43:『お義父さんって、呼んでも……?』
郁美と古川は新幹線とタクシーで現場に急行した。
互いに寝不足のため、車中ではひたすら睡眠を確保した。
そうまでして急いできたというのに、到着した時には、遺体は既に運び出されていた。
規制線の向こうで相原ともう一人、知らない顔の鑑識員が動き回っている。
「係長!!」
「遅い!!」
「無理言わないでください、広島から尾道ですよ?!」
文句を言いながら郁美は荷物を下ろして指示を仰ぐ。
規制線の向こうでは野次馬が、制服警官と押し合い圧し合いしている。郁美がブツブツ言っている間に、古川の方は既に他の鑑識員へ声をかけて作業へ入っていた。
「見てみぃ、古川の方がお前よりよっぽど優秀じゃな?」
むかっ。
するとその時、規制線の向こう側で女性の悲鳴が聞こえた。
「あなたの仕業なんでしょうっ?!」
驚きに郁美が声のした方を見ると、自分よりももう少し年上だろうか、1人の女性が誰かにくってかかっていた。もう1人はこちらに背を向けているので顔は見えない。
だが女性だとわかった。
「うちの子を返して、返してよ!!」
「落ち着いてください!!」
そう言って女性達の仲裁に入っている人物は、なぜか捜査1課の高岡聡介警部である。
郁美は常々、彼のことを胸の内だけで勝手に【お義父さん】と呼んでいる。何しろ和泉が父と慕う相手だからだ。
足跡を採取しながら、郁美はさりげなく女性達を見た。
一人は比較的裕福な家柄なのだろう、お洒落でセンスの良い格好をしている。ブランド物で飾り立てるような悪趣味さはないが、さりげなく高価なものを身に着けている。
対して後ろ姿しか見えない女性は、至って平凡。少し裾のほつれたエプロンに、色あせてくたびれたジーパン。足元はつっかけだった。近所の人なのだろう。
艶のない乾いた髪は、朝日の光を受けてもくすんでいた。
「こんなもの、送ってきて……!! ……だから……!!」
何を叫んでいるのか、気になってつい手を止めてしまう。すると。
郁美の頭上にゲンコツが落ちた。
「いたぁーいっ!!」
「お前はいつから強行犯係の刑事になったんじゃ!? 作業に集中せぇ!!」
郁美は涙眼で思わず、かつての上司を睨んだ。
「私、手伝いで来てるんですよ?! だいたい……!!」
「相原さん」
そこへ間を割って入るようにやってきたのは、高岡警部であった。
「なんじゃ、聡さん?」
「これを鑑定に回してもらえませんか?」
そう言って彼が差し出してきたのは、一枚の葉書サイズの紙だった。葉書、と言い切るには少し奇妙な様相をしている。表も裏も真っ黒だったからだ。
黒い地の中に白抜き文字が書かれている。そして何より印象的だったのは、隅っこに描かれている猫のイラストであった。
「わかりました。本部の方で、お預かりいたします!!」
郁美は相原の手から葉書を取り上げ、自分のカバンに突っ込む。
それにしても、高岡警部はどうしてここにいるのだろう?
「あの、高岡警部……もう、1課に出動命令が出たんで……?」
「お前は手伝いに来たんか、ジャマしに来たんか?!」
まだ何か言いかけた彼はしかし、古川に呼ばれて向こうへ行ってしまった。
郁美は相原の背に向けて思い切りアカンベーしてみせ、作業を再開する。
考えてみればまだ、事故か事件か自殺か、それすらも聞いていない。
困ったような、戸惑ったような表情を見せた強行犯係の班長。
なぜか強く印象に残った。
※※※※※※※※※
コツを覚えてしまえば長い髪の手入れも比較的短時間で済んでしまう。
女子学生が皆、一様に髪を短くしている中、入校してからずっとロングヘアのままでいることを批判されることもあるが、気にはしていない。
髪を切らずにいる理由がある。でもそれは誰にも明かしていない。
亘理玲子はパッと髪をまとめ終えると、着替えに取り掛かった。
脇の痣にワイシャツの裾が触れ、痛みに顔をしかめる。
以前はほとんど目立たず、どちらかと言えば大人しかったように思えた彼女……谷村晶は、ただ牙を磨いで機会を伺っていただけだろう。
入校当初から何となく、感じが悪いと思っていた。
でもそれほど接触はなかったし、他に親しい友人がいたので、正直あまり気にしていなかった。
だが、友人達が次々と姿を消し、1人になると話が変わってきた。
ノートを隠されたり、ロッカーにゴミを入れられたりなどと言うのは何度もあった。
あの日。自分のミスで休暇を取り消されてしまった時。
反省室だと称して、物置に閉じ込められた。
彼女が自分を恨む理由は知っている。上村のことだ。
親切にしてくれるのは、助けてくれるのはもちろんありがたい。でもそれはきっと彼女達が誤解しているような理由ではない。
彼はただ、道理に合わないことが許せない……いや、気に入らないだけだろう。
玲子が溜め息をつきながら制服の上着を羽織り、ボタンを留めようとした時に気がついた。
ジャケットのボタンが1つ紛失している。
昨日の夜、授業が終わるまでは確かにあった。糸が緩んでいるようなこともなかった。
どうして?
玲子は部屋中、ボタンを探し回った。
扉の向こうからガヤガヤと学生達の話し声が聞こえてくる。そろそろ行かないと、ホームルームに遅れる訳にはいかない。
もし、こんな時に服装検査があって、担当が富士原教官だったら?
見つかったら何を言われるだろう?
あの教官は女性が相手でも容赦しないと聞いている。
話してわかってくれるような人ではないことも。
どうしよう。
いよいよ時間が迫って来た。玲子はちょうど胃のあたりになる、ボタンのない箇所を手で押さえて部屋を出た。
「おはようございます」
廊下に出た途端、声をかけてきたのは北陸コンビと呼ばれる2人。
彼女達はいつでも、何をするにも2人一緒だ。
「おはようございます」
玲子が彼女達と一緒に歩いていると、能登の方が、
「玲子さん、今日、服装検査だって知ってました?」
「え……?」
聞いていない。もっとも、抜き打ちでなければ検査の意味もないのだが。
玲子は血の気が引いていくのを感じた。
ボタン1つであっても紛失してしまえば強い叱責が待っている。そればかりか罰則を科せられ、ランニングかもしくは校庭の草むしりか、とにかく仲間達に迷惑をかけることは間違いない。
そうなればますます居心地が悪くなってしまう。
どうしよう?
どこで失くしたのだろう? 昨夜から今朝に至るまでの行動を必死に思い出す。
教場の前では富士原がドアの前に立ち塞がり、1人1人を検分している。
そうしている内に自分の番が回って来たのだった。
「……ボタンはどうした?」
気がつけば目の前に岩のような大男が立っていた。
実際のところ身長差はそれほどでもない。だが、今の玲子にしてみれば、富士原と言う悪名高い教官が巨人に見えたのだ。
「わかりません……」
本当に思い出せない。どこで失くしてしまったのか。
糸が緩んでいたりしていないか、常に細かくチェックしているはずだ。
すると。突然、視界が真っ暗になった。
頬に強い衝撃を受け、ふらついた玲子は壁に手をついた。火箸を当てられたかのように痛くて熱い。
「なんじゃその返事は!! 自分の制服もまともに管理できんのか?!」
まわりの学生達が一斉に好奇の視線を向ける。
「本当にわからないんです。昨夜はちゃんとしっかり……」
「誰かが盗んだとでも言うんか?!」
正直なところ、それしか考えられない。
咄嗟に頭に浮かんだ顔が何名かいた。
「仲間を疑って泥棒呼ばわりか。そんな腐った根性の人間がここにおる資格はないど!! 今すぐに荷物をまとめて出て行け!!」
「いいえ、辞めません!!」
玲子は叩かれた頬を手で抑え、それでも真っ直ぐに富士原に向かって叫んだ。
「ほんならええ、お前ら全員グラウンド20周じゃ!!」
仲間達全員がギョっとし、そして玲子を睨みつける。
またお前か。
こいつのせいで……。