85:手とり足とり教えてあ・げ・る♪
公休日。幸いなことに外出禁止令は出なかったが、ほとんどの学生は寮に残っている。試験が近いせいもあるからだろう。
周もつい先ほどまで自習室で勉強していたが、集中力が途切れたのを感じ、ジャージに着替えてグラウンドに出た。ちょっとした気分転換だ。
走っているのは自分だけ。
傍から見れば、何かやらかしてペナルティを科されたように思えるだろう。
元々走るのがそれほど得意と言う訳ではなかったが、ここに入ってから何キロも走らされているうちに、身体が慣れてきた。今では走った後に爽快感さえ覚えている。
あと1週でやめよう。
周がそう思った時、教官室などが入っている建物から見覚えのあるシルエットがこちらに向かって歩いてきた。北条だ。
段々とこちらに近付くにつれてなんというのか、ものすごく機嫌の悪そうな顔をしていることに気がつく。逃げた方がいい。絡まれたら難癖をつけられる可能性が。
本能で危険を察知した周は、不自然にならないよう気をつけながら、くるりと背を向けたが……すぐ失敗したことに気づいた。
いつの間にか肩をつかまれ、背後から首に腕を回されていたからだ。
「どうしたの、何かやらかして罰ゲームなの?」
下手に抵抗したら締め上げられる。
そう考えた周は大人しくしていた。
「いや、そう言う訳じゃありませんけど。試験勉強にちょっと疲れた……っていうか、少し走って気分転換でもしようかと思ったんです」
何だろう、この緊張感。
周は背中に汗が流れる落ちるのを感じた。
「実はさっきねぇ、あんたのお義兄さんから電話があったのよ」
「……なんて?」
驚いて思わず首だけ振り返る。
すると、間近に北条と顔を合わせることになる。
綺麗に整った顔には、何だかいやらしい笑顔が浮かんでいた。
「この頃なかなか連絡してこないし、顔も見せに来ない。ひどく心配してたわ」
それには理由がある。
だが、言えないし、言いたくもない。
「だからって教官に電話してくるとか、そういうの、公私混同っていうんじゃ……ないんですか?」
「まぁ、そうね」
「今度あいつに会ったら、めちゃくちゃ叱ってやってくださいよ!!」
いっそのことコテンパンにのされてしまえ。
周は未だ、大好きな姉を奪って行った義理の兄に対し、複雑な感情を拭いきれていない。
するとなぜか、
「ねぇ。実はアタシね、時々無性に暴れたくなるのよ……」
なんで、どこからそう言う話になった?
周が目を白黒させていると、
「ちょうどいいわ、今からあんたに稽古つけてあげる」
「……え? いや……」
「柔道と剣道、どっちがいい?」
「え、えっと……」
「どっちもね? わかったわ、行きましょう!!」
ずーるずる……。
もはや逃げられないのだと、その時、周は悟った。
道場には先客がいた。
富士原と栗原、そして谷村の3人だ。
彼らが誰かを囲んでいるのが見えた。足元に人影が見える。
それは……。
周は走りだした。
「おい、大丈夫か?! しっかりしろ!!」
畳の上に蹲っていたのは、亘理玲子。
苦しそうに肩を上下させて腹部を抑えている。周が彼女の背中を支え、起き上がらせると、真っ青な顔をしていた。
「……これは何の真似かしら?」
低く、明らかに怒りを込めた声が頭上で聞こえる。
「これはこれは、北条教官。確か、捜査でどちらかへ出かけておられたのでは?」
富士原のその言い方には、周でさえ気づくほど、あからさまな揶揄が込められていた。
「アタシが刑事ごっこをしてた、とでも言いたいの? 残念だけど早々に事件が終結して帳場は畳まれたわ」
それよりも。北条は3名をぐるりと見回した。
「こっちの質問に答えて」
「訓練です」
端的に答えたのは、男か女かイマイチはっきりしない谷村である。
「亘理巡査が柔道の稽古に付き合って欲しい、と私に頼んできたのです。そうだよな?」
周の腕に抱かれてぐったりしている玲子は黙っている。
「それで、あんた達が3人がかりでリンチした訳ね」
「僭越ながら、それは誤解というものです」
答えたのは栗原の方だ。
「我々はきちんとルールに乗っ取って稽古をしただけです。富士原教官がご覧になっておられるのですから、確かです」
「それが信用ならないって言ってんのよ」
すると。
「……おい、あんた。ちょっと口が過ぎるんじゃないのか?」
富士原が語調を荒げる。
「証拠は? いくらあんたが警視だろうがなんだろうが、言って良いこととそうでないことがあるだろうが!! ええ!?」
名誉棄損で訴えるぞ、って2時間ドラマでよく悪役が叫ぶやつだ。
周は心配で北条を見上げた。
すると彼は、
「あらそう、気を悪くしたのなら謝るわ」
そう答えてひょいっと亘理玲子の身体を抱き上げると、富士原たちに背を向ける。
「一緒に来なさい、藤江」
周は急いで担当教官の後を追いかけた。
「この子を医務室に連れて行くから、あんたは教官室で待ってて。聞きたいことがいろいろあるのよ」
教官室はがらんとしている。
椅子に座る訳にもいかず、周は立ったまま辺りをぐるりと見回した。
あの3人。
富士原と谷村、そして栗原。
絶対、亘理玲子に対して悪意を持っている。でも。
谷村はわかるが、栗原や富士原はいったい彼女に何の恨みがあるのだろう? もし何の理由もないのだとしたら、単なる虐待だ。
どうしてこんなことが許されるのだろう?
ここは警察官を育てるはずの場所じゃないのか。相応しくない者をふるい落とす為にあるのではないのか。
周が拳を握り締めた時、北条が戻って来た。
「……あんたも気付いてるわよね? 亘理のことで不審な事件が続いてるのは」
「……はい」
「特別なこと、何かあった? アタシが刑事ごっこで不在にしてる間に」
周は記憶を巡らした。
そのそも、彼女の身にいろいろと起き出したのはそう最近の話ではない。
直近で言えば?
「たぶん……ですけど」
「たぶん、何?」
「先日、運転技術特別講習会の時。彼女がすごい技術を見せたんです。誰一人まともに走破できなかったのに、彼女だけが難なくこなしてしまって……おまけに教官が……」
「教官って、冴子のこと?」
周は黙って頷く。
「皆の前で彼女を褒めて、拍手しろって。きっとそれが面白くなかったんだと思います。俺、知ってます。あいつ、谷村……亘理のことを目の敵にしてるって」
「その報復ってことね」
北条は溜め息をついた。
「好き勝手やってくれるじゃないの……」
そう呟いて少し遠くを見つめる瞳は、明らかに怒りに燃えていた。
「どうして……」
「何よ?」
周は顔を上げた。
「なんで、同じ志を持った人間同士が、こんなふうに……傷つけたり、争ったりしなきゃならないんですか? 皆、それぞれに自分なりの正義感なり使命感を持ってここに入って来たはずでしょう? 警察官って、法律を守る、正しいことをするべき人なんじゃないんですか?」
わからない。
どうしてそんなにも、人を憎んだり傷つけたりすることができるのか。
彼らの中に良心は存在しないのだろうか。
大きくて温かい手が頭上に乗せられたのを感じる。
「他人がとうだろうと……あんたは今のまま、しっかりと理想を追い続けなさい。たとえ現実のギャップを感じたとしても。アタシ達が全力でサポートするから」
そう答えてくれた教官の瞳に、嘘はないと周は感じた。
「……はい!!」
「さて、と。それじゃ本題に入りましょうか?」
「本題?」
北条はにこっと笑って、道着の帯を指差す。
「何のために着替えたっていうのよ」
結局、逃げられないのか……。
周が覚悟を決めて道場に戻った時、既に富士原たちの姿はなかった。
そう言えば。武術に関しては、このチートな教官にマンツーマンで指導してもらうのは初めてだ。
その教え方は丁寧で親切だった。
なんとなく、卒業までに初段獲得は何とかなりそうな気さえしてくるほど。