34:だからストーカーだって言われるんだエビ?
何十年か前、もう平成に入ってからの話だが。
新しく尾道市長となった人は湾岸整備に力を入れたらしい。
尾道を起点とし、瀬戸の小さな島々と愛媛県今治市をつなぐ【しまなみ海道】の開通に伴い、山陽本線尾道駅前は見違えるように綺麗になった。
線路沿いに福山方面へ続く商店街のすぐ裏は瀬戸内海、いわゆる尾道水道だが、聡介の知っているこの海辺は、軽自動車さえ通れないような細い道ばかり。入り組んだ迷路のような、小汚い場所だと以前はそう思っていた。
けれど。今は防波堤もアスファルトも白く塗り替えられていて、ところどころ幾何学模様のタイルが貼られ、等間隔にベンチが設置されてさえいた。
気がついたらそのベンチの一つに今、自分は腰かけているようだった。
少し回復したように思う。
さっきは吐き気と眩暈を覚えていたのだが。
「……落ち着きました?」
「……はい」
心配そうな表情でこちらを覗き込んでくる金髪碧眼の美女。
なぜ彼女がここにいるのか、自分はいったい、何をしているのか……。
聡介は記憶を取り戻してみることに努めてみた。
次女に会いに行こうと思って、長女の家を出た。そして。
駅前で小学生の団体を見た。
1人の子供に対し、3人の子供が寄ってたかって乱暴していた。
そして。弾みで道路に落ちた文房具を拾ったところ、そこに書かれていた名前に驚愕した。
それは別れた妻の旧姓だったこと。
つい先日、かつて義母と呼んでいた女性。彼女が訪ねてきてからこっち、聡介は精神的に不安定な状態が続いている。
かつての妻のことは考えないようにしていた。と言うよりも、日々の仕事に追われてそんな余裕もなかったのも事実だ。それでも。
ああして、元とはいえ親族の顔を見ると否応なく心をかき乱されてしまう。
もっと自分にできることがあったのではないか。本当なら今頃、2人で定年後の将来を考えていたのではなかったか。
その結婚生活の始まりは決して、褒められたことではなかったとしても、2人で協力し合って、もっと良い家庭にすることはできなかったのか。
仕事を言い訳にほとんど家庭を顧みなかった自分。
自分は夫としても父親としても失格だったと、振り返ってみて思う。
ああすればよかった、こうしていればもっと違ったはずだ。
そうやって聡介は自分を責め続け、その日の夜は眠れなかった。
挙げ句。心配して声をかけてくれた息子に『お前には関係ない』なんて、暴言に近いことを吐いてしまったこと。
思い出したら出したで、今度は強い自己嫌悪に襲われる。
あれから彼は何ごともなかったかのように、何やら忙しそうにしているが……内心ではどう思っているのだろうか。
「もうっ、高岡さんったら!!」
鈴の鳴る様な声で、ふっと我に帰る。
「そうやってなんでもかんでも、自分の胸の内だけで解決しようとするのは悪い癖よ!? あなたは人生経験もあるし、とても深く考える人だから……でもね」
白くて冷たい手が自分の手を包む。
ひやりとしたのは一瞬で、次第に温かさを感じてくる。
「そういうの、周と同じよ?」
なぜ、その名前が?
あのバカ息子が心底可愛がっている、どこまでも真っ直ぐで純粋な青年。
「あの子もね。まわりに心配かけまい、決して負担になるまいって、何でもかんでも全部、一身に背負っちゃって……でもね。美咲が時々こぼすのよ、少しぐらいは愚痴でも弱音でも吐いてくれたらいいのに……って。大変なんでしょう? 警察学校って」
ああ、そうだ。
あの子は今、必死であの過酷な訓練に耐えているに違いない。
気持ちの強い子だから、あまり内心の葛藤や苦悩は人前で出さないのだろう。それだけに疲労がピークに達してしまった時が心配なのだが。
「そりゃね、いつも愚痴や弱音ばっかりだと、聞かされる方はウンザリするけど。こんなになるまで溜めておくのも考えものだわ」
「……俺が、警察学校にいたのは……もう何十年も前の話ですよ?」
ああ、思い出した。
そこで妻と、初めて好きになった人と出会い、そうして……。
「何があったのか知らないけど、嫌なことがあった時はね? 美味しいものと、美味しいお酒でぱーっと忘れちゃうの!!」
飲めませんけど、とはこの際、言わない方がいいだろう。
聡介は黙って微笑む。
「それとね。あなたを支えたいって思ってる人間がいるんだってことを、思い出して」
そうだ。今までは自分1人の力で何とか部下達をまとめ、上手くやっているなんて考えていたけれど。そんなのはただの傲慢だ。
皆が自分を支えてくれて、そうしてちゃんと上手く回っているのだ。
「……ありがとう……ビアンカさん」
白い頬が赤く染まる。
「ところで、どうしてここに?」
※※※※※※※※※
『そっとしておいてあげてください』
和泉はああ言ったけれど。
思い立ったら即日行動!! を、モットーにしているビアンカは、たかが尾道じゃないの、と愛車を駆りたてて高速道路に乗った。
会いたい気持ちは抑えられない。
それに加えて、親友の美咲から聞いていた尾道にある【美味しい店】も気になっていた。
午前中、和泉達と別れてから即、ビアンカは尾道へ向かった。
適当なところに車を止めて、実は聡介を探してしばらくウロウロしていた。広島市内に比べたら圧倒的に人は少ない。商店街をウロウロ歩いていたら、偶然ばったり……なんてこともあり得るだろうと期待して、何回か往復したりもした。
しかしそう上手い話があるわけもない。
あきらめかけたその時だった。
少し前を小学生の集団が歩いていた。一目で穏やかならぬ空気に気付いたが、しばらくビアンカは様子を見ていた。
自分も学生時代、外見で随分と差別的な扱いを受けたことがあったが。そんなことは今どうでもいい。
頃合いを見計らって、何か声をかけようか。
そう考えた時だ。向かいから探している人があらわれたのは!!
彼も子供達の様子をひどく気にしていた。そうしていじめられっ子が蹴飛ばされ、荷物を散らかしてしまった時、動き出した。
何がきっかけだったのかわからない。だが。
聡介の顔色がみるみる内に青くなる。
まさか、あのクソガキが不敬な言葉を浴びせかけたから? そう考えたらもう、いてもたってもいられなくなった。
外人、キモいですって?
そんなくだらない台詞、学生時代に何度も言われたわ。
影でこっそり、公にもね。
そうして。クソガキどもを蹴散らした後、どういう訳か聡介の様子が急におかしくなってしまった。
額に汗を浮かべたかと思うと、次の瞬間にはふらついている。
救急車を呼ぶかと訊ねたが、彼は首を横に振る。少し、座る場所を……そう言われて咄嗟に辺りを見回す。幸い、すぐ傍にベンチがあった。
次第に回復へ向かっている様子なのは、顔色を見ていて分かった。
要するに彼は疲れていたのだ。
毎日、こちらには想像もつかないほどの激務に耐えているのだろう。優しい人だから余計に、人よりも多くのストレスを抱えているのかもしれない。
私が。私があなたの支えになれたなら。
聡介の隣に腰かけ、銀の髪と、その横顔を見つめながらビアンカは考えた。
穏やかな、瀬戸のエメラルドグリーンの水面は今も静かに波打っている。
『ところで、どうしてここに?』
そりゃそうよね……。
どう答えようか悩んでいる時、ちょうど午後6時を知らせるチャイムが鳴った。
話を逸らそう。
「ねぇ、高岡さん。もう大丈夫? 実はこの近くに『小松屋』さんっていうお店があるの知ってる? 美咲から聞いたの、とっても美味しいお店だって。私、お昼ご飯抜いちゃったから、お腹空いちゃった」
すると彼は目をパチクリさせる。
「それ、うちの娘の嫁ぎ先ですよ……ちなみに場所は、すぐそこです」
世間って、思っている以上に狭いのね……。