30:年中『警察官募集』
道路標識に「坂」の地名を発見し、和泉は思わず鼻歌を歌ってしまった。
「随分と嬉しそうですね、和泉さん?」
守警部はやや引いている様子だ。
「ええ、だって警察学校ですよ?! 僕の可愛いステディがいるんですよ!!」
「教官で、ですか?」
「いえ、学生です」
「へぇ……となると、かなり年下の彼女なんですね」
「年下の彼氏です」
「……え?」
「いっちゃん、このバカの言うことなんて聞き流した方がええで? そもそも彰の片想いなんじゃけん」
「そうなんですか……」
「うるさいっ!! ちゃんと周君も僕のこと『好き』って言ってくれたんだからな?!」
「お姉さんと同じぐらいじゃろ~?」
「なんでそれを……!?」
はっ!!
語るに落ちてしまった。
車内にしばらく気まずい空気が流れ、そうして目的地付近に到着した。
予め調べておいたところ、その退職した大宮という女性の実家は【おおみや】という屋号で営業している居酒屋であった。
夜のみの営業のようだが、自宅兼店舗のようなので、在宅していれば話も聞けるだろう。
店の駐車場がないため、すぐ近くにあったスーパーに車を停めて歩くことにする。
「ばったり周君に会えないかな~?」
万に一つの可能性もないのだが、和泉はつい願望を口に出した。
「そう言えば僕の同期が今、教官をやっているんですが……」
守警部が言う。
「え~、羨ましい……代わって欲しいなぁ」
「いや……大変でしょうね。学生の方は……」
「どういう意味です?」
「まぁ、ほら。いろいろと……」
謎めいた、お茶を濁した言い方を残し彼は、店を探して歩きだす。
和泉は急に周のことが心配になってきた。
※※※※※※※※※
午後一の授業は警備実施訓練。
授業内容は主に声出し、楯操法を覚えることと、楯を携行しながらのランニング。あの重たいジュラルミンを持って走れというのだから、実に過酷な授業である。
30分間楯を構えてずっと待機など、忍耐力を要する訓練もある。
しかもやってくる講師は機動隊から派遣されてくる、鬼軍曹と名高い教官である。
緊張を強いられる授業ではあるが、だいぶ準備に慣れた周は手早くプロテクターと防護ベストを見に着けた。
着替えている間、周は倉橋の姿を探した。
いつもなら当たり前みたいにすぐ傍にいて、少しでも緊張を紛らわせるために雑談を交わすのが常なのに、彼は少し離れた場所で着替えている。ロッカーはすぐ近くなのに。
和泉に言われた通り話すチャンスを探したが、やはり避けられていることに変わりはない。
何か怒らせるようなことしたか、いくら考えてもわからない。
やめよう。
とにかく今は、目の前のことに集中しないと。
周は走ることは決して苦手ではないが、楯を持ってとなると話が変わってくる。初めの頃は皆、楯を落としてしまったり、指示が出るよりも前に動いてしまって、教官に怒鳴られたりもした。
今はだいぶ慣れたのか、動作も比較的一律に揃いだした。
あの上村でさえ遅れがちではあるが、何とかついていっている。ちなみに今日は教官の機嫌がいいのか、それとも文句のつけようがないのかわからないが、まだ注意されることはない。
授業のラストはランニング。
ふと、周の視界に亘理玲子の姿が映った。
何かと災難と呼んでいい事態が降りかかっている彼女だが、今は表情が明るい。だいぶ前に聞いたことがある。走ることが好きなのだ、と。
良かったな、と思って視線の位置を変えた時だった。
グラウンドの端にはフェンスがあり、年中【警】【察】【官】【募】【集】の看板が一文字ずつ貼りつけられているのだが、その隙間から、見てはいけないものを見たような気がした。
ひょっとして今、和泉が歩いていなかったか……?
気のせいだ、気のせい。
俺は何も見なかった、気がつかなかった。
※※※※※※※※※
「あ~あ……さすがに警備訓練の最中じゃなぁ……」
目指す居酒屋を探して歩いている途中のこと。学校の傍を通りかかった和泉は、周がグラウンドにいるのを発見した。
本当は手旗信号でも送りたかったのだが、彼の注意を逸らしてしまえば、教官に叱られてしまうだろう。そんなことはできないので我慢した。
「警備訓練と言えば、とある伝説を思い出しましたよ」
と、守警部。
「伝説?」
「何年か前に、すごい学生がいたって。あの重い楯を3枚同時に持った上で、背中に2人をおんぶして走ったとか……」
それは間違いなくあの人だ。
店に到着した。シャッターが降りているので、裏口に回ってみる。
玄関にはドアチャイムがあった。
チャイムを鳴らそうと指を伸ばしかけた和泉の足元に、ふわりと柔らかい感触がまとわりつく。何かと思って下を見ると、赤い首輪をつけた黒猫が、金色の双眸でこちらを見つめている。
可愛い。
和泉がしゃがんで頭を撫でようとすると、黒猫は縁側の方に走っていき、爪で網戸を引っ掻き始めた。
「こりゃ、クロ。網戸を引っ掻くなちゅうて……」
掃き出し窓が開き、姿を現したのは中年の男性だった。ほぼスキンヘッドで、わずかに残っている髪は全て白髪。
「失礼ですが、大宮桃子さんのお父様……でいらっしゃいますか?」
和泉が声をかけると、
「……なんじゃ?」途端に警戒の目で見られる。
「我々、警察の者です。お嬢さん……」
と、言いかけて思い留まった。話に聞いた大宮桃子と言う女性は、まだ30歳だったはずだ。
その父親となれば5、60代ぐらいだろうが、目の前にいる男性はもっと年齢を重ねているように見える。
「娘なら、おらんよ」
「お仕事か何かですか?」
男性は黒猫を抱えると、
「もう、生きとらん」
「なぜです……?」
「そんなん、ワシが知りたいぐらいじゃ」
和泉は思わず長野と守警部の顔を見た。
しかし、この老人が嘘をついているという可能性も否定しきれない。
「わしゃこの町で長い間、真面目に商売しとる。警察の世話になるようなことなんて何一つしとらんのじゃ。それは娘だって同じこと。決して人様に迷惑をかけず、人様のものを欲しがらず、身の丈に合った生活をせえ……と」
「あの……」
御堂久美さんをご存知ですか、と訊きかけたが、老人は猫を抱いて中に入り、ぴしゃりと窓を閉めてしまった。
「……すぐに調べてみます」
刑事達は一旦そこを離れ、大通りに出た。
守警部はタブレットを取り出し、しばらくの間、黙りこんだ。
「申し訳ありません、下調べが不足していて。確かに大宮桃子さんは亡くなっています。今年の夏ごろのことですね……あ」
「どうかしましたか?」
「自殺した現場は帝釈峡……神龍湖の見える場所で、服毒自殺しています」
「自殺で間違いないんですね?」
「ええ、遺書もあったようです」
長野はしばらく黙っていたが、
「そうなると……ますます、御堂久美の方は他殺のセンが濃くなってきたのぅ」
和泉は返事をしないでおいたが、実は胸の内で同意していた。
婚約者を略奪されたという話が本当なら、なおかつ奪われた方の女性が自殺していたとなれば、動機を持つ人間として最も疑わしいのは先ほどの遺族男性……。
「夜になったらまた来ましょう。お店が開くでしょうから、客としてこっそり様子を伺うのはどうです? 何しろ、令状のない非公式な捜査ですからね」
和泉が言うと、
「そうしましょう。では、一度本部に戻って……」
「わしも~」
「じゃあ、僕はさりげなく警察学校に潜り込んで、可愛い周君の様子を見てくると……いてーっ!! 何しやがるっ?!」
「アホ!! 聡ちゃんがおらん今、誰が捜査1課強行犯係第1班をまとめるんじゃ?!」
「そ、それは……」
一瞬だけ悩んだが、
「お前だろうが?! 仮にも課長の肩書き持ってるくせに!!」
「真面目にデスクワークせぇや!! いつも提出が遅いって聡ちゃんが嘆いとるんじゃけんな?!」
「う……って、それは友永さんの話だろっ?! 僕は一度だって期限を破ったことなんかないからな?!」
「しーらないっと」
ぎゃいぎゃい!!
この人達、面倒くさい……。
守一警部は心からそう思った。
こんなのと毎日顔を合わせていられる高岡警部と言う人はきっと、ものすごく器の大きい人かあるいは……どこまでも鈍感のどちらかだろうか。自分なら早々に異動願いを出していたに違いない。
聞こえてもいいや、と思って守警部は遠慮なく溜め息をついた。
「へっくしょん!!」
「あら、お父さん。寒いの?」