44:絶対に怒らせてはいけない相手
ところがその時。
「待ってください」
そう割って入った声は、上村ではなかった。
「これはこれは、雨宮センセ」
雨宮教官だ。
富士原は基本的に女性を蔑視している。それは相手が学生だろうと教官だろうと、関係ないらしい。【センセ】だなとどいう呼び方にあらわれている、と玲子は思った。
「服装検査の件なんて、私は聞いていません。勝手なことはやめてください」
「はて、ちゃんと申し伝えたはずですがな?」
「……北条警視の了解は取ってあるのですか?」
富士原は舌打ちする。
「後で報告するつもりでしたよ。それに、こういうことは定期的に抜き打ちでやらなければ意味がないのですよ」
すると女性教官はクスっと口角を上げて笑う。
「……何か?」
「かつて生安にいた頃、違法営業している風俗店に立ち入り検査の日程を漏らしたと噂される、富士原巡査長のお言葉とも思えないんですけど」
男子学生の1人が失笑を漏らした。
しかし彼はすぐにしまった、と思ったのか口元を手で抑える。
「……あんたとは一度、しっかり話し合う必要があるのぅ?」
富士原教官は苦々しい表情で雨宮教官を睨んでいる。
「いずれにしろ、今回の検査は無効と言うことでよろしいですね」
すると、
「お言葉ですが!!」と、口を挟んだのは谷村晶だった。
彼女は胸を反らして雨宮教官の前に立ちはだかる。
「我々が身につける制服はすべて税金で賄われた貸与品です。それに。たったボタン1つであろうとも紛失物を拾った誰かが悪用したとなれば、言い訳もできません!!」
確かに、彼女の言うことはもっともだ。
しかし女性教官の返答はいたってシンプルだった。
「……それで?」
谷村は怯む。
「ふ、富士原教官はそういった事情を鑑みて抜き打ち検査を実施なさったのです。それを、北条教官の許可が降りていないからと言って無効にするなどと、いかがなものかと思いますが」
女性2人は睨み合う。
玲子は息を呑んで行く末を見守った。まわりにいる仲間達もそうだ。
すると。
ぱぁんっ、と乾いた音が響いた。
続いてどたっ、と床の上に倒れる音。
雨宮教官の振り上げた掌が谷村晶の右頬を直撃していたのだ。その勢いがすさまじかったせいか、彼女は尻もちをついてしまった。
彼女を取り巻くように立っていた女子学生達だが、潮が引くかのように後退する。
誰も手を差し伸べようとはしない。
「……誰に向かってものを言っているの?」
ただでさえ低めの声が凄みを帯びて、さらに迫力を増す。
玲子もびくっとしたが、他の学生達も全員、怯えている。
「大きな口を叩くんじゃないわよ、半人前が!!」
あの富士原教官でさえ少なからず引いている。
それから彼女は一同を見回すと、
「皆、何しているの?! 早く授業の準備をしなさい!!」
学生達は一斉に、蜘蛛の子を散らすかのように走りだす。
助かった、と考えていいのだろうか?
だけど。本当にボタンはどこへ行ったのだろう。
※※※※※※※※※
良かった、と周は誰にも気付かれないように安堵の息をついた。
トラック20周命令が無効になったこともそうだが、何よりも。皆が玲子を見つめる視線に含まれていた棘が少しだけ和らいだこともだ。
昨日、図書室で玲子と顔を合わせた時、確かにボタンはすべてしっかり止まっていた。
その後、彼女がどう行動したかは知らない。
『いつボタンを失くしたのかわからない』と、彼女は言っていた。
何ごとにおいても雑な人間であれば、糸の切れそうになっているボタンをそのまま放置して紛失することもあり得る。
だけど周の見る限り、玲子はどちらかと言えば几帳面なタイプだ。
最近、彼女のまわりで起きていることを考えると、何か裏がありそうな気もする。
それにしても。
先ほどの雨宮教官は恐ろしかった。
いつも女子学生に対しては自分の娘のように接している彼女が。
あんな一面もあるのだな、と驚きでもあったが。
抜き打ちの服装検査の後は、地域警察の授業。
いつも通り北条がやってくるのかと思いきや、教場に入って来たのは助教である雨宮冴子教官だった。
「今日、北条教官は午前中不在だから」
そう告げて一連の儀礼を終えるや否や、彼女は教壇に立ち、
「皆、立って。5人か6人で班を作って」
言われた通り学生達は立ち上がり、ぞろぞろと仲の良い者同士でグループを作る。
周はすぐ隣に座っている上村と、そして今日こそは、と倉橋の袖をつかんで離さなかった。実際彼は、誰と組もうか悩んでいる様子だったからだ。
幸いなことに彼も、他のグループに入ろうと仲間を探すような真似はしなかった。
ただ、相変わらず眼を合わせてはくれないけれど。
それから、
「俺達と組もう?」
2人だけで困っていたのは、若狭と能登の北陸コンビである。
女子学生は既に6人でグループを結成していたからだ。
そして……。
「亘理巡査、こっち」
周が声をかけると玲子はほっとした顔で寄ってくる。
するとなぜか、北陸コンビの顔が青くなった。
「教官、これはいったい……?」
誰かが声を上げた。
「卒業式の前に行われる【職務質問コンテスト】の予選会よ。各教場から代表者を選出することになっているから、今の内にある程度は振り落としておこうと思って。それじゃ各グループ始めて!!」
「じゃあ、まず俺からでいい?」
周は全員に声をかけたが異論はなかった。6人は立ったまま輪になっている。
「まも……倉橋巡査、不審者役な?」
倉橋は黙ってうなずく。
職務質問の基本は覚えている。相手の目を真っ直ぐに見てはいけない。背後から突然、もしくはすれ違いざまを狙って……。
心に疚しいことがある人間は、制服姿の警官を見ただけで目を逸らす、あるいは来た道を引き返すと聞いた。
だけど周は真っ直ぐに友人の顔を見つめた。
彼は視線を泳がせ、そわそわと落ち着かなさそうに身体を揺らしている。
「ちょっとすみません、これからどちらへ? お名前とご住所を教えてください」
返答はない。
本当に訊きたいのはそんなことじゃなくて。
最近、何があったんだ?
俺が何か悪いことをしたのか……?
気がつけば頭の中は倉橋への個人的な質問でいっぱいになっていた。
ダメだ。今は授業中なのだ。
「答えなければ、こちらの心証を悪くするだけですよ」
そう、横から割って入ったのは上村だった。
「……倉橋です……」
「倉橋さん。どちらへ行かれるのですか?」
周は目だけで上村に礼を述べ、再び友人の方に視線を動かす。
「家に帰るんです。それが何か問題でも?!」
倉橋は怒っている。というよりも、どこか泣きそうな表情にも見えた。思わず。本当に無意識に出た行動だった。
周は手を伸ばし、倉橋の手を両手で握る。
びくっ、と伝わる振動。何をやってるんだ、と隣に立っている上村の目がそう言っている。
言葉が出て来ない。
習った通りにすればいいのに、声が出ない。
「……そのカバンの中身を見せていただいてもよろしいですか?」
「……嫌です……」
拒まれた場合は、どうつなげるのだったか。急に思い出せなくなってしまった。
すると。
「そこ!! 真面目にやってるの?!」
教官の檄が飛んだ。
「申し訳ありませんっ!!」
女性教官はマジマジと周の顔を見つめると、
「あら、あなたなの。めずらしいわね」
同じ班のメンバーは不安そうな顔で黙りこんでいる。不真面目だと判定され、罰則を科せられるのではないだろうか。
「そうだわ。ねぇ、ちょっと。今度はこれを使ってやってみて?」
雨宮教官はポケットから、金色に光る丸いものを取り出す。
「これは……?」
「見てわかるでしょ、ボタンよ。それでこれを……」
そしてなぜか、そのボタンを若狭の制服のポケットに突っ込む。
「亘理、あなたが警官役よ? それじゃあ、無事にそのボタンを取り返せるよう頑張って」
若狭と能登は顔を見合わせ、急に青ざめた。
教官は腕を組み、その場で様子を見守ることにしたらしい。