80:駿河さん家の事情
帳場が畳まれた明けの日は自宅待機となるのだが、刑事達の中には、書類仕事を早めに片付けておきたいからと出勤する者もいる。
独身時代は家にいても暇な時間が多かったので、駿河もやはり出勤組だった。
そんな彼も家庭を持った現在、なるべく家事を手伝おうと、朝から自宅の掃除に取り掛かることにしたのだが。
さっきから茶トラ猫がジャマをする。
猫が動く物に反応して追いかける習性があるのは知っていたが、掃除機のヘッドが動くたびに周囲をウロチョロされると、さすがにイラっとくる。
「相変わらずね、メイちゃんは」
そう言って茶トラを抱き上げたのは、妻の美咲だった。
この頃かなり腹部が目立ってきた彼女は現在のところ、接客は控えているが、旅館の事務仕事にはまだ携わっている。
「仕事はもう終わったのか?」
「ううん、ちょっと一段落ついたから休憩にね」
美咲は茶トラ猫を隣の部屋にあるゲージに入れると、ふぅと息をつきながら近くにある椅子へ腰かけた。
「……辛いのか?」
「お腹がだいぶ重くなってきたから……歩くのが少し、ね」
「みゃ~」と、向こうから不満げな声が聞こえてくる。
「そう言えば昔、周君が掃除機をかける時には、必ずケンカしてたわね」
美咲は笑う。
「……猫と周が?」
「ええ、猫と周君が」
やっぱりな、と駿河は思った。
義弟は意外と短気だ。それでいて子供っぽい。
本人の前で言ったら怒るだろうが。
「ところでね、葵さん。昨夜の話なんだけど……」
昨日の話。
駿河は頭の中で、昨夜、家に戻ってきた時のことを思い出していた。
玄関を開けたら妻と猫が出迎えてくれる。
それは駿河葵が独身時代から夢見ていた理想の生活だった。夢がかなった今も、やはり嬉しいことに変わりはない。
「おかえりなさい、葵さん」
「ただいま」
駿河は腰を曲げて妻の腹部に耳を寄せる。
「子供達もお帰りなさいって言ってるわ。今、お腹を蹴ったの」
「わかるのか?」
「ええ、もちろんよ」
それから、足元で遠慮がちに丸まっている三毛猫を抱き上げる。
「それにしても、思ったより早かったわね……」
脱いだジャケットと外したネクタイを受け取りながら美咲が呟く。
「そうだな。予想外だった」
一度事件が発生して捜査本部が設置されると、長い時は一ヶ月ぐらい帰宅できないことがある。それが思いがけず、今回は家を空けたのはほんの3日ほどだ。
美咲は上着をハンガーに掛けながら、
「実は今日ね、ビアンカと出会ったの」
「ビアンカさんか、久しぶりだな。元気にしてるのか?」
妻の友人で在日ドイツ人の彼女は、駿河にとっても友人の1人である。
「彼女はいつも元気いっぱいよ。あなたによろしく伝えておいて、って」
ああ、と答えてから彼女の顔を頭に思い浮かべる。記憶の中のビアンカは確かにいつも健康そのもの、であった。
「ところで……ねぇ、葵さん」
駿河はワイシャツのボタンを外す手を止めた。
つい先ほどまで笑っていた美咲が、急に深刻な顔つきになったからだ。
「どうしたんだ?」
「あなたは、警察学校に行く予定なんてないの?」
「……なぜだ?」
「授業参観とかないの?」
ある訳がない。『学校』と名はついているが、その内容は【実務研修】だ。
今日ね、と彼女は続ける。
「ビアンカに訊かれたの。周君は元気か? って」
つい先日、自分も誰かとその話をしたことを思い出す。
「前はもっと頻繁に連絡くれていたのに、最近、あまり何も言ってくれないでしょう? 今が大変なのはわかるんだけど、ほとんど顔も見せてくれないし。心配で……」
ああ、そうか。
実は、どういう理由か尾道東署の捜査本部にやってきていた北条警視に、義弟の様子を訊こうと思っていた。彼は周の担当教官である。だが。
声をかける隙もなかったし、これまた原因不明だが、ひどく不機嫌そうにも見えた。
「周君って……辛いことをいろいろ溜めこんで、何かのきっかけがあると爆発させちゃうタイプだから」
「そうだな……」
「ねぇ、葵さん。警察学校の先生になる予定はないの?」
それは人事部が決めることだ。
駿河が黙っていると、彼女は深い溜め息を漏らす。
「私……一度、学校に様子を見に行ってみようかしら」
今度はとんでもないことを言い出した。
「関係者以外、立ち入り禁止だぞ」
「葵さんは関係者でしょ? 私は葵さんの妻で……周君の姉でもあるわ」
マズい。けっこう本気だ。天然な上に、妙なところで頑固な妻の性格を知っている駿河は、早い内に止めておこうと思った。
「わかった、北条警視に確認しておく。それから……」
「それから?」
「近い内に必ず周の様子を見てくるから。だから、頼むから妙なことは考えないでくれ」
そんなやりとりを交わしたのだった。
「忘れてはいないわよね?」
「……もちろん、覚えている」
「それで、いつ?」
「いつって、急に言われても困る。向こうにだって都合というものが……」
試験があるのはいつだっただろうか?
卒業してから何年も経過するので、どういうスケジュールだったか思い出せない。
何と答えようかと考えている間に駿河は無言の圧力を感じた。
「ほ、北条警視に、必ず連絡するから……」
美咲はにっこりと笑う。今すぐ、即刻ね、と言われた気がした。
なんだろう? あの気迫は。
「……あ、駿河です。恐れ入りますが、今少し、お時間よろしいでしょうか?」
※※※※※※※※※
目を覚ました和泉は、スマホで今日の予定を確認した。
守警部との約束がある。
山西亜斗夢を殺害したと出頭してきた、長門大輝という男。彼について詳しく調べる必要があるという結論に至り、今日はまず出身地である世羅へ向かうことになった。
もちろん秘密裏に、だが。
出身地及び前歴。
長門に関する情報はある程度仕入れている。
今日は守警部が迎えに来ると言ってくれた。まだ時間にかなりの余裕があったので、和泉はテレビをつけ、朝食の準備を始めた。
何日前に買ったのかわからない食パンを冷凍庫から取り出してトースターに入れ、マグカップ一杯分のドリップコーヒーに湯を注ぐ。
朝のニュース番組は天気予報のコーナーで、今日は県全体が晴れ模様だと伝えている。
CMに切り替わると、キャットフードの宣伝が始まった。
可愛らしい子猫が走り回る姿を見ていて思い出した。
黒い葉書およびメールを送って来た【黒い子猫】と言う名を冠する闇サイト。
どうして猫なのだろう?
別に犬でも鳥でも良かったはずだ。
あえて猫にしたのは、運営する管理人が猫好きだからだろうか。それとも。猫を思わせるような人物?
そしてふと連鎖的に、聡介に親しげに話しかけていた若い男性のことを思い出す。
【猫の手】とロゴの書かれた営業用ナンバーのついたライトバンに乗っていた。
あなたの町の便利サービス、というキャッチコピーからして恐らく業種は代行サービスだろう。
代行サービス。
『あなたの代わりに殺人も請け負います』
実は見えないところにそう書かれていたりしないだろうか。
……考え過ぎか?
和泉はコーヒーを一口飲んで、焼けたパンにバターを塗った。
テレビ画面はニュースに戻っている。
山西亜斗夢の事件が報じられている。被害者の祖父である警務部長が、演技なのか素なのかわからないが、時折ハンカチで目をぬぐいながら、記者会見の場で犯人逮捕に至った経緯を説明している。
記者からの質問にはきわどい内容もあった。
被害者の言動が被疑者の怒りを買ったことについて、簡単に言うなら、親はどういう教育をしていたのか、といったような。
あの記者はその内、記者クラブ出入り禁止になることだろう。あくまで被害者は【何の罪もない幼い子供】だという印象を世間に与えたいのだから。
マスコミはこの後おそらく被害者を、突然の悲劇に見舞われた少年として報じるに違いない。
そして世間もそういった不幸話が大好きだ。
バカバカしい。
和泉はテレビを消した。