97:営業スマイルは1回1000円になります
「失礼いたします!!」
周が教官室のドアをノックすると、担当教官の姿は見えなかった。
北条の欄は『不在』と記載されている。
ならば、雨宮教官の方はどうだろう?
彼女の席のパソコンは電源が入っていた。今は少しだけ席を外しているらしい。
彼女ならきっと真剣に話を聞いてくれる。
その時、急にものすごい眠気に襲われた周は、近くに誰もいないのをいいことに大きな欠伸をした。
「あら、眠そうね」
後ろから声が聞こえて、周はびくっと震えた。
振り返ると雨宮教官が笑っている。
「何か用? 雪村君なら刑事ごっこの最中よ」
「え?」
「なんてこと言ったら叱られるわね、あの人も本来は刑事部捜査1課だもん。今はどこで何をしてるんだか。あちこちフラフラしてるわよ」
そう言えば。
ここのところ北条は不在がちで、雨宮教官が代理で授業を行うことが多かった気がする。
「……すぐに戻られますか?」
「たぶんね。雪村君に急ぎの用なら、携帯を返してあげましょうか?」
彼女が北条と親しく、ファーストネームで呼び合う仲であることは皆が知っている。
周は一瞬考えたが、
「いえ、実は雨宮教官にもお話が」
「私に? 何かしら」
「パソコン室からのマウス盗難事件のことで……」
「ああ。それで、見つかったの?」
彼女の把握していたようで、すぐに通じた。
「それが……」
言いかけた時、ドアをノックする音にジャマをされた。
「失礼いたします。長期過程50期生、亘理玲子巡査です」
課題のレポートを提出しに来た、と彼女は告げた。
「ちょっと待ってて」
雨宮教官は立ち上がり、玲子に近づいて何か話していた。こちらに聞こえないような小さな声で。それからなぜか、ふふっと2人の間で笑いが起きた。
失礼いたします、と玲子は去って行く。
仲がいいんだな……と周は思った。
「それで、盗品はどこから見つかったの?」
「富士原教官が仰るには……寮の、倉橋護巡査の部屋からだそうです」
すると。
雨宮教官は口角を上げた。
「なぁに? その言い方。まるで、彼が誰かにハメられたとでも思ってるみたいね」
鋭い指摘に、周は思わず困惑を顔に出してしまった。
「そう、思っています……」
「あらどうして? 根拠はあるの?」
「護……倉橋巡査はそんな人間じゃありません!! 自分の知る限り、彼はとても真面目で正直な人間です」
「そうね、私もそう思うわ」
女性教官は机に腰かけ、耳にかかる髪をかき上げる。この人ならわかってくれる、という安心感が胸に広がった。だが。
「でも……それじゃダメだって……彼が犯人じゃないっていう証拠を探さないと」
初めは気を遣って話し方に気をつけていた周だが、次第に砕けてしまったことを自覚して、微かに首を横に振る。
「倉橋巡査の潔白を証明するためにいろいろ調べたいことがあります。教場仲間や、他の職員の方々に話を聞くことをお許しくださいませんか!?」
艶やかなルージュを引いた唇から、何か言葉が出かかった時だ。
「お前、相当暇なんじゃのぅ?」
後ろから聞こえてきたのは、富士原の濁声だった。
周は首だけを動かして肩越しに背後を見た。
ぽん、と分厚い掌が肩に乗せられる。
「時間に余裕があり過ぎて困るみたいじゃけん、特別に稽古をつけてやろうかのぅ。お前も倉橋と一緒に明日からも5時起きじゃ。ワシが自ら指導してやるけぇ、用意して道場で待っとれや」
いやらしい笑顔を浮かべ、富士原は自席に着いた。
こいつのことが大嫌いだ。
なるべく顔に出さないよう気をつけて、周は教官室を出た。
それから寮に向かって歩いていると、少し前を倉橋が、壁に縋るようにして歩いている後ろ姿が見えた。
「護?!」
周は友人の元に駆け寄った。
半袖シャツからのぞく二の腕にはあちこち擦過傷があり、顔も口元や瞼が紫色に腫れあがっている。
「しっかりしろ!!」
何があったのか、誰にやられたのかなんて訊ねるまでもない。
富士原だ。
盗難事件の犯人と決めつけられた倉橋をいわゆる【粛清】したに違いない。
何度投げ飛ばされ、痛めつけられたことだろう。
「……周、俺……」
「わかってる、護は絶対に盗みを働くような人間じゃない!! 俺が絶対にそのことを証明してみせるから!!」
自分よりも身長の高い友人を肩に担ぎ、周は歩き出した。
※※※※※※※※※
それは午後3時頃のこと。
聖が去った後、どうにか隙間時間を見出した北条は、相馬が経営するという八丁堀の猫カフェに1人で向かった。
本通り商店街の一画、雑居ビルの3階にその店はある。
狭いビルの入り口、柄の長い箒で床を掃いている若い男性の背中が見えた。
羽織っているジャンパーの背中にプリントされているのは【猫の手】とのロゴ。
鈍い光を放つ金色の髪に、今時の若者が好んで穿くような幅の広いズボン。頭には青色のキャップを被っている。
タダ者ではない。
冗談などではなく、なんというのか身に纏っている空気が違う。
今はこちらへ背中を向けているが、仮に攻撃でも仕掛けたりすれば即座に反応するであろう。そんな気がした。
いつしかじっと見入ってしまっていたのだろう。
「……何か?」
振り返ったその顔を見た瞬間、北条は思わず息を呑んだ。
黄島が言っていた人物。世羅高原で着ぐるみを着て歩いていたという元自衛官だという若い男性。
確か名前は……。
「あ……いえ。猫カフェは、営業していますよね?」
「もちろん。可愛い子がいっぱいいますよ、お兄さん」
にこっと笑うその表情はまさに、猫を思い出させた。
「あの、失礼ですけど。このビルには定期的に清掃に来られているのですか?」
努めて丁寧な口調で確認してみる。すると。
「……どうしてそんなことを?」
相手の顔に猜疑の色が浮かんだ。
「いえ、知り合いが……【猫の手】って言う名前の清掃会社を探していて。評判が良いからぜひ利用したいって言っていたんです」
咄嗟に口から出まかせを言う。
「ホントですか?! じゃあ、チラシを持って行ってください。猫カフェのラックにありますから」
ありがとうございます、と答えて北条は猫カフェの扉を開いた。
いらっしゃいませー、と女性の声が出迎えてくれる。平日の昼間だからか店内は空いていた。
此方へどうぞと言われ、案内されたのは窓際の席だ。
水を持ってきてくれた若い女性に、
「今日、オーナー……店長はいますか?」
北条は営業用スマイルを貼りつけ問いかける。
「え、えっと……今はちょっと外に出ていますけど、すぐ戻ると思います」
北条は時計を確認した。
その時、冴子から着信があった。
『雪村君、今どこにいるの?!』
「……ちょっとね」
『すぐに戻ってきて、とんでもないことになったわ!!』
とんでもないこと?
「何があったの?」
トラ模様の猫がテーブルの上に乗ってきて、スマホの匂いを嗅いでいる。
『……電話で話すようなことじゃないわ。ましてメールでも。とにかく、今すぐにこっちへ帰ってきて!!』
富士原か。
恐らく先日問題にしていた【盗難事件】……ヤラセだと思っているが……について、良くない方への進展があったに違いない。
北条は立ち上がって出口に向かった。
店員の女性が怪訝な目でこちらを見ている。
「ごめんなさい、急用が……」
その時だった。
「あれ、雪村? 雪村じゃないか!!」
聞き覚えのある声。
北条は足を止め、振り返った。
「……要……?」
「久しぶり!! 元気そうだな!!」
相馬要。
そこに立っていたのは学生時代からの友人だった。
先日、尾道東署で見かけた。
しかしその時は互いに知らないフリをしてやり過ごしたのだが。
北条さんは対外的にはいたって紳士です。