45:関係修復
玲子は若狭の背後に回る。
「失礼ですが。私は亘理と申します、あなたのお名前を……」
初めの頃はしどろもどろだった彼女も、今ではだいぶ様になった。
「ポケットの中身を確認させてください。動かないで、そのまま」
すると。
「嫌です!! どうしてそんなことをしなきゃいけないんですかっ?! 私が何をしたって言うんですか?!」
どういう訳か、若狭は泣き出しそうな顔で叫ぶ。
周にはそれが演技に見えなかった。
「警察官職務執行法第2条。異常な行動を見せる不審者に対し、職務質問を実行することができる……と書いてあります。先ほどからあなたは、しきりに右ポケットに触れていますね? そこに何が入っているのか……見せてください」
以前に比べてだいぶ上達した。
相手の行動から眼を離すな、そう何度も教えられた。
こう反論が来たらどう切り返そうかと、そちらにばかり気を取られていて、ともすれば相手の動きを見逃してしまいがちだったと言っていた彼女。
しばらく無言の睨み合いが続いた。
とうとう観念したらしい。
若狭は震える手でポケットからボタンを取り出し、玲子の掌の上に置いた。
「上出来よ、お疲れ様」
ぽん、と軽く玲子の肩を叩き、女性教官は再び教壇へと戻って行く。
それから玲子はなぜか、掌の上のボタンをしきりに眺めていた。もしかして今朝『失くした』と言っていたものではないだろうか。
ところで周には先ほどからずっと気になることがあった。
あの北陸コンビ。
能登の方は、俯いたまま一度も顔を上げようとしない。
これと言った根拠はなく、ただの勘に過ぎないのだが。
玲子が失くしたと言ったボタンは実は、本当に誰かに盗まれたのではないだろうか。
最近、彼女の身のまわりに起きる不審な出来事。
そして先ほど富士原が言っていた【誰かが盗んだ】という台詞。
まさかとは思うが、あの教官が誰かに命令して『盗ませた』のでは?
その事実を思わずポロっと口に出してしまったとしたら。
女子寮は当然、男子禁制である。
だとすると実行犯は……。
「なぁ、昨日の夜……」と、周は口を開いた。
「誰に話しかけているんだ?」
上村につっこまれ、
「あ、いや。亘理巡査……俺と図書室で会った後、何してた?」
「え? どうして……」
玲子は怪訝そうに、やや警戒したような表情をする。
「答えた方がいい」
上村が促してくれる。
「洗濯機を回して、それから……トレーニングルームに行ったわ」
「その時、貴重品と部屋の鍵は?」
「ポーチに入れて、目の届くところへ……」
「それから? 他に誰かいたか?」
「……若狭さんと能登さんが、2人でやってきて……能登さんに話しかけられて、休憩ついでにしばらくおしゃべりをしていて……」
その隙に部屋の鍵を盗まれ、侵入され、ボタンを切り取られたと考えるのはどうだろうか。
年金が支給される日に、銀行でよくある光景が思い浮かんだ。
2人1組の窃盗犯。1人がターゲットに話しかけて注意を逸らしているうちに、もう1人がカバンを持ち去ってしまう。その手口に似ている。
周が前触れもなく始めた【事情聴取】に、2人の女子学生はカタカタと小さく震え始めた。
仲間を疑うのは忍びないが、まったくあり得ない話でもないような気がしてしまう。
若狭と能登。2人の様子を見ている限りでは。
「そこまで!!」
ぱん、と手を叩く音で我に帰る。
「と、言うことで授業は終了!! 後の時間は自習して次の授業に備えて」
女性教官は扉を開けてさっさと教場を出て行った。
怯えた様子の北陸コンビは、先ほどからずっと俯いている。
「なぁ」
周が声をかけると、2人ともびくっと震える。
「何か知ってるんじゃないのか? 彼女が失くしたボタンのことで……」
答えはない。
「……俺の知り合い……いや、友達が言ってた。仲間を大切にしない、できない奴は警察官に相応しくないって」
2人の目に涙が浮かぶ。
その表情を見ていて周は確信した。
ただ、この2人が自らの意志で玲子を貶めるような真似をしたとも考えにくい。
おそらく誰かに命じられた。
「あの、私……」
若狭の方が何か言いかけたのを、
「嫌だって言ったのに……ごめんなさい!!」
遮るように能登の方が叫んだ。
「誰に命令されたんだ?」
上村が冷たい声音で問いかける。
「そ、それは」
2人は顔を見合わせ、どちらが答えるかと相談しているようだ。
ところが意外にも上村は、
「まぁ、いい。恐らく雨宮教官はすべてご存知だろうからな」
なんで?
周は不思議に思ったが、口に出すとなんとなくバカにされそうな気がしたのでやめた。
それに犯人の見当はつく。
該当の女子学生はこちらの様子に気づくことなく、他の学生達と雑談していた。
周が北陸コンビの顔を等分に見る。
「何があったのか知らないけど……一度失敗したからって、全部ダメになるわけじゃない。そうだろ? どうすればいいのか、わかるよな?」
ああ、そうだ。
他人に偉そうなことを言っている場合じゃない。
「……る、護っ!!」
先ほど、黙って教場を出て行った友人を追いかけて周は廊下を走る。
彼は振り返らなかったが足を止めてくれた。
追いついた。
しっかりと右袖を掴む。
「俺、護に何を悪いことしたのか、全然わからないよ。でも、このままじゃ嫌だ!! 入校してからずっと……仲良くしてくれてたのに」
周は倉橋の背中に額をくっつけた。
「護のこと、大好きだよ。大切な友達だと思ってる。だからもし、俺が何か悪いことをしたのなら謝るから」
やがて。
「俺……お前の足を引っ張ってるか……?」
「え?」
何言ってんだよ、と言おうとして周が顔を上げたのと、倉橋が振り返ったのは同時だった。
「腰巾着だって、そう思ってる?」
何を言ってるんだ。
「そんなこと、一度だって考えたこともないぞ!!」
周は強い口調でそう答えたが、友人は窓の外に顔を向け、眼を合わせてくれない。
「親しい教官がいる周にくっついていれば、俺もおこぼれにあずかって、美味しい思いができるんだって考えてるんじゃないかとか」
「……なんだよ、それ」
「ホントは俺のことウザいと思ってるって、周が他の奴らに言ってたのを聞いたって……」
「俺は一度だって誰にもそんなこと言ってない!!」
そんなこと、頭に上ったことすらない。
どうしてそんなことを、誰が言い出したのか。
段々と腹が立ってきた。
倉橋にではなく、そんなデマを彼に吹き込んだ相手に対して、だ。
「でも、水越が……」
周の脳裏に同じ教場の、目の細い狐のような顔の男が浮かんだ。
あいつか!!
「なんでそんなこと信じたんだよ?! ちょっとぐらい考えたらわかるだろ!! 俺は護のこと……すごく大切な友達だって思ってる」
すると倉橋ははっ、と弾かれたような顔をした。
「あ……なんでだろう……?」
しばらく放心したような様子で、彼は短い髪に指をつっこんでかき回す。
「疲れてたんじゃないのか?」
いや、と倉橋は首を横に振る。
「あいつの物の言い方だな……あの日は特に、富士原教官に殴られてすっかり気が滅入っていたせいもあって……」
そう言えば。
つい先日、彼が頬を真っ赤に腫らしていたことを思い出す。
「そもそも、なんで教官に叱られたんだ?」
「靴紐がほどけてる、って。何があったのか知らないけど、あの日は特に機嫌が悪かったみたいでさ」
「護……」
じっと友人の目を見つめる。
「あと、これは噂だけど。背の高い人間が狙われるって……ホントかな」
ありえなくはない。
あの教官は背が低い。そのことをコンプレックスにしているとしたら、長身の倉橋はターゲットになるだろう。
しばらくして倉橋は首を横に振り、
「……周、ごめん……よく考えてみたら、お前がそんなこと言う訳ないよな」
「いいんだ、今までどおりでいてくれたらそれで」
周は微笑んでみせる。ぎこちなくはあるが、倉橋もようやく笑ってくれた。
良かった。引っかかっていたことがこれで1つ、解消した。
後で絶対、水越に文句を言っておこう。