35:この差ってなんですか?
それからなんとなく成り行きで、聡介はビアンカと一緒に、次女のいる店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい……あら、お父さん!!」
娘の梨恵が出迎えてくれる。
「久しぶりだな」
まだ開店してそれほど時間が経過していないからか、それとも平日の夜だからなのか、店は比較的空いている。
「ねぇねぇ、聞いてよ。あのね……」
いつものようにおしゃべりを始めようとした彼女は、すぐ後ろに立っていたビアンカに気がつくと、あんぐりと口を開けたまま止まってしまう。
「……適当に座ってもいいか?」
急に嫌な予感がしてきた。
すると案の定。梨恵はこちらの問いかけに返事をする前に、調理場に立っている夫の元に走り寄り、何か耳打ちをして叱られていた。
「綺麗なお店ね」
ビアンカはキョロキョロと店の中を観察している。
こちらにどうぞ、と案内された4人掛けのテーブル席。水とおしぼりを運んできた梨恵は、さっき叱られたばかりなのに、好奇心を抑えられないといった表情でビアンカとこちらを交互に見つめている。
確かに女性を、それも外国人を連れてきたのなんて初めてだ。
妙な誤解をしなければいいが。
「え、えっと……め、メイアイヘルプユー? ……で、良かったんだっけ?」
俺に聞くな。聡介は胸の内で答えた。
外国人観光客が増えている今、挨拶程度の英語もできないでどうする。
……どうも自分は次女に対して微妙に辛口なようだ……。
そのことに気がついた聡介は、思わず溜め息をつきそうになって、慌てて手で口元を抑えた。
「日本語で大丈夫ですよ」
「うわぁ~、日本語お上手ですね!!」
ビアンカは苦笑している。
「あ、私。今岡梨恵っていいます。こちらは私の父。どうぞよろしくお願いします」
「高岡さんのお嬢さん……私、ビアンカと申します」
「どちらからお見えになったんですか?」
「父親の仕事の都合で、5歳ぐらいの時から日本に住んでいます。生まれはドイツです」
「へぇ~!!」
他の客が娘を呼んだので、彼女はは~い、と去っていく。
少しホっとした。
「とっても可愛らしい方ね、お嬢さん」
ビアンカは言う。
「……そうですか?」
「こういうお仕事にピッタリだと思うわ。笑顔がとってもチャーミングで、明るくて」
確かに客商売には向いてると思う。
ただ、できればもう少し年相応の落ち着きを身につけろ……とも。
「良かった、お嬢さんに会ったら元気が出たみたい。さっきよりずっと顔色が良いわ」
おしぼりで手を拭きながらビアンカが微笑む。
そうだろうか。
それから何か問いたげな彼女の視線を感じて聡介は思った。
自分のことはあまり話したくないし、訊かれたくない。
こういう時は相手に近況を語らせるのがベターだ。
「ビアンカさん、最近どうですか?」
すると彼女は嬉しそうに、最近は父親と月1ペースで会っていること、仲居のアルバイトは人手が足りない時に時々ヘルプに入ること、今の仕事などについて話してくれた。
「お客様センターですか……大変そうですね」
「ほんと!! 暇な人が多くって……でも、面白いこともあるのよ」
ふと、次女の視線に気がついた聡介は口を閉じた。
やけにニコニコ、いやニヤニヤしているように見える。
「……どうかしたの?」
「いえ、別に……」
おそらく彼女はビアンカのことを勝手に、お父さんの新しいいい女か何かだと思っているのではないだろうか。
冗談じゃない。
自分は誰にどう思われようと別にかまわないが、ビアンカの方はいい迷惑だろう。
親子ほどの年齢差があるというのに。
何か別の話題はないか。
聡介は視線だけで店内を見回した。すると。
「お待たせしました、ごゆっくり~」
かなり含みのある笑顔を見せながら、次女が料理を置いていく。
ちなみに聡介はまったく食欲がなかったので、ウーロン茶と、胃に優しそうな一品だけを頼んだ。
「わぁ、美味しそう。いただきま~す」
ビアンカは嬉しそうに箸を手にとる。
「……写真、撮らなくていいのですか?」
なんとなく聡介は訊ねてみた。
え? と、ビアンカは眼を丸くする。
「ああ、エンスタ? 私、やってないもの。それに撮影禁止って書いてあるわ」
どこに?
聡介が首を巡らすと、すぐ後ろ、確かに壁の一部に【撮影禁止】と書かれた張り紙があった。
そう言えば。昼間、電車の中で見かけたあの女性みたいに、やはりこの店にもあらわれるのだろうか。エンスタ女子とやらが。
はっきり言って、どう考えても傍若無人な迷惑客だ。
そんな女性達と同列に置いたりして、失礼なことを訊いたかな、と聡介は少し後悔した。
しかしビアンカは何も気にしている様子は見せない。むしろ。
美味しそうに食べる人というのがいるが、彼女がまさにそれだった。
これなら作った板前も満足だろう。連れて来てよかった、と思う。
店はまだそれほど混雑しておらず、暇なのかそれとも様子見なのか、次女が温かいお茶を運んでくる。
「……なぁ、どうして撮影禁止なんだ?」
聡介は娘に訊ねた。
すると彼女は眉を吊り上げ、
「それはね、1度じゃなくて2度3度、ものすごく迷惑なエンスタ女子が来たからよ!!」
やっぱりか。
思い出したら腹が立つのか、梨恵は手を腰に当て、
「食べるのに一番良いタイミングってのがあるのよ!! それにね、温かいものは温かい内に食べないと、美味しくないに決まってるじゃない!? それをパシャパシャ、カメラマンもびっくりするぐらいの勢いでシャッター切って!! 挙げ句の果てに、冷めた料理を食べて美味しくないって、ほとんど残して去って行ったのよ!!」
声が大きい。
失敗してしまった、と聡介は苦い思いを噛みしめた。しかし幸い、他の客は自分達の会話に夢中で、こちらを振り向くことはなかった。
「少し落ち着け、な?」
「腹が立ったから私、文句言ってやったの!! 冷めないうちに食べない方が悪いんだって。そうしたらなんて言ったと思う?! 冷めてもおいしいものを作るのが料理人の使命じゃないかって!! 屁理屈もいいところじゃない?!」
火に油を注ぐ結果になってしまった。
帰りたくなってきた……。
「そうね、若女将のいうとおりだわ」
ビアンカがそう言ってくれたおかげで、少し溜飲が下がったらしい。「お客だから、お金を払っているんだから何をしてもいいって言う訳じゃないわよね」
そうなの!! と、娘はビアンカの手を握る。
料理場の中で義理の息子は苦い顔をしていた。
「そう言う訳で、撮影は一切禁止にしたのよ。あ、そうだ!! 写真で思い出したんだけどお父さん……」
梨恵がジト目でこちらを睨んでくる。
「な、何だ?」
「うちの子の写真、ちゃんと見てくれてる?」
次女夫婦の間に子供が生まれたのは、長女が出産してから約2ヶ月後のことだ。
従兄弟同士で同じ学年だと喜んでいたのを覚えている。
時折、娘達は自分達の子供を写真に撮って聡介に送ってくれる。それはいい。
だがなぜ、現像したものを郵送してくれないのか。メールに添付ファイルとか、もはや意味がわからない。
「見ているに決まってるだろう」
どうにかファイルの開き方は覚えた。
「じゃあなんで、返信してくれないの?」
やり方がわからないから。
と、言うのはどうしても口に出せなかった。
とうとうしびれを切らしたのか、義理の息子が客席の方に出てくる。
「いいんですよ、お義父さん。こうして直接、元気な姿を見せてくださった方が、その方がよほど安心ですから」
聡介はしみじみと、どうして長女は、この人間のできた男性と結婚してくれなかったのだろうかと思うことがある。
人の心はままならず……ということか。
そう言う訳で、
「徹生は起きてるか? 顔を見たいんだが」
「上にいるわよ、今、お義母さんが見てくれてる」
聡介はビアンカに断りを入れて裏口から店の2階に上がり、【徹生】と名付けられた次女夫婦の間に生まれた孫を見に行った。
こちらの孫は外見が父親そっくりである。
どうか中身もそのまま、父親の生き映しに育ってほしい……。