37:たまにはまともなことも言います
風呂上がりなのに、悪寒を覚えたのはなぜだろう?
周は両腕で自分自身を抱きしめるようにして二の腕を擦った。
結局、今日も倉橋とは話すチャンスを見つけられなかった。何度も機会をうかがっているのに。
いっそのこと担当教官に相談してみようか。
変な人だが、親身になってくれると思う。
するとその時。向かいからちょうど富士原教官が歩いてくるのに気付いた。
あの教官が着任して最初に挨拶をした時。
廊下でもどこでも、自分と顔を合わせたら必ず敬礼しろと命じてきた。独自に決めた規則らしい。だが、学生達に逆らうことは許されていない。
周はとっさに敬礼のポーズをとった。
この敬礼は簡単そうに見えるが、実は細かい規定がある。手首を曲げない、肘と肩の高さを同じにする、人差し指の先を前額部右端から2センチ手前に当てる。
富士原は足を止めてジロジロとこちらをねめつける。
そして。
「肘の位置が違う!! 手が額に近い!! 手首の角度が違う!!」
ほとんど言いがかりだと思う。しかし抗議はできない。富士原が手を振り上げたのがわかった。
ぶたれる!!
咄嗟に周が眼をきつく閉じた時、ふわりと鼻先を柑橘系の匂いがかすめた。
誰かの背中が突然、自分の眼の前にあらわれる。
倉橋だろうか? そう期待したのは一瞬で。
ギャっ、というような妙な悲鳴が聞こえたかと思うと、
「……あなたのその手は、学生を叩いたり殴ったりするだけのためにあるのですか?」
「は、離せ!!」
「正しい敬礼のお手本を見せてくださいよ。物差しと分度器を持ってきますから」
こちらの胸の内をそのまま代弁してくれたのは、なぜかの和泉だった。
どうして、何をしにここへ?
わざわざ自分達を助ける為にあらわれた訳ではあるまい。そんなマンガやドラマのヒーローじゃあるまいし。
「なんじゃ貴様!! どうやって入ってきた?!」
「正面玄関からです。関係者ですから」
「名前と階級はっ?!」
「名乗るほどでもない、ただの捜査1課の警部補ですよ」
和泉は手帳を取り出して開いて見せる。
それが真実だったとわかったらしい富士原は、舌打ちをして去って行く。警察の階級は自衛隊よりも強い効力を持つというが、本当だった。
「……時々っていうか、けっこうな割合でいるよね。ヤクザなのか警官なのか見分けがつかない人ってさ」
こちらを振り返った和泉は、肩を竦めてそう語る。
「……なんで?」
「そんなの、訊くだけ野暮だよ。周君に会いたくて会いたくて、そのことばかり考えてたら身体が勝手にね……?」
そうしてさりげなく手を肩に回し、黙っていたらそのまま唇が触れあいそうなほど近くに顔を寄せてくる和泉の足を、周は踵に全体重をかけて思い切り踏んづけておいた。
「だから、なんで?」
「……忘れ物を思い出したんだよ……痛い、痛いって周君……」
「忘れ物?」
「周君に、おやすみのキ……いたーっ!!」
とりあえず、向う脛を思い切り蹴飛ばしておく。
じゃあな、と周は和泉に背を向け歩きだそうとした。
そう言えば。昼間、グラウンドを走っていた時にちらりと和泉の顔を見た。
知らない男性の2人連れだった。この近くで何か事件があったのだろうか?
いろいろと訊きたいことはあったし、本当は助けてもらったお礼も言わなくては。そう思っていたのに……。
本当は久しぶりに和泉と会えて嬉しい。
特に友人のことで気持ちが落ち込んでいる今は一番、相談相手になって欲しい人でもある。日頃はヘラヘラしているが、真面目な話には真剣に向き合ってくれる人だとわかっているから。
「……周君? どうしたの。そう言えばいつもの彼は、一緒じゃないの?」
周は足を止めた。
なかなか上手く声が出て来ない。
「……そんなの、俺が訊きたい……」
やっと出た声は掠れた音のようだ。
理解できないことばかり。
倉橋の態度も、亘理玲子の受難も、何もかも。
ただ1つはっきりしているのは。
あの富士原と言う教官が自分のことを快く思っていないということ。先ほどはたまたま和泉が助けてくれたからよかったものの、あの仕打ちはきっと以前、柔道の授業の時に起きたことの仕返しなのだろう。
上村の容姿をネタに笑い物にしたこと、そのことで周が富士原を『間違っている』と断言してしまったのは、やはり失敗だったのだろうか。それも学生達全員の前で。
でも、自分は決して間違っていない。
誤ったとしたら『やり方』だろうか。
もしかして気がつかないうちに、倉橋にも何か同じ、不快な思いをさせるようなことを口にしていたのだろうか。
思えばここのところ目まぐるしい日々が続いていた。
入校してから半年。折り返し地点を過ぎて、まさに後半の追い込みが始まった今、自分もそうだが誰も気持ちに余裕がなくなっている気がする。
仲間は減ったし、教官達の顔ぶれも変わった。
そんな中で無意識の内に友人を傷つけるようなことを言ったのかもしれない。
だとしたら何が原因だったのか、教えてくれなければわからない。
「あーまーねー君ってば!!」
ふと気がついたら、和泉が目の前に回りこんでいた。
「そう言えば前に、お友達とのこと電話で話してくれたよね。まだ……引きずってるんだね」
「俺は……っ、何度も話しかけようと頑張って……」
左肩にそっと彼の手が触れる。
「わかってるよ。周君はそういう人だよね」
「そういう人って何……?」
いつも他人の顔色を伺って、ご機嫌とりに忙しい人間?
不意にそんな考えが頭に浮かんだ。
ところが、和泉の返答は思いがけないものだった。
「素直で謙遜な人」
そう答えて彼は微笑む。
何か企んでいるようないつもの邪悪さはなく、優しくて温かい笑顔。
「ケンカすると、相手が折れてくるまでは絶対自分からは口もきかないって言う人がいるでしょ。でもそれじゃ、何の解決にならないよね。本当にすごい人はね、たとえ自分が悪くないと思っていても、関係を修復するために進んで譲歩できる人なんだよ」
「でも……」
「だから僕は周君のことを、心から尊敬しているよ」
くすぐったい気分だ。
まさかそんなことを言われるとは思わなかったから。何か言わないと、そう考えてつい焦ってしまった結果、
「尊敬って……普通、年上の人に使う言葉じゃないの?」
「そんなことないよ。周君には僕もいろいろ、大切なことを教えてもらったからね」
「いろいろ……?」
「そう、たくさん」
そっと手に手を重ねられる。
「焦らないで。少し時間がかかるかもしれないけど、君の誠意はきっと伝わるから」
久しぶりに温かい気持ちになれた。
ああ、そうだ。
焦ったって何もいいことなんかない。
時には時間が解決してくれることだってある。
……と、思ったのに。
「まぁでも、僕としては周君があまりモテるのも考えものなんだけどな~?」
「なんだよ、それ」
「だって周君のことは僕が独占したいもん」
ヤバい、こいつはいろんな意味で危険だ。
早く部屋に帰ろう。
踵を返しかけた周に、
「ところでねぇ、あの子元気? 上村君、だったっけ……?」
なぜ上村のことを?
「……様子見に行けば? 多分、寮のどっかにいるから」
すると。
和泉は目をキラキラ輝かせ、
「え、もしかして妬いてくれてるっ?!」
「……あぁ?」
「顔が怖いよ、周君……」
周は溜め息をつきながら、
「それより、何かの仕事でこっちに来てるんだろ? 相棒を待たせたら悪いんじゃないのか」
笑顔の優しい、かつての隣人を思い出す。
「……うん……相棒って言っても今回は(仮)だけど」
「え、高岡さんじゃないの?」
「聡さんはね~……いろいろあって……」
「何が?!」
思わず食いついてしまった。
すると和泉は。なぜか無表情になってしまった。
それからそっと周の頭に手を伸ばしてくる。
「いい子いい子。それじゃあね」と、和泉は反対方向へ歩き出す。
「また来るからね~。困ったことがあったら、いつでも呼んでね? 光の速さで焼結しにくるから」
まったく……。
でも本当に、困った時にまたあらわれてくれるのだろうか?
いや、と周は首を横に振る。
期待しちゃダメだ。
ずっと彼に甘えていたら、強くはなれないから。