49:チクリ魔のつぶやき
担任の北条警視も相当な食わせ者だが、あの女性教官も一筋縄ではいかない。
それはそうだろう。男社会、縦社会の警察組織で女性が立ち回って行くには、非凡でなければダメだ。
1時間目の地域警察の授業時。
このボタンを上手く取り返してみろ、と雨宮教官が言いだしてからずっと、眼を離さずにその流れを見ていて上村は悟った。
亘理玲子の掌にあるボタンを確認したところ、糸を通す部分に、微かだが紺色の繊維が残っていた。
その先端は綺麗に揃っていて、千切ったというよりもハサミでカットしたと考えていいだろう。
もしも彼女が【失くした】ボタンだったのだとしたら、何者かがわざわざ切り取って奪い去ったに違いない。
誰が、なんて考えるまでもない。
藤江周の尋問に対する北陸コンビの反応がハッキリと物語っていた。
そして彼女達の一連の行動を、あの女性教官は秘かに見ていたのではないだろうか。
上村は誰よりも教場内の仲間達を冷静に観察してきたという自負がある。あの2人は自白した通り、ただの従犯だ。主犯格は他にいる。
玲子に恨みを持つ人物に心当たりがない訳ではない。
何度かミスをして仲間の足を引っ張ったこともそうだが、もっと他に理由があると考えている。
例えば容姿や、異性からの評判。
男子が複数人集まれば自然と異性の話になる。上村は興味がないので参加したことはないが、彼らが食堂で何度か女子学生達をランク付けしていたことがあった。
その時、玲子はかなり評判が良かった。
あまり自己主張をせず、静かで大人しい態度がウケたようだ。それに何よりも整った顔立ちに恵まれたスタイル。
男達は彼女の外面しか見ていない。
そして、本人たちは話に夢中で気付いていないようだったが、傍を通りかかった女子学生が顔をしかめていたのを見たことがある。
1度や2度の話ではないから、その雑談の内容は確実に女子学生達にも伝わっていただろう。
そうして彼女は他の女子達から妬まれることになる。
今までは影響力の強い女子学生2人が玲子を庇っていたから、なんとかそれなりに問題は大きくならずに済んだ。でも。
彼女達はいずれも既にいない。
玲子をターゲットにしている主な首謀者は谷村晶だ。
今、その谷村は3人ほどの女子学生を連れ、次の授業に向けて廊下を歩いている。
柔道何段だと言っていたか、確かに女性にしては立派な体格で、もしかすると自分よりも大きいのではないだろうか。全体に筋肉質で、およそ女性らしいラインは見当たらない。
言葉遣いも乱雑。声だけ聞いていれば男かと思ってしまう。もし本人がそのことでコンプレックスを感じているのだとしたら、玲子は憎むべき標的だと言えるだろう。
ふと、上村は我に帰った。
なぜ自分はこんなことを考えているのだろう?
別に決して、亘理玲子に対して特別な感情を抱いている訳ではない。
だけど。
彼女はなぜか姉を思い出させる。特別、顔が似ているのでもないのに……。
※※※
ぴっ、と笛のなる音が道場内に響く。
2時間目の授業は武術だ。
担当である富士原教官は、朝の出来事が気に入らないのだろう、不機嫌そうな顔を隠しもしない。
学生達は少なからず怯えの表情を浮かべていた。
「各自、組み手始め!!」
この頃、以前と比べて様子が変わったと思う。
入校して半年が経過した現在。初めの頃はまったくと言っていいほど武術に関しては出来の悪かった上村だが、最近はようやく形がつかめてきた気がしている。
何週間か前までは、早朝、日中を問わず、この訓練時には自分が【狙われて】いた。
些細であっても違反を見つけたら教官へ報告する。上村は同期生達の行動に少しでも不審な点や、規定に沿わない言動を見かけたら、即時【密告】していた。
それは正しいことであり、上の覚えをめでたくするという意味でも重要である。
間違っているなどと思わない。
しかしそんなことを繰り返せば同期生達は当然、自分を逆恨みする。
だが上村にとってそれはどうでもいいことだ。従わない彼らに責任と問題がある。
小さなルールを守れない人間が、この法治国家の安全を守ることなどできない。
とはいえ当然の成り行きというか、上村に違反を指摘された学生達は、武術の授業になるとチャンスだとばかりにこぞって手や足を使って反撃してくる。
警察学校と言うこの閉塞空間で、細かい規則に縛られて生活するのは皆、同じようにストレスが溜まるから発散の意味もあるのだろう。
教官も隅々まで学生達の行動を把握できている訳ではない。
いや、気づいていながら見なかったことにしている可能性も否定できないが。
最初は体中に痣ができて、肉体的な苦痛も相当なものだった。だがやがて、武術そのものにも慣れてくるようになると、相手の行動を先読みすることができるようになった。
彼らが近づいてこようとするならなるべく遠ざかる。そうしている内に時間切れになるのだ。
上村に言わせれば頭脳の弱い人間ほど、力に訴えたがる。
学生時代から何かスポーツをやっていた、格闘技をやっていた、という同期生が何人かいる。彼らは一様に身体が大きく、腕力もある。
だがそれだけだ。
その【彼ら】はしかし、最近ターゲットを変えたようだ。
その標的は今、上村から少し離れた場所にいる。
体型だけで言えば倍はありそうな猛者たちに囲まれ、投げられ、技をかけられる。
実を言えば先ほど見た。
富士原教官が3名ほどの学生に耳打ちしているのを。内容は聞こえなかったが、想像はつく。恐らくこう囁いたに違いない。
『藤江周を徹底的に痛めつけろ、そうすれば評価をやる』
上村の推測だが、彼は眼をつけられた。
あの野蛮な武術専任教官に。
その原因は恐らくあの時の……。
「……大丈夫か……?」
「平気、へいき……いてて……」
少し前を歩いているのはクラス委員長の藤江周と、その友人である倉橋護だ。
彼は友人の肩につかまり、足を引きずるようにして歩いている。そうかと思えばバランスを崩し、崩れ落ちそうになって支えられてもいた。
つい先日までギクシャクしていた2人は、1時間目の授業が終わった頃には元に戻りつつあった。
2時間目、武術の授業が終わった後にはすっかり復元している。
「やっぱり救護室に行って、湿布を貼ってもらった方が」
「それなんだけどさ……護、見なかった?」
「いや、俺も探したんだけど……」
藤江はしきりに首をひねっている。
「ちゃんと袋に入れたはずなんだけど……」
俺のスプレー知らない?
最近、彼は何度か自分にもそう訊ねてきた。筋肉痛を防止するためのスプレーがあり、愛用しているそうだが、何度となく紛失しているらしい。
彼曰く『ついこないだ買ったばっかり』なのだそうだ。
それなのに何度も紛失するなんて。
……どうしてわからないのだろう?
誰かが故意に【盗んだ】のだということに。
彼はあまりにも他人の悪意に鈍感すぎる。
あんな平和な頭の男が、刑事になりたいなんて。
上村は思わず、少し歩調を早めて藤江周に近づいた。
「誰かが盗んで隠したに決まっているだろう」
※※※※※※
ビックリした。
上村が自分から話しかけてくるなんて。
周は足を止め、思わず相手の顔を凝視してしまった。上村は眩しそうな顔をして目を逸らす。
「……え?」
「聞こえなかったのか。同じ教場の誰かが、隠したんだ」
そんな可能性を考えたこともなかった周は、そのことにも驚いた。
「なんで、誰が?」
「……僕が知るわけない」
周は倉橋の顔を見た。
すると彼は困惑の表情を浮かべつつ、静かにうなずく。
「実は俺も薄々、そうなんじゃないかって……」
驚愕のあまり、周はさっき訓練中に捻って痛めた足のことを忘れかけた。
「……どうして……?」
上村も倉橋も、何か思うところがあるのか黙っている。
周はただ当惑するばかりだった。