96:胸の内ではいろいろと罵詈雑言が
各自で組み手を始めと富士原が笛を鳴らすと、倉橋の前に立ったのは、寮で隣の部屋にいる水越だった。
「のぅ、俺と組んでくれんか?」
「……わかった」
思えばこの男にはいろいろと言いたいことがあった。周との仲をギクシャクさせる原因を作ったのは、こいつが吹き込んできた余計な情報だ。
周が自分を疎んじてる。足を引っ張られているって、ウザがっている。
一緒にいれば何かいいことがあるとでも思っているのが伝わってくる。そりゃ担当教官のお気に入りだからさ。実際、そうなんだろ?
初めは深く考えずに信じてしまった。だが、今にして思えばどうしてもっとよく考えてみなかったのだろう。
彼がそんなことを言うはずがないのに。
恐らくその日は落ち込んでいた。
富士原に難癖をつけられ、頬を叩かれ。そんな時に吹き込まれた悪意。
実を言えば倉橋だって周のことをうらやましいと思うことはある。みんなに人気があって、親しくしている刑事もいる。
そうか。この男はきっと、それが気に入らなかったから……。
柔道はあまり得意ではない。たいして水越は段位を持っている。
それがなんだ?
明らかにこちらを見下し、調子に乗っている相手を倉橋は見据えた。隙はきっとある。
何度か足払いをかけられ、背中を畳の上につきながらも、あきらめなかった。
やがてその時を見つけた。倉橋はしっかりと水越の襟をつかみ、思い切って力を込めて投げ飛ばした。相手の身体がふわりと浮いて飛んで行くのがわかった。
だんっ、と派手な音が耳に届く。
そして笛の鳴る音。終了の合図だ。
少しだけ気が晴れた。
だが、その時だった。
「おい、お前ら。あと1分だけ猶予をやる」
今度は突然、富士原はそんなことを言い出した。
「これが最終通告じゃ。実はのぅ、今朝お前らがランニングをしとる間にガサ入れをしたんじゃ。その結果……盗品が発見された」
どうだ、頭良いだろう? とでも言いたいのだろうか。
「さすがです、教官!!」
谷村が声を挙げる。すると、彼女に追随して拍手を送る者が2、3名。しかしそれは不発に終わった。
谷村はものすごい表情をして、教場仲間全員を睨んだ。
その時になってようやく倉橋は気がついた。
谷村晶、こいつはつまり富士原のサクラだ。
ゴリラとメスゴリラでお似合いじゃないか。
「……誰の部屋じゃったと思う?」
全員が息を飲んだ。
誰も何も言わない。
やがて。富士原は並んだ学生達の前を1回往復すると、なぜか自分の前で足を止める。
倉橋は不思議に思った。同時に、嫌な予感が胸をよぎる。
そして次の瞬間には頬に火箸を当てられたかのような衝撃を覚えた。
全身が浮遊するような感覚。続いて、畳の上に背中を打ちつけたのがわかった。
「護!!」
周の声だ。
目がチカチカする。手の温かい感触で、友人が抱き起こしてくれたのだろうと察する。
「お前じゃ、倉橋。お前の部屋から出てきたんじゃ」
考えが上手く回らない。
俺の部屋からなんだって?
そんなはずはない。身に覚えのないことだ。
知りません、と言おうとした。が。咄嗟に思い留まる。
どうせ今は何を言ったって無駄だ。
それと同時に、誰かにはめられたのだと倉橋はようやく戻ってきた思考力でそう判断した。でも誰が、どうして?
入校してからこちら、誰かとトラブルを起こしたことは一度もない。
恨みを買うような真似をした記憶もない。だが、逆恨みということもあるだろう。
どうしよう。
倉橋は必死に頭を働かせた。
「のぅお前。若狭が使った後のマウスじゃけんって持って帰ったんか?」
「……え?」
やっとのことで出た声は掠れていた。
「好きな女が触った後、匂いでも嗅いで興奮しとったんか。変態じゃのぅ」
富士原は膝をついて倉橋の顎をつかみ、顔をあげさせる。
「お前、そのうち性犯罪でもやらかすんじゃないかのぅ?」
クスクス。誰かが笑いだした。すると、すぐに嘲笑は伝染する。
顔から火が出るかと思うほど、恥ずかしさがこみ上げてきた。今すぐにここを去ってしまいたい。でも。もしそんなことをすれば、認めたことになってしまう。
当の若狭は困惑気味な表情でこちらを見ている。
どうして彼女のことがバレているのだろう。周にだって一度も話したことはない。いったい誰が?
恥ずかしさと悔しさと疑念と。
頭の中が混乱しかけている。自分は当面、何を考えたらいい?
すると、
「いくらなんでもそれは、倉橋巡査に対する侮辱です!!」
周の声で倉橋は我に帰った。
「警察官を志してここに入ってきた人間に対して言うことではありません!! 第一、彼の部屋から見つかったからって……犯人とは限りません!!」
富士原が周を睨みつける。そして。
視界の端で、周の身体が吹き飛んで行くのが見えた。
「口ごたえするな!!」
笑っていた学生達は全員が硬直する。
「まぁ、これで事件は解決した訳じゃ。喜べ、倉橋以外の全員は起床時間を元に戻してやるけぇな」
ほっ、と皆の顔が綻ぶ。
少しふらつく身体を無理に起こし、倉橋は友人の元へ走ろうとしたが、それよりも先に動いた人物がいた。それも2人。
上村と亘理玲子。
今は彼らに任せておこう。2人が周の身体を支え、道場の隅、壁にもたせかけたのを確認した。
「残念じゃったのぅ、こんな結果になって。お前らの仲間じゃぞ」
全員がこちらを見る。
仲間なものか、と全員がそう言っているように思えて仕方なかった。
「ほんならこれで授業は終わりじゃ!!」
学生達はそれぞれ、複雑な表情を見せていた。それから掃除にとりかかる。
倉橋はふらつきながらも、どうにか立ち上がり、まずは周の元に行こうと思った。
「おい、倉橋」
富士原が背後から声をかけてくる。
「お前は残れ」
※※※※※※※※※
幸い、医務室に世話になるほどではなかったので、すぐに動けた。
周は上村と玲子に礼を言って立ち上がった。
更衣室で服を着替えていると、身体のあちこちが悲鳴を上げた。
先ほど富士原に殴り飛ばされた際にできた打ち身だろう。脇に紫色の痣ができている。
周はなるべく、打ったところに衣類が当たらないよう、細心の注意を払いながらシャツに袖を通した。
それにしても……倉橋だけ残るように指示されていたが、いったい何だろう? 心配でたまらない。
「びっくりだよな~」
「ほんとだな、意外だった。真面目そうな顔してるのに」
近くにいた同じ教場の学生が2人でひそひそ話し合っている。
「まさかあの、倉橋巡査がな……」
「違う!!」
周は思わず、彼らの会話に割って入った。
「護はそんな人間じゃない!!」
彼らが例の窃盗事件について話しているのは明らかだった。2人は驚いた顔をしたが、やがて肩を竦める。
友人同士で庇い合っているだけだ、とでも考えているのだろう。
「やめろ、藤江巡査」
そう言って割って入ったのは上村だった。
「でも……!!」
「前から思っていたが、君はあまりにも感情論に頼りすぎだ。仮にも刑事志望なら、倉橋巡査が犯人ではないという証拠を探すべきじゃないのか?」
返す言葉もない。
周は俯いて唇を噛んだ。
「あるいは真犯人を探す……」
どうやって、と訊きかけてやめた。自分で考えよう。
問題のパソコンに触れたであろう人物をピックアップし、そして目撃証言。指紋を調べることだってできるかもしれない。そもそもいつからマウスが紛失したのか。
「……そうか!!」
周は顔を上げた。
「ありがとう、上村!!」
細くて白い彼の手を握り、ブンブンと上下に揺する。
まずは北条に相談してみよう。
あの人ならきっと、ちゃんとこちらの話を聞いてくれるはずだ。
周は廊下を走って教官室へ急いだ。