52:そうだ『イデッチさん』で覚えよう!!
聡介が長女の家に戻って服を着替え、荷物をまとめていると。
さばがニャーニャー鳴きながら足元にまとわりついてくる。
餌ならさっき食べただろう、と思ったが違うようだ。
「お父さん行かないで、って言ってるみたいね」
様子を見ていてそう語る長女の口調は、からかっているわけではなく、真剣そのものだった。
彼女がまだ幼かった頃、何度もそんな思いをさせたであろうことを考えて、聡介は胸が痛んだ。
あの頃はとにかく家にいたくなくて、何かと理由をつけては職場に出かけた。
多忙だったのも事実だが。
でも。
彼女としてはきっと、傍にいて欲しかったに違いない。
「ごめんな……」
それは猫に向かってなのか、かつての幼い娘に対してなのかは不明だ。
言葉が通じたのかどうか知らないが、さばはぷいっ、と向こうへ行ってしまった。
短い休暇だった。
しかし、文句を言っている場合ではない。
これから聡介は捜査1課の刑事として、祇園橋で遺体となって発見された子供の事件を捜査しに出かけて行く。
玄関で靴を履いていると再び猫がやってきて、聡介の手の甲に頭を擦りつける。
「さくら……すまない。この子のことを頼む」
聡介は猫の首ねっこをつかみ、娘に差し出した。
「わかったわ、気をつけてね?」
彼女は猫を受け取ると、貴重なガラス細工を扱うかのように胸元でそっと包みこむ。
「それと……もしかすると……」
被害者の母親が別れた妻の親族であったこと、何かあらぬ因縁を吹っかけてくる可能性があることも長女には告げておいた。
「平気よ、私はもう大丈夫。心配なのはむしろお父さんの方だわ」
「俺は……大丈夫だよ。今は息子も娘も、支えてくれる仲間がいるからな」
そうだ、前を向こう。
靴を履いて玄関を出る。
例え関係者が誰だろうと。
思い出したくもない因縁の相手だろうと。
今、自分がすべきこと。
幼い命を奪った犯人を突き止める。
ただそれだけだ。
自分が選んだ仕事をまっとうする。考えるべきはそのことだけだ。
秋の日差しは穏やかで、陽光が降り注いでいた。
※※※※※※※※※
懐かしい、かつて毎日通った職場は少し景観が変わっていた。外壁も内部もしっかりと修繕されている。ところどころ剥げかけていたタイルが綺麗に貼り替えられていたことに和泉はまず、驚いた。
年中『予算が足りない』と言っていた所轄署なのに。
かつてこの廊下を何度も、聡介と一緒に並んで歩いた。
父はいつだって優しかった。
2人の意見が合わないことはほとんどなかった。上の方針に納得がいかなかったり、理不尽に耐えかね、和泉が不貞腐れて黙りこんでいた時は、ひたすら黙って背中を撫でてくれた。
そんなことが何度もあった。
この人ならきっと自分を裏切ったりしない。
そう確信できるようになるまで、あまり長い時間は要らなかった。
懐かしいことを思い出した。
『祇園橋東詰小学生男児殺害事件捜査本部』と、戒名の書かれた会議室がこれから捜査本部となる。
中に入ると、総務課の職員たちが忙しそうに準備をしている最中だった。
一度捜査本部が設置されると、会議室にパソコンや電話線をつないだり机を並べたり、資料を作成したり、事務員総出でてんやわんやとなる。
彼らの姿を横目で見ながら和泉は聡介の姿を探した。
見つけた。
父は誰かと電話で話している最中だった。終わった頃を見計らい、
「聡さん!!」
「ああ、彰彦……」
良かった。パッと見た限りでは元気そうだ。
しかし確実に『何か』あったようだ。表情に少しばかり翳りが見える。
「いろいろとご報告したいことがありますが……」
「……なんだ?」
「具合悪いんですか?」
聡介は首を横に振る。
「いや、なんでもない。大丈夫だ」
その時、尾道東署長が父に声をかけたため、会話は中断してしまった。そして彼はそのまま会議室の奥の方に連れて行かれてしまう。
五日市埠頭の転落事故について伝えたかったのだが。2人のやりとりが終わるのを待って様子を見守っていると、
「おい、彰!!」
長野が呼びかけてきた。
「いっちゃんからも聞いとるけど、お前も向こうのことを報告せぇ」
「向こうって?」
「五日市の方じゃ」
「所轄は事故で処理したがってるけど」
和泉は視線だけで守警部を探した。彼も既に到着していたようですぐに見つかったが、恐らく自分の部下であろう男性と話し合っていて忙しそうだ。
「聞いてるだろ? ジジィ。例の黒い猫の書いてある葉書……落ちた車の中から発見されたって言う話」
「ああ、例の葉書じゃな」
「ご丁寧にパソコンの方にまで通知が来てた。どうやら何かしら、恨みを買っていたと考えて間違いないだろうな。ただ、今のところまだ詳細はわからない」
ふーん、と捜査1課長は思案している。
そこへどういう訳か、平林郁美が通りかかったのを和泉は見つけた。普段は県警本部にいる彼女がまさか尾道まで来ていたとは。
よほど人出不足なのだろうか。
「郁美ちゃん?」
呼びかけると、はっと彼女は振り向く。そうして長い黒髪を揺らしながら、頬を染め、こちらに近づいてくる。
「和泉さん!! あ、あの……先日ご依頼のあった……」
何を頼んだっけ? 一瞬悩んだが、
「ああ、あのプラスチック片だね。もう結果が出たの?」
「はい!! あれはどうやらアーチェリーの矢でした」
「アーチェリー……?」
「ええ。アーチェリーの胴体部分のことを【シャフト】というそうです。シャフトの素材には繊維強化プラスチックやジュラルミンが使われていますが、近年の主流は炭素繊維強化プラスチック……そしてアローに取り付けられる羽のことを【ヴェイン】といいます。ヴェインの素材には鳥羽根・ビニール・プラスティック・フィルムなどがあり……」
「わかった、ありがとう!!」
それから和泉はスマホを取り出した。
「ついでに、もう一つ頼んでもいい? このブログに映っている写真、詳しく画像解析してもらえないかな」
今朝、五日市埠頭で遺体となって発見された3人組のブログを見せる。
どの写真がどこで撮影されたものか、鑑識に任せておけばいちいち自分で調べる手間が省けるというものだ。
「はい、喜んで!!」
「いや~、郁美ちゃんは鑑識員の鏡だよ~」
違う意味でいい子だなぁ。都合のね。
その時、和泉のスマホが着信を知らせた。
『あ、おはようございます。井出ですけれども、今、大丈夫ですか?』
コンビニの息子だ。
めずらしく名前を聞いてピンときた。
「おはようございます。何か……?」
『いえね、ニュースで見たんですよ。五日市埠頭で転落事故を起こしたっていう、女性3人組の』
「まさか、もしかして……」
『僕の高校の同級生なんですよ、3人とも。もしかして僕も何かお役に立てるんじゃないかと思いましてね。まぁ、事故なら出る幕ではないかとも思いましたが、念のため』
でかした!!
和泉は小さくガッツポーズをとる。
彼は違う意味で【持ってる】人種かもしれない。
「きょ、今日……お仕事は……?」
『はは、コンビニですから年中無休ですよ。とはいっても、実は今、外出先でしてね』
「ど、どちらへ?」
『福山の親戚に会いに行くところなんです。法事がありましてね』
「そ、そしたら申し訳ないのですが、広島に帰る途中で……尾道で下車していただけませんか?」
『承知しました。何時頃がよろしいですか?』
「そこはもう、多田さんのご都合に合わせますって!!」
『……井出ですけど』
またやってしまった。
なんとなく漢字2文字、読み2文字だという曖昧な記憶だけでインプットしているからだ。
「申し訳ありません……」
『おっと、そろそろお坊さんが。すみませんが、また後でご連絡してもよろしいですか?』
「はい、お待ちしています!!」
井出さん、いでさん。
イデッチ……そう覚えておこう。
そうすれば今後きっと、間違えることはないだろうから。