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ワイヤーを外す時  作者: 赤尾 常文
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 記憶の中で、若い父と母が訊ねる。


「大きくなったら何になりたいの?」


 顔はあまりはっきりしていない。なんとなく、二十年くらい前はこれくらいだっただろう、と脳が勝手に補正しているのだろう。実際、当時その質問をされたかどうかさえ、怪しい。両親は幼い優斗の前にしゃがんで目線を合わせている。口元は微笑んでいるはずだ。


 背景はもっと曖昧である。おそらく父の実家の茶の間だろう。ぼんやりとした景色の中で、ぼんやりとした両親が笑っている。それでも、優斗は胸を張って答えた。


 時折思い出すその光景は、そのようでいて、やけに生々しく、まとわりついてくる。何度も何度も、思い出してしまう。きっと、その光景が見たいからだ。それが実際にあったことだと思いたいからだ。




 トイレの白い壁を見つめながら、また思い出していた。深くため息を吐き、尿を切る。壁に貼られた「一歩前へ!」という貼り紙に従い用を足していたので、少し腰を引いた。パートのおばさんが作ったその貼り紙には、男性が小便器に向かっている様子を横から見たイラストが描かれていたが、意外と上手な上に、右手を添えていることがわかるなど、妙にリアルだった。


 小便器の横についている銀色の物体が何なのか、いつも不思議に思う。開けようとしても開かないので、中に何が入っているかわからない。だが、それをわざわざ調べることはしなかった。


 優斗は便器の横の壁を軽く殴った。いつか壊れないかと思って、たまに殴っている。始めたのは入社二年目。仕事でミスをして、自分に対するイライラを、つい壁にぶつけてしまったのだ。それから五年、なかなか壁は壊れない。もちろん、殴るのはたまにだし、壊れないような力加減で殴っている。それでも、一滴の水が岩を削るように、蓄積されたダメージがいつか限界を超えるのではと思っている。


 手を洗い、鏡を見る。軽く髪を直す。社内に若い女性はいない。誰に見られるわけでもないが、そうするのが癖になっている。タオルハンカチで手を拭くが、少し湿ったそれをスーツのポケットに戻すのは、いつも少しだけ嫌な気分だ。


 部屋に戻り、自席に座る。パソコンの画面はまだスクリーンセーバーが動いていなかった。就業時間まであと三時間もある。


 マウスを動かし、エクセルファイルを開く。ファイルはいつも決まった場所にある。自分がその場所に作成したのだから当然だ。だが、本当は少しだけ違うフォルダ内に入れたほうが良いものだった。もう複数の別ファイルが参照しているため、移動するには少し億劫だった。全く関係ないわけでもないので、そのままにしている。


 優斗は、なぜ自分がここにいるのか、未だにわからなかった。居心地は悪くない。同僚も上司もパートのおばさんたちもみんな優しい。それでも、本当の居場所ではないような気がした。


 このエクセルファイルも、そう感じているのだろうか。

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