朝は来る
この作品は、仙道アリマサさまの主催企画「仙道企画その2」への参加作品です。
仙道様のオリジナル楽曲から着想を得て書きました。
よろしければ、楽曲と併せてお楽しみくださいませ。
楽曲URLはこちら→https://www.youtube.com/watch?v=BOq6jPjhESo
”朝日は東から上る”ということを、私は今日、初めて知った。
*
「おはよう」
「おはよう。眠れた?」
「多分」
無意識に両腕をさすりながらリビングへ降りていくと、一見していつも通りの母が出迎えてくれた。菜箸を器用に使って、お弁当箱に色とりどりのおかずを詰めている。
「本当に唐揚げでよかったの?」
電気ポットを手に取り、母と並ぶような形で水を入れ始めた時、彼女が若干心配そうに尋ねてきた。
「何で?」
「ほら……脂ものだから、胃にもたれたりしたら困るかなって」
「考えすぎだよ」
ポットを台にセッティングし、カチ、とスイッチを入れながら、思わず笑ってしまった。
「好きなものを食べたら、元気が出そうだなって思っただけ。柚子胡椒の唐揚げ、好きなんだよ」
「それはそうなんだろうけど」
「それなりに緊張してる身としては、慣れ親しんだ味に少しでも癒されたいわけッスよ」
紅茶、プーアル茶、さんぴん茶……
どれにしようかな、のポーズでお茶を物色しながら、ちょうど良さそうな塩梅でおどけてみせる。母は、形のいい眉をハの字にしてため息を吐いた。
「頼もしいんだか、何なんだか」
「任せといてよ。この日のためにずっと頑張ってきたんだから」
事実だった。約半年間、この日のために全てを捧げてきたのだ。
「……あっという間、だったね」
「そうだねえ」
努めてのんびりと呟いてみせる。
「……ごめんね」
「何、急に」
「……”選択肢”を、与えてあげられなくて」
母の表情がわかりやすく翳る。ちょっとちょっと、本日の主人公は私なんですけど……と毒づきたい気持ちを抑えて、穏やかな表情で応える。
「何度も言ったけど、私は橋北以外、興味ないから。それがたまたま県立だっただけの話。むしろ、ラッキーだったじゃん」
「そうなんだけど……まさか、滑り止めを一つも受けないなんて思わなかったから」
「行かない学校を受験しても、受検料がムダになるだけでしょ。ほら、目玉焼き焦げるよ」
その言葉をきっかけに、母の意識はフライパンへ向かったらしい。私は、胸を撫で下ろした。さんぴん茶のティーバッグをマグに入れ、沸かしたてのお湯を注ぐ。立ち上った湯気を見ていると、ふと、周囲から音が消え去ったような感覚に襲われた。
電車が遅れたらどうしよう。
体調を崩したらどうしよう。
忘れ物をしたらどうしよう。
記入ミスをしたらどうしよう。
ーー何も、できなかったらどうしよう。
「セーフ!」
母の一言で、私はハッと我に返った。
「ありがとう。あのタイミングで言われなかったら焦がしてたわ。今日は幸先がいいね」
母なりに、私を励まそうとはしてくれているらしい。
「……縁起ってのは、そうやってどんどん担ぐべきだよ」
苦笑しながら、私はそう応じた。
*
「定期、持った?」
「うん」
「お財布は?」
「持った」
「お弁当」
「ここにある」
「あ、受検票は!?」
「バカにしないでよ、ちゃんとあります」
制服、マフラー、コートでもこもこになった身体を揺らしながら、私は笑った。そして、あることに気が付く。
「忘れてた!」
「え、何!?」
途端に母がわかりやすく狼狽え出す。こっちが本音で、やはり色々と気を遣われているのだろうと改めて思う。そんな母をとりあえずスルーし、私は小走りでリビングへ向かった。
「お父さん、今日はよろしくお願いします!」
勢いよくお辞儀をすると、母が、ハッと表情を止めたのを感じた。
笑顔の写真に向かって、私は手を合わせて、目を閉じた。
そして、また、世界から音が消える。
ーーお父さん。
本当は、怖いの。
怖くて怖くて、もう、逃げ出したくてたまらない。
とっとと世界が終わっちゃえばいいのにって思う。
でも、そんなこと誰にも言えないから。
お父さんにだけは、言わせてねーー
顔を上げると、変わらない笑顔がそこにあった。
写真に向かって合わせた手は、手袋をしていたにも関わらず、キンキンに冷え切っている。
「これで忘れ物はなし!行ってきます!」
「あ、ちょっと!」
勢いで飛び出そうとする私に、母が慌てて声を掛けた。その声を無視して、私は玄関の扉を開けた。
「え」
視界に飛び込んできた世界に、私は戸惑う。
何かが、おかしい。
何かが、いつもと違う。
でも、何がおかしいのかが、わからない。
途端に、飼い慣らそうとしていた不安がグワっと爪を立てて、私を襲ってきた。身体の感覚がジワジワと失われていく。私は今、どうやって立っているんだっけ?
また、世界から、音が、消えていくーー
「ああ。ちょうど、日の出の時間だったのね」
私を現実に引き戻したのは、やはり母の声だった。
咄嗟に表情を作る余裕など当然なく、つい、呆けた顔で母のことを見てしまう。幸い、母は気に留めていないようだった。
「冬の朝日って、空気が澄んでいて、本当に綺麗よね。」
そこで私はようやく気が付いた。
ーー朝日は、東から上るのだ、ということに。
いつも私が見ているのは暮れていく空ばかりで、当然、明けていく空は、それとは逆向きなのだ。
太陽は西に沈み、そして、東から上ってくる。
「……初めて、見たかも。朝日」
力強い光に照らされた私は、全身の力がふっと抜けるのを感じた。
ーー綺麗。
「ひかる」
名前を呼ばれて、私は母を見る。母の顔もまた、朝日に照らされて輝いていた。
「いってらっしゃい」
私は、今日初めての心からの笑顔で、それに応えた。
「……いってきます!」
いつもと違う、けれどいつもと同じ一日が、始まる。