8:餌付けしてみました
エアコンをかけてから、各種猫用品をセットし始める。
子猫を籠から出すと、しばらくあたりの匂いを嗅ぎまわっていた。それから不意に人間の姿を確認すると、びっくりしたのか急に走りだし、タンスの影に隠れてしまう。
「人見知りな子ですね。猫ちゃん、おいで~」
和泉が手を伸ばす。
子猫はちらりとこちらを見たが、すぐにそっぽを向いてしまった。
その様子を見ていて、思わず聡介は昔のことを思い出し、笑ってしまった。
「まるで、出会ったばかりの頃のお前みたいだな、彰彦?」
「……え?」
和泉は目を丸くする。
「愛想の欠片もなくて、ほとんど口をきかないし、ああやって物陰からじーっとこっちの様子を伺ってた」
猫はかまわないのが一番。
和泉もそうだった。
聡介が和泉と初めて顔を合わせた時、彼はまったく心を開いてくれなかった。
それこそ虐げられた野良猫を見ているような気がしたものだ。
妙な時期に異動してきたことで、まわりはザワザワ、彼についてあれこれと詮索していたが。
自身も【いろいろ】あった聡介は敢えて質問攻めにしたりしなかったし、業務上の用件がある時以外は話しかけなかった。それだから2人で組んで外を回る時にも、会話がまったくないこともめずらしくはなかった。
それでも気まずいと思ったことはないし、むしろ楽だった。
当時聡介は挨拶代わりに、毎朝、和泉のためにお茶を淹れてやったものだ。
娘に頼んで週に何回か、和泉の分も弁当を拵えてもらったこともある。受け取らないだろうかと思っていたが、意外にも素直に受け取って食べたのには驚いた。
今にして思えば完全に【餌付け】だったな、あれは。
そうして、出会って何日ぐらいが経過した頃だろうか。
当時赴任していた尾道東署のすぐ向かいにはレトロな喫茶店があって、そこの紅茶がとても美味しくてお気に入りだったので、聡介は毎日午後3時ごろ、仕事に区切りがつくとそこへ行って一息入れるのが常だった。
ある日、何気なくその店へ和泉を誘ってみたところ、思いがけずついてきた。
黙っていたが彼も気に入ったらしく、翌日からは毎日同じ時間一緒にその店へ行くことになり、気がつけばなぜかいつも奢らされていた……って、それはいい。
特に会話をする訳ではない。
向かい合って座っているのに、お互いにただぼんやりしていたり、無言で新聞や雑誌を読んでいたり。そんな日々が続いた。
心の扉は無理にこじ開けられない。
内側から開く時をただ、待つしか。
そうしている内にいつの間にか、普通に話をする間柄になっていた。
当時、まわりの同僚がそうしていたように和泉も自分のことをいつの間にか【聡さん】と呼ぶようになった。
「猫みたいな息子はお腹が空きました。是非とも高級な魚を食べさせて欲しいにゃん、お父さん」
「アジかイワシで満足しろ」
※※※
2人で一緒に暮らしていた頃、時々利用していた近所のファミレスで向かい合って座る。
「そう言えば昨日、すごく面白かったですよ~?」
おしぼりで手を拭きながら、和泉が嫌な笑顔を浮かべる。
「何が?」
「ほら、バカ長……っと、長野課長の代理で出席した結婚式ですけどね。僕、日時を間違えたのかと思いました」
「なぜだ?」
「驚きました、会場に誰もいないんですよ。いたのは新婦とその両親だけ。誰も何も聞いていなかったみたいで、あ然としてました」
「……それはまさか、結婚詐欺だったということか?」
「いやぁ、そうじゃなくて……招待客全員が口裏を合わせて、一斉にドタキャンしたってことじゃないですか?」
「課長もか?」
「奴はきっと蚊帳の外ですよ」
聡介にはしかし、どうしても詐欺のセンが否めなかった。
「かわいそうにな……」
「そうですかぁ?」などと、息子は呑気だ。他人事だと思って。
「気の毒じゃないか」
「聡さんはお人好しだから、わからないんですよ」
ムっとする。「何が?」
「あくまで僕の考えた推測、ですけどね。おそらく新婦は敵が多かった……ありていに言えば、ただの嫌われ者です。そんな彼女の一矢報いる方法がドタキャン。そりゃもう見事なまでの仕返しですよ。おまけにどうやら、新郎も一枚噛んでいた様子です」
信じられない。
和泉の推測通りだったとして、そんなことをしようと考えた心理状態もさることながら、実行した人間達の気持ちはいったいどんなものだっただろう。
「まぁ、そこは民事不介入ってやつですけどね」
和泉はそう言って味噌汁の椀を手にした。
しかしなぜだろうか、聡介はたまらなく嫌な予感を覚えた。
「おまけに今朝から、全国ニュースになってるじゃないですか? 例のほら、あしたかグループのインサイダー取引の件」
「ああ、そういえば……」
今日は朝からずっと、県内でも有名な企業である【あしたかグループ】の経済事犯について各局が大々的に報じている。
「驚いたことに、2課の刑事が逮捕状を持って式場にあらわれたんですよ?」
「なんでだ?」
「その花嫁さんの父親が、会長だったか専務だったかな。とにかくよりによってそんな日に逮捕状が降りるなんてね……聡さん、このネタ知ってました?」
同じ強行犯係同士の仲であっても、情報の共有をすることはない。
それが刑事達の不文律である。せっかく苦労して手に入れた情報を、うっかり他の班の刑事に漏らしたせいで、手柄を奪われてしまうという事態が過去にあった。
そんな組織内事情により、同じ課の情報すら知らないのに、どうして他の課の動きまで掴むことができるだろうか。
だから聡介は今朝、ニュースで聞いて初めてその事件を知った。
「知らなかった。2課がざわついているのには、気づいていたが……」
「どうも、内部告発か……どこかから情報が漏れたみたいですね。気の毒に」
少しも気の毒だなんて思っていないだろう。
そうツッコミたかったがやめておいた。
※※※※※※※※※
できる限り早く寮に帰りたい、と上村が言うので仕方なく、早めに切り上げることにした。せっかくの猫カフェは、最後に入ってきた子供連れのせいですっかり気分を害してしまった。
夕飯を買って正門をくぐる。
周は頭の中であれこれと、明日の授業カリキュラムを思い出していた。
一時間目は武術の授業だ。
前の担当教官が突然退職してしまってから、今までは代理の教官が臨時的に交代でやってきていたが、明日から専任で新しい指導者が来ると聞いた。
さらに副担任となる教官も。
「そういや、新しい助教が来るのって明日からだったよな?」
ちょうど今、周が考えていたことを倉橋が口にする。
「そうだったな」
「今度の教官も、やっぱり怖いのかなぁ……? もうちょっと優しいといいんだけど」
怖くない教官なんているもんか。
「体育会系というのは」
上村がぽつりと口を挟む。めずらしい。
「新入生の頃は、上級生から理不尽な要求をされても文句は言えない。そうして自分が上級生になって後輩を持つようになると、かつて自分が扱われたのとまったく同じ仕方で相手を扱うそうだ」
なんだそれ。
周は思わず湧いた疑問を口にした。
「なんだよそれ、自分がやられて嫌なことだったり、辛かったことは他人にはしないのが当然だろ?!」
「……君は、警察官には向いていないな」
「何だよそれ!!」
「つまり、人間が入れ替わったところで体質は変わらない。そう言うものだと思った方がいい」
そうかもしれないけど。
周が何か言おうとした時だった。
「……なんか、変な声、聞こえないか?」
急に倉橋が言いだした。
「え、どこから?」
「あっち……」
彼の指さす方向には、授業で使う用具などが保管されている物置である。
気のせいだろ、と言いかけて思い直した。
万が一、誰かが閉じ込められていたとしたら?
まさかはありうる、じゃないけれど。何が起きても不思議じゃないのがこの警察学校というところだ。
「行ってみよう!!」
周は駆けだした。