48:それはまるで浦島太郎の気分でした
尾道東署の会議室。懐かしいそこは昔と違って、外壁は塗り替えられ、以前は煙草のヤニで汚い色に染まっていた壁紙も、すっかり綺麗になっていた。
聡介にとっても第2の我が家と呼べるこの所轄署。
長い間、ここの刑事課に在籍していた。
同課の顔ぶれは以前に比べて大幅に入れ替わっていたが、それでも変わっていないのは、刑事達が同じことを何度も質問してくることだ。
山西亜斗夢の遺体を発見した経緯について、聡介は今も事情聴取を受けていた。
齟齬をきたさないよう慎重に言葉を選んで答える。
今朝5時過ぎ、妙な電話がかかってきたこと。祇園橋バス停付近に行けば、面白いものが見られるという。ボイスチェンジャーを使っており、声の主がわからなかったこと。
かかってきたのは公衆電話からだったこと。
事情聴取に答えている間は、そのことに集中していれば良かった。
だが。今、聡介にとって気がかりなのは……机を挟んだ向かいに、あまり見たくない顔の女性が座っていることだ。
今朝、遺体で見つかった『山西亜斗夢』という子供の母親である。
その顔立ちは別れた妻と驚くほどよく似ていた。確証はないが、彼女の親せき筋ではないだろうか。
この場にさくらが、長女がいなくて本当に良かったと思う。
あの子は決して口にも顔に出さないが、自分を産んだ母親を恨んでいる。何しろ奈津子と言えばまったくと言っていいほど、さくらに対してだけ、親としての役割を果たさなかったからだ。
その理由は未だ不明だ。
彼女がいなくなった今は、永遠の謎である。
なお、子供の母親は初めの頃こそ泣き叫んで話にならなかったが、今は少し落ち着いたらしい。その後は、まるでこの会議室の中に犯人がいるかのような形相で、無言の内に視線を動かしている。
そうして不意に眼が合う。
悪いとは思ったが聡介は、即座に視線を逸らした。
しかし。それが却って相手の注意を引いたのか、今度はまじまじとこちらの顔を見つめてくる。
どうして彼女と別の部屋に通してくれなかったのか……。
聡介は名前も顔も知らない所轄の刑事を恨んだ。
ちなみに同業者であることは明かしていない。そのせいで妙な先入観を持たれても、捜査の妨げになると考えたからだ。
鑑識係の相原と親しげに会話してしまったが、恐らく見ていないだろう。
聡介は思う。
あの遺体の子供は、詳しい死因などはわからないが、他殺だろう。
ちらりと見ただけだがそんな気がしてならなかった。
今、所轄の刑事達は自分達だけを残して廊下に出ている。
何を話し合っているのか、そちらも少なからず気になった。
「あの……」
急に、子供の母親が話しかけてきた。
「私、山西亜斗夢の母親の瑠璃子といいます。あなた、もしかして……?」
何を言われるのだろう? 聡介は身構えた。
「祖母から聞いたことがあるんですけど。私の叔母の離婚したご主人が……この辺りに昔住んでいて、今も近くに親戚だった人がいるって」
そうだった、奈津子には1つ年上の兄がいた。
ひょっとして彼女がその兄の娘だとしたら、顔立ちが似ていることの説明がつく。
と言うことは、あのまま今も奈津子との姻戚関係が続いていれば、聡介にとっても姪に当たるのだろう。
どうしよう。正直に身許を明かすか、それとも……。
その時、救いを差し伸べるかのように長野課長が入ってきた。
「聡ちゃん、ちょっとええかの?」
聡介が立ち上がった時だ。
「あなた、高岡さん……高岡聡介さんじゃないですか!? 奈津子叔母さんの、別れた旦那さんって」
山西瑠璃子が大きな声で問いかけてくる。
「あなたなんですか? あんな妙な葉書を送ってきたのは!!」
彼女は立ち上がり、こちらへつかつかと歩み寄ってくる。
「……何の話です?」
「とぼけないでよ!! 祖母が直接、話をつけてくるって……その時も知らないフリをしたって言ってたわ!! ねぇ、あなたなんでしょう?!」
これよ!! と、差し出されたのは両面共に真っ黒な葉書。
思い出した。
この休暇を取るきっかけになった、奈津子の母親の訪問。
確か『こんなものを送りつけてきた』と、これとよく似た葉書を手にしていた。
「奈津子叔母さんのことで恨みがあるのかどうか知りませんけど、私達には関係ないじゃないですか!! あなたが亜斗夢を殺したの?! ねぇ!!」
そう言えば。
彼女は今朝、かつての義母が持ってきたのと同じ黒い葉書を手に、規制線の向こうで騒ぎを起こした。
恐らく同年代と思われる、知らない女性に詰め寄り、あなたがこんなものを送りつけてきて息子を殺したんでしょう?! と。
思わず仲裁に入ったのは、つい1時間ほど前のことだったではないか。
ふと、聡介の頭に【いろいろなこと】が浮かんで消えた。
別れた妻のしゃべり方。
何か都合の悪いことが起きると、すぐ夫や長女のせいにして、自分には何の責任もないのだと主張していた彼女。
あなたがいつも『仕事しごと』って、ちゃんと相手をしてくれないからよ。私は悪くない。
さくらが忘れていたのよ、私は知らないわ。
あなたっていつもそう。
何でもかんでも、私が悪いって決めつけて。
なぜそんなことを思い出したのか。
それは聡介が被害者となった子供の生前の行動を見たからだ。
同級生の子供に対するイジメと呼んで差し支えない暴力行為。
この母親はきっと、まったくその事実を把握していなかったに違いない。
『殺されても仕方ない人間』などは存在しないはずだ。
だが。
気分が悪くなってきた。
一刻も早く、この場を去りたい。
「……確かに私は、高岡聡介と言います。ですが」
聡介は、離すものかという勢いで腕をつかんでくる彼女の手を振り払い、
「今はもう山西の家とも、奈津子さんとも一切の関係はありません」
廊下に出ると、
「おっと、まだ話は……」
所轄の刑事が聡介を引き留める。
「申し遅れました。実は私、同業者です」
「えっ?」
聡介はいつも持ち歩いている名刺入れから、自分の名刺を取り出す。
「捜査1課強行犯係、高岡と申します」
「ほら~。じゃけん、そう言うたじゃろうが?」
長野がドヤ顔で言う。
「し、失礼いたしました!!」
「……長野課長、あの……」
「え? 課長?!」
所轄の刑事は長野のことを知らないらしい、聞いていないようだ。
「ど、どちらの、課長様でしょう?」
「捜査1課の……長野警視です」
「えええ―――っ?! な、な、それを先に言ってくださいよー!!」
聡介は長野課長の顔を見た。
「ちゅうわけでの、ここに捜査本部を設置するけぇな。聡ちゃんも用意してきてくれんかの? せっかくの休暇がパーになって申し訳ないが」
「……はい」
聡介は長女の自宅に戻り、仕事のための支度をすることにした。
すると。署を出てすぐ、和泉から着信があった。
『聡さん?! 無事ですかっ!!』
何を慌てているのだろう?
「無事って、何の話だ?」
誰に何をどう聞いたのか知らないが、和泉の慌てぶりからして恐らく、聡介自身に何か良くないことが起きたと伝わっているに違いない。
日頃は平気で上司に盾突いて言いたい放題、あちこちで面倒事を起こすだけ起こした挙げ句に後始末を全部こちらに押し付けて、父親を何だと思っているのか……そう考えたらなんだか腹が立ってきた。
だけど今は。
彼が自分のことを心の底から気遣ってくれている、そのことが口調だけで伝わってきた。
「彰彦、俺は別になんでもない。ただ……」
『ただ、なんです?』
思わず弱音を吐きそうになって思い留まる。
続けて彼に謝らなければならなかったことを思い出した。
「いや……こないだは悪かったな」
【お前には関係ない】
あんなことを言わなければ良かった。ずっと後悔していた。
『……何でしたっけ?』
本当に忘れているのか、忘れたフリをしているのかわからない。
「忘れているならいい。それよりお前、今どこだ?」
『尾道へ向かって高速の上ですよ。そっちで遺体が出たって聞いたから。東署に帳場が立つんでしょう?』
「……気をつけて来いよ。待ってるからな」