68:昭和から平成にかけて
「ねぇねぇ、雪村君! 見てみて~、うちの子!!」
翌朝。今日は一日不在にするからいつもより早めに出勤するよう、雨宮冴子に言っておいたところ、彼女はいつもより5分だけ早くやってきた。
彼女は昔から少し時間にルーズだった。
なので学生時代、サークルの皆で出かけるなどのイベントがあると、必ず彼女にだけは他のメンバーよりも30分早い集合時間を伝えていたものだ。
そうだった、こいつはこういう女だった。
そんなこちらの内心などまるで知らない彼女は、嬉しそうにスマホの画面を見せてくる。
映っていたのは茶と白の毛色の子猫だ。
「可愛いでしょ?」
「はいはい」
「ちょっと、もっとよく見てよー!!」
グイグイと彼女は画面を頬に近付けてくる。面倒くさいが、彼女だとつい許してしまう自分がいる。
「これ……生まれたばっかりの子猫じゃない」
「そう。昨日、動物病院に行ったら……新しく里親募集してる子がいて。もう1匹ぐらいいてもいいかなって」
ふーん、と返事をしてから北条は冴子にスマホを返した。
「今ね、名前をどうしようか迷ってるんだ」
愛おしそうに猫の写真を見つめながら冴子は言う。
「娘の名前にしたら? まどか、だったっけ」
北条が適当に返事をすると、どういう訳か彼女の顔が強張った。
「……やめてよ、なんか変態っぽいじゃない」
そうね、と北条は上着を羽織った。
「……アタシ、今日は1日ちょっと出かけてくるから。授業を頼んだわよ」
「どこ行くの?」
「ちょっとね」
すると冴子は腰に手を当て、不満そうな表情をする。
「もぅ~、雪村君っていつもそうよね。要君と一緒。こっちのテリトリーには遠慮なく踏み込んでくるくせに、自分の領域は入らせてくれないんだから」
その名前を聞いた瞬間、北条は思わず動きを止めた。
「雪村君……?」
「あんた、もしかして最近……要に、相馬要に会ったりした?」
冴子は一瞬だけ無表情になった。しかし、
「え? どうして」
不思議そうに首を傾げる。
なぜだろう? 咄嗟にそう考えたのは。
「別に、雪村君を見ていたら思い出したって言うだけの話よ。ここに来てから私、学生時代のことをやたらに思い出すのよね~……やだやだ、歳を取った証拠かしら」
いつも3人で一緒にいたもんね、と冴子は微笑む。
「それより、まだ行かなくていいの?」
後は頼んだ、と北条は教官室を出た。
正門のところに和泉の車が停まっていた。
「周君に挨拶……は、ダメですよね?」
「さっさと発進させて」
和泉は泣きそうな顔でアクセルを踏んだ。
北条は助手席側の日除けを降ろし、鏡で髪型をチェックしつつ、
「……今夜あたり電話してみたら? 特別にあの子だけ、電話を返してやるって約束したから」
「えっ、ホントですか?!」
わかりやすい男だ。
しかし走りだしてしばらくすると、
「ところで北条警視。昨夜のあれは何だったんですか? 自衛官の男性から何を聞き出そうとしたんです。それに、どうしてあの店なんです?」
和泉がジト目で見つめてくる。
「前を向いて運転しなさいよ」
「……前だけじゃダメですよ。前後左右にも気を配らないと」
屁理屈の多い男だ。
運転中でなければ小突いてやりたいところである。
「……その話は、聡ちゃんと謙ちゃんがいるところでね」
「ああ、だから一緒に尾道へ来るなんて……」
本音を言えば。
聖から聞いたあの話を、まだ誰にも話したくはない。
彼の情報はきっと間違っていない。
それでも、心のどこかで嘘だと言って欲しいと願っている自分がいる。
捜査一課長である長野や、和泉の直属の上司である高岡警部にこの件を話しておこうと北条が考えたのは、彼らが信頼に足る人物だということが一番の理由だ。
たとえどんな結論が待っていたとしても。
今はただ、真相を明らかにすることだけを考えなければ。
右隣に座ってハンドルを操作している刑事は黙っている。
北条も口を閉じ、車窓に流れる景色をボンヤリと見つめていた。
車は高速道路に入る。
黙っているのにも飽きた。
「そう言えば、謙ちゃんにはこないだ会ったけど……聡ちゃんはしばらく顔を見ていないわね。元気なの?」
すると和泉はなぜか、何か苦い物でも飲んだかのような顔をする。
「……何かあったの?」
「直接、本人に訊いてください」
そうするわ、と答えて北条は目を閉じた。
「着いたら起こして」
このところバタバタしていてゆっくり眠れる時間が少なかった。
和泉はやや不満げだったが、かまうことはない。
※※※※※※※※※
自分が今日の教場当番だったのは僥倖だった。
教官室から授業の行われる第1教場までの道のりの間、質問することができる。
他の教官はいざ知らず、あの北条警視であれば多少の融通をきかせてくれると信じている。
上村ははやる気持ちを抑えながら、ドアをノックした。
「失礼いたします。初任科第50期生長期過程、上村柚季です」
しかし北条の姿は見えない。
どういうことだ? 困惑していると、背後から助教の雨宮冴子教官の声が聞こえた。
「ああ、雪村く……北条教官なら今日は外出するって言ってたわよ。代わりに私が授業を担当させられる羽目に……連絡、行ってなかったの?」
聞いていない。
上村が降り返って無言で頷くと、
「仕方ないわねぇ。それじゃ、行きましょう」
彼女は手に持っていたコーヒーカップを机の上に置き、教本を手に歩き出した。
どうして。上村はほぞを噛む思いだった。
北条に訊ねたいことがあった。
なぜ昨夜、あの男と会っていたのか。そもそも知り合いなのか。
そして可能なら、あの男と会うチャンスを作って欲しかった。
訊きたいことがある。
詳細を、真実を知りたい。
すらりと伸びた手足が前後左右に動くのを何気なく見つめながら、上村はどうしたものかと考えていた。
担当教官に訊きたかったことを、彼女に質問しても無駄だろう。
それに、イマイチ彼女のことは苦手だ。
しかし学生達からの人気は高い。他の教官達に比べてかなり柔軟であり、少し歳の離れた姉のような存在だと皆が言っている。だが。
上村に言わせればただの甘やかしだ。あるいは、学生達に媚びている。
あんな指導方法で、本当に現場で使える人材が育つのか。
常々そう疑問に思っている。
ただ、今の時代の風潮と言うか。
厳しく指導すれば良いというものではないことが、全国的に見られる情勢からもうかがえる。
自殺者及び自殺未遂者が過去に何名か出てしまったこと、キツイから、理不尽な仕打ちをうけたからという理由で簡単に辞めてしまう若者が多いことからも、上層部が過敏になっているらしいとは聞いている。
だからといって、何が正解なのかは上村にもわからない。
ただ。いずれにしろ彼女は【教官】にはあまり向いていないタイプだと思う。
「……ねぇ、上村君」
不意打ちのように雨宮が話しかけてくる。
「はい」
「あなた、亘理玲子と付き合ってるの?」
まさか、そんなことを訊かれるとは。
「ご質問の意図はなんでしょうか?」
すると彼女は苦笑して、
「単なる好奇心じゃ、ダメかしら?」
「……そういう噂や伝聞が教場内に広がっていることで、他の学生達の風紀を乱すというのであれば、まったくのデマだと教官御自ら伝えていただきたいものです」
肩を竦められたが、腹も立たない。
教場までの道のりはもう少し距離がある。
「ところで話は変わるけど」
女性教官は今度は完全に足を止めた。
適切な距離を置き、上村も足を止める。
「あなたはどう思う? 『北条教官は特定の学生だけを特別扱いしてる』っていう批判については」
確かにそう見えるように思うことはある。だが、
「お言葉ですが、その批判は的を外しています」
「あらどうして?」
「北条教官は学生達1人ひとりをしっかりと見ておられます。真面目に努力している学生にはきちんと是認と励ましを、そうでない学生のことも把握しておられることを知っています。だからこそ、特殊捜査班という特異な部隊を率いる立場に就いておられるのではないでしょうか?」
「上村君って、人間観察が趣味?」
女性教官は笑う。
「……人を相手にする仕事ですから、当然必要となるスキルだと思いますが?」
「あなたの言う通りよ。だからもう少し、まわりの人と上手くやって行く方法も学んだ方がいいんじゃない?」
今度こそ、上村には何も返す言葉を見つけられなかった。