57:ギャップ萌え
「今日の講義を担当してくださる、八坂警部補よ」
雨宮冴子助教の後ろに立っている男性は、でっぷりと腹の出た典型的な中年男性の体型をしていた。
「八坂係長は県警本部の交通機動隊に所属しておられる、パトカー乗務歴20年のベテランよ。それから『交通取り締まり技能コンクール』の審査員でもあるから、運転技術をよく見ておきなさい!!」
同じ教場の中に、白バイ乗りになりたい、と交通課を希望している学生は何人かいる。
やけに大きな声で返事をしたのはきっと彼らだろう。
周も18歳になってすぐ運転免許を取りに行ったが、あまり技術に自信はない。パトカーの運転に相当な技術が必要だということはよくわかる。万が一にも事故など起こしてしまったら、それこそ笑い話にもならない。
それにしても、あの体型でシートベルトが締まるのだろうか? 余計な心配をしている間にその警部補は運転席に乗り込んだ。
そう言えば、全国の初任科生を対象にしたコンテストが卒業前に実施されると聞いた。今日の授業はその代表者を選出する意味もあるのだろう。
狭い間隔で並べられたカラーコーンの間を縫ってジグザグ運転なんて、ほとんど超人技だと思う。そう思っていたが。
パトカーは滑らかに、それこそ芸術的な動きで一周を終えて戻ってくる。
「今の、しっかり見た?!」
警部補はパトカーから降りてきたが、しゃべるのは助教に一切任せているらしい。
「それじゃあ、代表して誰か1名、今の通りにやってみせてもらおうかしら」
ざわめきが起きた。
それぞれが顔を見合わせ、互いに押し付け合っている。周にも立候補する勇気はない。
すると、
「はい」
手を挙げて一歩前に出たのは、亘理玲子だった。
驚いた。彼女は交通課希望だったのだろうか。
「じゃあ、亘理。しっかりね」
助教が彼女の肩をポンとたたくと、玲子は運転席に乗り込む。
パトカーはスムーズに走りだす。そうして。
玲子は並べたカラーコーンの1つも倒すことなく、綺麗に一周して元の場所に戻ってくる。
「……皆、拍手!!」
ぱちぱち、と拍手が起きる。
車から降りた玲子は嬉しそうだった。
その後も何名かが試してみたが、カラーコーンを倒してしまったり、ひどい時には学生の1人を轢きかけたりと、さんざんだった。
「うちの教場からの代表者は、亘理で決まりね」
雨宮助教の発言に周は何の異存もなかった。
※※※
本日はこれにて任務解除、だ。
足が痛むので夕方の自主トレは必然的に不参加となる。
周は夕食前の空いた時間、自習室へ向かうことにした。明日は刑事訴訟法の小テストがある。どうも自分の部屋より自習室の方が捗るようだと気付いたのは最近だ。
周は教科書とノートを開いて、一問一答ずつ問題と解答を書きこんで行く。
一通り終わって伸びをした時、背後を誰かが通りかかる気配を感じた。自習室に並んでいるデスクは席ごとに半透明のアクリル板で仕切られている。隣に誰かが座ったようだが顔は見えなかった。
夕食を終えたらその後は……トレーニングルームに行こう。
足に負荷をかけないよう上半身を重点的に鍛えよう。そう考えて立ち上がった時、ペンが床に転がり落ちたのを周は見た。
しゃがんで拾い上げ、持ち主を探す。
「あ、ありがとう」
隣に座っていたのは亘理玲子だった。
「……自主トレに参加しないのか?」
思わず周はそう話しかけた。
彼女は苦笑しつつ、
「……空気が悪くなるから来るなって、なんとなく無言の圧力があって」
「なんだよそれ」
話題を変えよう。
「そう言えばさ……運転、上手いんだな。車好きなのか?」
玲子は微笑む。
「そうね、バイクも好きよ」
「エンジン好きか……ってことは、自動車警ら隊希望?」
「ううん、生活安全課」
意外だ。白バイ乗りにでもなりたいのかと、勝手に思っていた。
「……なんで?」
それはただの素朴な疑問である。
「女性が活躍できる場所がある、って聞いたから」
知らなかった。
そう言えば、自分が彼女のジャマをしていることに周は気付いた。
ただ、どうしても言っておきたいことがあった。
「負けるなよ?」
「……ありがとう」
そして夕食後。周は予定通りトレーニングルームに向かった。他には誰もいない。
ベンチプレスのコーナーに行き、台の上に仰向けになって横たわる。
初めはまともに持ち上げることもできなかったバーベルだが、最近やっと上下させることができるようになった。
それでもやはりすぐに、息が上がってしまう。
高校生の頃に比べたら少しは筋力がついたと思うのに。
ふと足にチクリとした痛みを覚え、周は顔をしかめた。
これから先現場に出てもし、足を痛めたりするようなことがあったら……和泉が一緒なら間違いなく、お姫様抱っこだろう。考えただけで寒気がする。
それにしても、彼は自分の何をそんなに気に入ってくれたのだろう?
ありがたいと思う。日頃はふざけきった言動ばかりだけれど、本当に助けて欲しい時に、何度も身を呈して助けてくれた。
恩着せがましいことなど一度も言ったことはない。
ただ純粋に周君のことが大切だから……と。
それは嬉しいのだが、他人の目や耳のある場所でイチャつこうとするのだけは、どうにもいただけない。何とかならないものだろうか。
そうして3回ほどバーベルを上下させた時、数人の仲間達が入ってきた。その中に栗原と水越の顔を見つけた周は、なんとなく目を逸らしてしまった。
「よぉ、アシストしちゃろうか?」
ちょうどバーベルを持ち上げて震えているところへ水越が声をかけてくる。
周は無言の内に首を横に振った。
「遠慮すんなって」
そう言って彼はあろうことか錘の部分に手を置き、体重をかけてくる。
思わず周は腕を下ろし、バーベルを元に戻した。下手をすれば手首を痛めていた。
「……何すんだよっ?!」
「だから、アシストしてやるって」
ニヤニヤ。嫌な笑顔を浮かべている水越に、周は背を向けた。
すると。
「のぅ、北条教官の大のお気に入り、藤江周巡査。手首を痛めたのぉ~、って泣きついたら明日の小テストは免除してもらえるん?」
相手にするな。
上村はそう言ったが、周は黙っていることができなかった。
「前に……寺尾にも似たようなこと言われたぜ? お前、あいつの友達?」
この教場で【寺尾】の名前はもはや禁呪のような扱いになっている。その友人かと訊ねるのは、侮辱以外の何でもない。
案の定、水越の顔色が変わった。
「ふざけんなよっ!!」
「ふざけてんのはどっちだ!!」
「男の嫉妬ほど、醜いものはないな」
そう冷徹な声で割って入ったのは、
「上村……」
何時の間に、というか小さくて気がつかなかった。おそらく先ほどの集団の中にいたのだろう。
「彼が一度でも教官に賄賂を贈ったり、心にもないお世辞を言った場面でも見たのか?」
水越は口をつぐむ。
「藤江巡査は誰にも負けない努力をしている。北条教官は我々を油断なく、いろいろな意味で見張っている。その上で彼を認めているんだ」
驚いた。まさか上村が、そんなふうに言ってくれるなんて。「そんなに気に入られたいなら、君も教官に媚を売るなり、身を差し出すなりすればどうだ? もっとも、向こうが受け入れてくれればの話だが」
水越は顔を真っ赤にし、走ってトレーニングルームを出ていく。
しばらくして。
「何があったんだ?」
入れ替わりに男のような話し方で入ってきたのは、谷村晶である。
ちょうど良かった。周には彼女に言いたいことがあった。
女子学生の中でリーダー的立場にある彼女に、この際だから伝えておこう。
「亘理巡査のことだけど」
ぴくり、と谷村の頬が引きつる。
「何が気に入らないのか知らないけど、みっともないからやめろよ。お前らが彼女にやらかしたいろいろ知ってるんだからな。仲間を大切にできない奴に警察官を名乗る資格はない。俺達は組織で、チームで動いているんだからな?」
すると、谷村は鼻を鳴らした。
「何もわかっていないんだな、君は」
かちん。周は思わず彼女を睨んだ。
「足を引っ張る人間はこの組織に不要だ。本当に強い人間だけが生き残れるのは自然の摂理だろう。あれぐらいのことに耐えられない弱い人間は、さっさとここを去った方が自分のためだ」
「お前、何様のつもりだ?!」
周が大声を出すと、相手は少し怯んだ。
「人の痛みが、気持ちがわからない奴に、警察官を名乗る資格なんかない!!」