31:風が吹けば桶屋が儲かる(?)
「あ~……疲れた……」
平林郁美は周囲に上司がいないのを確認して、思い切り伸びをした。
部屋にこもってじっと作業しているのは決して苦痛ではないが、長時間に渡るとさすがに息が詰まってしまう。
そろそろ気分転換しないと。
和泉から頼まれた物の鑑定結果も出たことだし、そうだ!! ちょっと勇気を出してついでに一緒にお昼休憩に行きませんかとか、誘ってみよう。もう午後2時近くだけど。
椅子から立ち上がった瞬間、腰に少しの違和感を覚えつつ、郁美は捜査1課の部屋に向かうことにした。
ふと出がけに、
「あ、古川君。私ちょっと外に出てくるから、電話番よろしくね」
と、後輩に声をかけた。
「……和泉さんなら出かけてますよ」
「え?」
「俺、今1課の部屋に行ってきたから間違いないっす」
何よこいつ……郁美はそう思ったが、まぁいい。だったら電話くださいって、メモを残しておこう。
たとえ業務連絡でも、好きな人から電話がかかってくると思ったらウキウキしてしまうものだ。
それにしても。なぜか他部署の部屋に入るのは、妙な勇気がいる。
いつも通り入り口のところでウロウロしていたら、
「あ、郁美。和泉さんならいないわよ」
と、友人である稲葉結衣が声をかけてきた。
古川の言っていたことは間違いなかった。別に疑ったりはしていないが。
「ねぇ、郁美。昼休憩はこれから?」
「そうよ」
「じゃあ、一緒に外へ行こう」
「……彼氏はいいの?」
「いいのよ、いこいこ」
結衣は時折、こうして彼氏よりも友人である自分と一緒に行動したがる。
そこのあたりが郁美にはイマイチ理解できない。同じ職場なんだし、いつも傍にいてラブラブしていたいのが乙女心というものではないだろうか?
まぁ別にどうだっていいけど。
県警本部を出て大通りに出る。
本通り商店街に向かうため信号待ちをしていると、
「こないだね、すっごく可愛いモンブランを売ってるっていうお店を発見したのよ。たぶん行列してるからテイクアウトにしよ。そしたらたぶんそれほど待たなくても買えるから」
と、結衣が言い出した。
「……結衣、あんたももしかしてエンスタ女子ってやつ?」
「え~、違うわよ。エンスタなんかやってないもん」
「だってこないだ、世羅高原でも写真撮りまくってたじゃない」
「あれは、記念よ。思い出はお金じゃ買えないもの」
「ふーん……」
じゃあ、もしも彼氏と別れたらその写真は削除なのかしら?
デジタル時代の今、ゴミが出なくてエコでいいわよね。
何を考えてるのかしら、私。
郁美は1人で赤面してしまった。
話題の店は確かに行列ができていた。それも女性ばかり。
パステルカラーで統一された可愛らしい外観からして、確かに女性客が喜んでやってきそうだ。
テイクアウト専門の窓口にも待っている人はいたが、ほんの十人ほどだった。
郁美たちが最後尾に立つと窓から店内の様子が見えた。
いるわいるわ、パシャパシャとやたらに写真を撮りまくっている女たち。あれがエンスタ女子だ。
その姿が滑稽に思えて、郁美はしばらく彼女達の様子を見守っていた。
中でも化粧の派手な女性2人組は、料理のレシピ本にでも掲載するのかという徹底ぶりで、スポットライトを当てたり、カメラの角度を調整したりしている。
ようやく満足の行く写真が撮れたらしい。
これだから行列ができるのよ、と郁美は思った。別に暇な人間はいいでしょうけど、とブツブツ思っていたその時。
化粧の濃いエンスタ女子二人組は、テーブルの上のケーキをそのままにして、店を出て行こうとする。
「食べないのかしら……?」
思わず郁美が声に出して言うと、
「ああ、そんなものらしいわよ」と、結衣。
「そんなものって?」
「だってほら、可愛いお菓子ってたいていカロリー高いじゃない。写真が撮れたらそれで満足だからって、食べないんだって。しかも連日あちこちのお店を巡ってるらしいから。全部食べてたら、そりゃ太るわよね」
信じられない。
「何よそれ、作った人に対する冒涜だわ」
「……それはそうなんだけど……」
残されたケーキは手つかずだからといって、他の客に出す訳にもいくまい。間違いなく【廃棄】となるのであろう。
「世の中の流行っていうのには必ず光と影があるものなのよ。特に今みたいな、SNSが普及した時代には」
突然、友人が悟ったようなことを言い出した。
「エンスタでお店の情報が広まったら、経営する人はきっと、たくさんお客さんが来てくれて嬉しいだろうけど。でも……あんなふうに食べないで店を出て行かれたら、作った人もそうだし、材料を生産した人に申し訳ないって思うでしょうね」
「確かにね」
「それに……お菓子ばっかりじゃないわよ。綺麗な景色のところで、迷惑行為を繰り返すエンスタ女子もいるらしいわ」
「ああ、あれね。【いいね】が欲しくて、っやつ」
くだらない、と郁美は思う。
そう言うのを【承認欲求】というのだそうだ。もっと人の注意を引きたい、大勢に注目されたい。そのために車道の真ん中に座りこんで写真を撮るなんていう、危険な行為に及ぶ人もいると聞く。
確かに綺麗な景色の写真や、可愛いお菓子の写真は見ていて和むけれど。
そして時には、どうやって撮影したのだろう? と驚くような動画もある。
見ているのは楽しい。
けれど。
「【いいね】のために迷惑行為がエスカレートして、そのうち捜査1課の出番がやってきたりしてね」
冗談のつもりで郁美が言うと、
「まさか……」
と、結衣は心配そうな顔をする。
「わかんないわよ。殺人事件なんて、何が因果で起きるかわからないんだから」
自分が満足なら、他人の気持ちなんてどうでもいい。そう言う傍若無人な人間はいくらでもいるし、無意識の内に敵を増やしていることにも気付いていないケースが多い。
実際、少し前にまた再熱していた、飲食店でのアルバイト社員の悪ふざけ動画がきっかけで大損害を被り、閉店に追い込まれた店だってあるのだから。
「確かに……ないとは、言い切れないわよね」
「冗談じゃないわよ。あんた達が忙しくなると、こっちはもっと忙しいんですからね」
そうこうしている内に順番がやってきた。
「モンブラン2つください」
友人の注文を聞いて、郁美はビックリした。
「え、結衣。あんた1人で2つも食べるの?!」
「違うわよ!! 1個は真尋さんの……彼の分」
聞かなきゃ良かった。後悔しながら郁美は、ふと古川にも買って行ってやろうかと考えたが……即却下した。
奴に買って帰るとなると、他の同僚にも買って帰らなければ変に思われる。
そしてそんな気前の良さを郁美は持ち合わせていない。が、1つくださいと注文すると『一緒に食べる相手もいない寂しい女』だと思われるかもしれない。
「……私も、2つください」
※※※※※※※※※
これから県警本部に行かなければならない。
しばらくほったらかしだったHRTの方も、たまには様子を見ないと。
それにしても。先ほど、和泉と長野課長の声が聞こえたが、何かこの近くであったのだろうか?
北条が駐車場に向かって歩いていると、曲がり角でちょうど富士原に出くわした。
「おや、警視。お出かけですか?」
身長差およそ20センチ。低い位置からこちらを見上げてくる彼の瞳には、何かしら邪悪な光が宿っているようにしか見えない。
「ええ、本部にね」
「それはそれは、御苦労さまです」
「ああ、そうだ。言っておくけど……」
何ですかいなと、慇懃無礼な態度で富士原は問いかけてくる。
「あんたのポリシーや教育理念なんて興味はないし、批判するつもりもないけど……特定の学生だけに虐待するような真似をしたら、タダじゃすまさないから」
「何のことでしょう? わしゃ、特定の学生を特別扱いしたりはしていませんけどね。あなたと違って……ねぇ? 北条警視」
北条は無言のまま相手に背を向けた。
絶対、いつか必ず追い出してやる。