95:ほら、あれ甲府駅前にあるあの感じ
北条は教官室でデスクワークをこなしながら、いろいろと考えていた。
富士原のことはもう少し様子を見るしかない。
あんなクズをいつまでものさばらせておくのは気に障るが、確かに今はこれと言った物証もない。学生達にはもう少し辛抱してもらうしか。
とはいっても、ほぼ限界に近いだろう。
彼らの間を流れる空気は険悪としか言いようがない。
北条が溜め息をついたその時、
「北条警視」
突然。音もなく静かに背後に忍び寄っていた影が声を発したので、驚いて手を止める。
「……それ、心臓に悪いからやめて」
「失礼いたしました。ご報告があるので参上いたしましたが、どこかへ移動しますか?」
今、教官室は他に誰もいない。しかし。
「こっちに来て」
校長室のすぐ隣に応接室がある。北条はそこに誰もいないことを確認してから、聖と向かい合ってソファに腰かけた。
彼はタブレットをとりだしてテーブルの上に置く。
「半田遼太郎と相馬要の名を知る者は、世羅郡のあの近隣のみならず、庄原及び神石町まで広がっていました」
「ふーん、随分と有名人じゃないの」
北条は腕と足を組み、鼻を鳴らした。
「今から4年前の6月です。台風12号が通過した際、土砂崩れや河川の氾濫による隣県を巻き込んだ大災害が起きたのは記憶に新しいかと思いますが」
確かにそんなことがあった。あの時は付近を流れる川が氾濫し、近隣にもたらした被害は甚大だった。
その時の救援活動には、当時渡米していた北条も一時帰国して参加したことを思い出す。
「その際、帝釈峡周辺にある神石庄原地区の救援活動に当たったのが、半田の率いる自衛隊の部隊だったそうです」
自衛隊の階級はよく知らないが、その半田と言う男はなかなか高い地位にいたのだろう。相馬はその部下だったということだ。
「警視もご存知のとおり、災害時には必ずと言っていいほど略奪事件が発生します。神石町のとある素封家にも泥棒が入り、たまたま一時帰宅していた住人と鉢合わせになったそうです」
その時の光景が頭に浮かぶ。
泥だらけになってしまった室内で、戸棚やタンスはひっくり返ってしまったに違いない。貴重品などもおそらく、目につくところに放り出されてしまったことだろう。
強欲で卑劣な犯罪者たちは災害時などの緊急事態を狙って空き巣に入る。
「開き直った窃盗犯が住人に襲いかかろうとしたところ、それを阻止したのが偶然にも通りかかった相馬要。その犯人は1件のみならず、複数同じ事件を起こしていました。そうして相馬は……すべての犯行を自供させ、奪った金品などを持ち主に返却させたそうなのです」
「なに、それで神石町ではあいつが偶像となって奉られたとでも……?」
北条はまさかと言うつもりで問いかけたが、
「まさか、本当なの?」
「無理もありません。命を救ってくれただけでなく、財産まで守ってくれたのです」
銅像でも立てて、駅か市役所の前にまつられていたりするのだろうかと、冗談のようなことを一瞬考えてしまった。
「ああいった因習の強い町では、音頭をとる人物……例えば町長だとか、名ある家の当主などが一声、彼を敬い崇めろと言えばたちまち広まります。逆らうならば古い言い方ですが村八分、これは冗談でもなんでもなく事実です」
ゾッとした。
北条自身は生まれも育ちも広島市内の中心部で、田舎町の暮らしを知らない。
ただ噂には何となく聞いたことがある。
ああ言う場所は地元民の密着度、人間関係の濃密度がまるで異なると。その上、やたらに迷信深く、科学的根拠に基づいた論理など何の意味もなさないのだ。
「いっぽう、世羅の方ですが。なぜあの2人が反対派住民のために闘ったのか……地元の方から話を聞くことができました」
「どうしてなの?」
「反対派の先鋒……リーダーと言えばよろしいでしょうか。とあるワイナリーの経営者で、その男性と相馬要が親しくしていたそうなのです」
「なに、そんな私情なの?」
北条は鼻を鳴らした。
「さらに言うなら長門大輝……あの男もそのワイナリーで働いていました。ワイナリーの社長に随分と良くしてもらっていたそうです。長門がどのようにして相馬と半田、両名と知り合ったのかは不明ですが、地元住民が反対運動を起こした時、2人を連れてやってきたそうです。そうして件の暴動が起きた際……彼らは推進派が遣わした暴力団関係者を蹴散らしてしまった」
「でも残念ながら、開発は進んでしまって……あの一大リゾートができ上がってしまったわけよね」
落ちた偶像。
そんなところだろうか。
「いえ、それが。そうでもないのです」
こちらの内心の呟きを読んだように聖が答える。
「どういうこと?」
「世羅の住民たちは相変わらず、相馬要と半田遼太郎を偶像視しています」
「どうしてよ」
「事故死として処理された、推進派の地主……既に土地を開発企業に売っていた……ですが。その人物は町の中で鼻つまみ者だったそうなのです。昔で言うところの悪代官とでも申しましょうか。とにかく町民達からひどく嫌われていました」
「まさか……」
地主を消してくれ。
世羅郡の反対住民たちがこぞって、黒い子猫に依頼を出した。
それは受理され、遂行された。
「お顔の色が優れませんが、大丈夫ですか?」
「平気よ、別に」
「もし今後、世羅に向かうようなことがあれば……充分にご注意ください」
何にどう気をつけろと?
そう訊ねてみたかったがやめた。
もしも町ぐるみで、その地主とやらの殺害を相馬に依頼したのなら……そのことを明るみに出そうとする【警察】は敵だ。
北条としてはわかったわ、としか答えようがなかった。
※※※※※※※※※
未だに盗難事件の犯人が名乗り出ることはない。このまま週末を迎えれば、間違いなく外出禁止令が下るだろう。
皆、そのことがわかっているからだろう。沈んだ顔をしている。
いったい誰がそんなことをしたのだろう?
周は今でも信じられない気持でいる。
ピリピリとした空気の中、これから武術の授業が始まる。
授業開始。一列に整列し、教官の指示を待つ。
富士原は学生達を一通りねめつけ、それから口を開く。
「ええか、今日この授業が終わるまでじゃ」
ごくり、と全員が喉を鳴らした。
何の話だ? という顔をする学生はいない。
「例の盗難事件じゃ。今日中に犯人自ら名乗り出たら、大目に見てやらんこともないど」
嘘つけ、と周は内心で毒づいた。そんなことある訳がない。
「ただし。もし今日中に解決せんかったら、土日の外出は一切禁止じゃ」
やっぱりか。
既に何か予定を入れていた学生だっているだろう。この教官はおそらく、そういう事情を見越して命令しているに違いない。
どうやったらより深く、確実にダメージを与えることができるか。
「それと喜べ。ワシもこの土日はとことんまで付き合うてやる。全員朝6時起床した上で道場に集まれ、ええな?」
学生達の間に、一気に恐怖と怯えが走った。
「恨むんならアホなことをした犯人を恨むんじゃのぅ。そうやって全員一致団結して、盗人を憎む気持ちを共有すれば絆も強まるちゅうもんじゃ」
この教官はおかしい。
完全にイカれている。
すると、
「皆、富士原教官の仰る通りだ!!」
突然、女子学生の1人が立ち上がった。谷村だ。
「我々が憎むべき敵はただ、盗難など愚かな行為を行った犯人だ。今は皆で協力して、犯人をあぶり出すことに努めようじゃないか!!」
しん、と道場の中が静まり返る。
しかし次の瞬間、拍手の音が。富士原だった。
そしてつられたように、次々と拍手が沸き上がる。それは異様な光景だった。
全員の目が奇妙な輝きを帯び始めた。
周は倉橋の顔を見た。
彼はただ、あきれ驚いた顔をしている。
今度は上村。彼はひたすら無表情を貫いている。
いったい誰がそんなことをしたのか。
自分ではないことは、自分しか知らない。
だとしたら犯人は一刻も早く名乗り出て欲しいものだ。そうしなければもしかすると、誰かがスケープゴートにされるかもしれない。
一刻も早く苦しみから解放されたいがため、誰かが……。