9:こわいよ、こわいよー!!
近づいてみると確かに、内側から物音が聞こえる。そして呻き声のようなものも。
「……誰かいるのか……?」
周はおそるおそる声をかけた。
ドンドン、と扉を叩く音が聞こえる。確実に中に人がいる。
思い切って取っ手をつかんでみるが、鍵がかかっている。
「護、鍵を借りてきて!!」
「わかった!!」
じっとしていられなくて、周は必死に扉を開けようとしていた。そんな周を横目に、上村はしゃがみこんで何やらブツブツ言っている。
「おい、何やってんだよ?!」
返事はない。
そこへ倉橋が走って戻ってきた。
解錠し、扉を開けると中から出てきたのは、亘理玲子だった。
ジャージにTシャツ姿で、ロープでぐるぐるに縛られていた。長い髪はほどけ、例えは悪いが、さながら落ち武者の様相である。
「な、何があったんだ?!」
周が彼女の身体を抱き起こそうと、少し肩に触れた時、汗の匂いがした。
「しっかりしろ!!」
上村は無言でどこかへ走り去ってしまう。
周は倉橋と協力して彼女を支え、医務室へ連れていくことにした。
「大丈夫か?」
「なんでこんなことに?」
しかし2人の質問に対し、答えはない。
そこへ上村が戻ってきた。手にスポーツドリンクを持って。
周達は足を止めた。
「少しずつ、だ。一気に飲んではいけない」
玲子はスポーツドリンクを受け取り、言われた通り少しずつ口に運んだ。
もういらない、と言いたげに彼女はそれを上村に返す。口を開くことすら面倒そうだ。
玲子を医務室に運んだ後は、それぞれの部屋に戻ることにした。
「……何があったんだろうな……?」
「わかんない。まさか、自分から物置に入りに行った訳じゃないだろ」
「まさか、新しい教官って奴が……?」
「明日からだろ?」
「だよな」
「上村はどう思う?」
周は振り返り、少し後ろを歩いていた同期生に声をかけた。
「……我々が討議したり、捜査するような件ではない」
「でも……」
「北条教官への報告は僕からしておく」
なんか怒ってる?
詳しいことはわからないが、とにかく亘理玲子は【誰か】によってあそこに閉じ込められたのだ。しかし上村の言うことももっともだ。
周は釈然としない気持ちで自分の部屋に戻った。
※※※
月曜日の朝はランニングから始まる。
しかしこの雨の中、合羽を着て走らされるなんて。
でも文句は言えない。
すぐ目の前にはレインコートも着ないで、雨に打たれながら走っている教官がいるからだ。
髪型が崩れるから合羽は嫌、とかなんとか……雨に濡れたらどうせ一緒だろうに。
ここは広島県警本部警察学校のグラウンド。
北条雪村警視が指導担当する第1教場の学生達は、雨が降っているからという理由で、屋外でのランニングを免除してもらったりはできない。
その代わり自分も雨の中を走る、という教官の態度に文句を言う学生もいない。
「あと1週!!」
全員に声をかけるのは委員長の仕事だ。
自身も少なからず疲労を覚えながらも、周は後ろを振り返った。
最近、あの上村もしっかり列についてきている。初期の頃は時間切れで規定の回数トラックをまわることすらできなかったのに。
周は顔を前に戻す。
北条のすぐ後ろを走っているとしみじみ感心してしまう。
いつ見ても広い背中だ。
暑いから、とTシャツ一枚で走っているその後ろ姿は、雨に濡れた布が身体に張り付いているせいか、鍛え上げられた見事な筋肉が存在感を主張している。
そう言えば今日から、新しい教官が来るんだった。
周がふとそんなことを考えた時、後ろの方で誰かが転んだような音が聞こえた。振り返ると女子学生の1人だった。
しかしすぐに手を差し伸べる男子学生がいて、彼女は再び隊列に戻る。
入校してから半年以上が経過した今、仲間達の一致団結は深まっている、とクラス委員を任されている周は信じている。
元々35人いたクラスメートは今や27人に減っていた。
長期過程は4月の入校から10か月のカリキュラムを修了した後、現場に出ることになる。残りあと4カ月。
全員で卒業したい。
その願いがかなうかどうかは、今のところ不明だが。
ランニングが終われば、ようやく朝食の時間である。
制服に着替えて食堂に向かう。
好きな席に着いて良いと言われていても、どうしたっていつの間にか指定席のようなものはでき上がってしまうものだ。かくいう周もお気に入りの席について、いただきますの挨拶をした。
今までは出汁の薄い味噌汁だったのがやや不満だったが、作る人が変わったのか、この頃はかなり美味しい。人事異動の季節だもんな……と、周はふと思った。
教官と呼ばれる人達の顔ぶれも、これから少し変わるらしい。
新しい指導者たちが果たしてどんな警官なのか、期待と不安が半々。
そんなことを考えながらふと、周はすぐ近くに、談笑している女子学生の群れを見た。
彼女達はいつも団体行動している。女性ならではの特性だと思う。
なんで、何をするにも誰か一緒じゃないといけないんだろうか? 男子高育ちの周はあまり若い女性と接したことがないのでわからないが、噂に聞いたことはある。彼女達はトイレに行くにも団体なのだと。
そこへ朝食の盆を手に、女子学生の集団へ近づいて行く亘理玲子が見えた。
今朝のランニングに参加していたから、体調は問題なさそうだが、顔色はあまり良くない。
「お疲れ様」
彼女は一番端の、空いている席に座ろうとした。
すると。ガタガタっ。女子達は一斉に立ち上がる。それはまるで野生の鳩が、近づいてきた人間の気配を感じて飛び立つ、そんな様子に見えた。
おかしい。
まるで全員が口裏を合わせ、彼女のことを避けているかのようだ。
女子達は玲子を1人残し、食器類を返却口に運んで食堂を去って行くのだった。
「……なぁ、護」
「なに?」
「今の、見たか?」
「え、何が?」
友人は気付かなかったようだ。焼鮭の骨と格闘していた彼は、ポカンとした顔をしている。
「……いや、いい」
「あいつら、わかりやすいよな~……実に」
倉橋の代わりに答えたのは、同じ教場仲間の1人である水越であった。いつの間にか周のすぐ隣に腰かけている。
「どういうことだ?」
水越はやれやれ、と肩を竦める。教場仲間だがほとんど会話したことはない。
「わからん? 要するに嫉妬だよ、嫉妬」
「嫉妬……?」
「亘理玲子って、美人かそうでないかって言えば、確実に美人の方じゃろ?」
そうだろうか? 周にとって美醜の基準は曖昧であり、いわく自分の姉が世界で一番美しい。
「短期間に可愛い子と綺麗な子が、一気にいなくなっちゃってさ……あとに残ったのって全員、ブスばっかりじゃん?」
彼の言う可愛い子と綺麗な子、が誰を指しているかぐらいは周にもわかる。
しかし。
「そういう言い方するなよ」
「ホントのことじゃん。特にホラ、谷村晶……あいつが今のところ女子のボスなんじゃけど。ボスはブスで、美人が憎い……おお、なんか早口言葉みたいでええのぅ?」
周は思わず該当の人物の姿を目で追いかけた。
谷村と言う名前の女子学生は同じ教場の生徒だが、ほとんど会話をしたことはない。
聞いた噂では、子供の頃から柔道をやっていて、全国大会で優勝した経歴の持ち主だとか。確かに女性にしてはがっしりした筋肉質な身体つきである。
顔は、そうマジマジと見たことはないが……。
集団の先頭に立って笑っている彼女を見ていると、確かに【ボス】らしい風格は漂っている。彼女が何か言うと、まわりの女子は全員、頷いたり唱和したりしている。
「あいつさ、上村に気があるらしいんよ」
「へぇ……」
「でも当の本人はまったくその気なし。その上、何度か上村って亘理のことを助けたことがあったじゃろうが?」
確かに過去何度か、そういう場面を目撃した記憶がある。
「ブスの嫉妬ほど怖いもんはないのぅ……」
お前が他人をあれこれ言える顔立ちか?
周はそう思ったが黙っていることにした。
「ま、飛び火に当たりたくなかったら、静観しとることじゃな?」
ほんなら~……と、水越は去って行く。
周はちらりと玲子の方を見た。彼女は1人、静かに食事をしている。
冴えない表情だった。