垂乳根
「おっ母さん、待ってください」
従吾は向こうにいる母親に呼びかける。
「おっ母さん」
母親は従吾を見ながら静かにほほ笑んでいる。
「待っていてください。もう少しでそちらに着きますから」
従吾は足を踏み出す。一歩進む。二歩進む。しかしその度ごとに、向こうの母親は遠ざかるように小さくなっていく。
「おっ母さん」
従吾は空をつかむようにして片手を前に出す。
「なぜこちらに来てくださらないのです。どうか来てください」
しかし、その呼びかけも空しく、母親は当初の場所とは遠く隔たった場所でほほ笑んでいる。
「おっ母さん」
しばらくして、従吾は歩みを止めた。息が荒い。歩き疲れたようだ。
「おっ母さん」
顔が下がる。下を向く。下も周りも、あるのは真っ暗な黒ばかりだ。
「おっ母さん……」
膝を掴む手が強張ってゆく。指に力が入る。
従吾はもう何も言わなかった。
顔を上げることが従吾には出来ない。
上げれば、そこに何があるのかが分かってしまうからだ。
何も無いこと。それが彼には一番恐ろしいことだった。
母親のほほ笑みが、頭から離れなかった。
「おっ母…………」
誰にも聞こえないほどの声で呟き、彼は意識を失った。