お前怖気づいたのかよ。」
「違うよ。・・さっきの歌を聴いて思ったんだ。離れていたって、俺達は一人じゃない。家族に顔向けできないようなことはしちゃいけないんだよ。」
「・・・・・。」
彼のその言葉に仲間達は口を噤む。それをアスタは信じられない気持ちで聞いていた。
彼女の歌は彼らと同様アスタの心を揺さぶった。穏やかで小さな子供を宥めるようなその歌声はするりとアスタの中に入り、けれどその詩の内容がアスタの胸に刺さる。
一人で泣くな、と彼女は言った
(何でこんなに・・・・。)
あの歌の詩がいつまでもアスタの胸に引っかかる。落ち着かない気持ちで、アスタは酒のおかわりを注文した。