29:長女と孫と子猫に癒しを求める回
長女の自宅は尾道駅の北側、千光寺方面にある。駅から歩いて3分ほど。娘の婿が経営する会計事務所の看板が目印だ。
留守を覚悟で玄関チャイムを鳴らす。
「はーい」
声がして、孫を腕に抱いた娘がサンダルを履いて出てきた。
「……お父さん……?!」
「急にすまない。ちょっと顔を見たくなってな……」
聡介は持参した土産を手渡そうとしたが、急に泣き出しそうな顔を見せる娘に驚き、固まってしまった。
「……会いたかったの……私が、そっちに行こうかって思ってた……」
複雑な表情を見せ、涙ながらに語る彼女を見ていてすぐに悟った。
「もしかして、お祖母さん……か?」
聡介がかつて義母と呼んでいた女性は、当然だが娘にとっては祖母に当たる。
娘は、さくらはこくんと頷く。
「急に訪ねてこられて……なんだか、よくわからないことで責められて……」
おそらく元義母は、先日、自分に言ったのと同じ台詞を彼女にも吐いたのだろう。
娘には何の関係ない。
勘違いするな。
そう、今は姿の見えない相手に向かって叫びたい気分だった。
「あ、私ったら……中に入って、お父さん」
若い頃から、学生時代から少しも変わっていない。
辛いのに無理をして笑顔を作り、手を差し伸べる彼女を見ていると、胸が痛んだ。
「……優作は?」
「今日は、少し遠くへ出かけてるわ。たぶん夕方には戻ると思うけど」
お茶を淹れている長女の背中を見守りながら聡介は孫を腕に抱く。1歳と半年以上は経過する幼子は、ずいぶんと物静かだ。さっき電車の中で見た子供とは大違いである。
持参した籠の中の子猫に気付いて、彼はパッと顔を輝かせたが、今の内は少し遠くから様子を見る感じのようだ。
このまま娘に似た大人しい子に育ってくれればいいが。
顔は母親そっくりだが、中身は父親そっくりな子に育ったりしたら、もはや目も当てられない。
「伊織、猫……触りたいか?」
まだあまり話せないようだが、言われていることは理解できるらしい。
こくこくと孫は頷く。
聡介がキャリーバッグのフタを開けると、子猫はうろちょろ、周囲の匂いを嗅ぎまわる。
孫はと言えば、おっかなびっくりといった様子で小動物の動きを眺めている。
見知らぬ場所に連れて来られたせいか、さばはぴょいっ、とバッグの中に戻って丸まってしまった。
「お前は人見知りなのか、そうでもないのか……わからんな」
聡介が子猫をつかんで抱き上げ、孫の鼻先に猫を近付けると、お互いに驚いたようだ。
「……ふぇっ……うわぁあ~んっ!!」
……失敗した……。
※※※
「……すまん、さくら……」
娘は笑いながら、
「気にしないで。それにしてもお父さん、猫を飼い始めたなんてびっくりしたわ」
紅茶とお手製のケーキをテーブルに置き、さくらはダイニングの椅子に腰かける。
お父さんのためにお砂糖控え目よ、と言われて感動してしまう。
「成り行きでな……」
可愛い、と娘は目を細めて猫を見つめる。
さばは拾ってきた時と同じく、家具の後ろに隠れてじっとしている。
泣きやんだ孫の方は、母親の腕に抱かれて眠っている。
「それで、さくら……おば……山西さんはいつ、何て?」
もう、親戚でも何でもない。
お祖母さんとか、伯父さんとか。
そう言った類の単語は使うまい。
聡介は努めて意識してそう訊ねた。
「一昨日かしら。急に訪ねて来られて、黒い枠のある不吉な葉書を送ってきたでしょうって、突然詰め寄られて……何が何だか」
さくらは困惑している。
「現物を見せられたか?」
「ええ、なんだか隅っこに可愛らしい黒猫のイラストみたいなのが……」
同じものだ。自分が見せられたものと。
それからさくらは溜め息をつく。
「今になって……って、あの方は仰っていたけど。本当に今になって、だわ。私なんてもう、あの人のことなんか何十年も忘れているのに」
長女の言う【あの人】とは彼女の母親であり、聡介の元妻だ。
彼女は絶対に奈津子(元妻)のことを【お母さん】とは呼ばない。初めの頃はそれでもなんとか宥めて『お母さん』と呼ぶように言っていたのだが、今はもうあきらめている。
彼女の気持ちがわかるだけに、無理強いもできなかった。
「私、あんな人のこと、1日だって考えたこともないわ」
「さくら……」
「ごめんなさい、私ったら……」
さくらは苦笑いする。
決して表には出さない様々な葛藤が、きっと彼女の中にはあるに違いない。
察することしかできない自分が歯がゆく思えて、聡介はテーブルの上で拳を握った。
「そんなことより。お父さん、猫ちゃんに触っても大丈夫?」
そう言って娘は立ち上がる。
「ああ、もちろん」
「猫ちゃん、お名前はなんて言うの?」
娘は子猫が隠れている家具に近づいていく。
模様が鯖だから「さば」にした、なんて。恐らく娘は何も言わないだろうが、義理の息子の方は何を言うかわからない。
すると。
さばは急に家具の裏から飛び出し、聡介めがけて真っ直ぐに走ってくる。膝に飛び乗ろうとしたが、ジャンプ力が足りなかったようだ。脛に爪を立ててくる。
けっこう痛い。
「あら、お父さんの方がいいみたいね?」
聡介は猫を抱き上げて苦笑した。
「それで、名前はもう決めたの?」
「……さば、にした」
案の定、娘は何も言わなかった。
が、その表情からしてなんとなく、もっと他になかったのかと問われているような気がしてならなかった。
「そうだわ、お父さんに聞きたいことがあったの」
話題を変えようと思ったのか、急にさくらが言いだした。
「近所の人から相談を受けてて」
「相談?」
「ここから数百メートルほど福山方面に行ったところかしら。その家に小学3年生になる息子さんがいるらしいんだけど、どうも、学校でイジメにあっているみたいなのよ……」
小学生か。だとすれば靴を隠されたとか、机の上に落書きをされたとか、そんなところだろうか。
突然、さばがニャア、と鳴く。
何を訴えているのか?
皆目見当もつかない。
さっきリョウに聞いた話の中に、ヒントはなかっただろうか?
特に用事はなかったらしい。
子猫は聡介の膝の上で丸まって眼を閉じた。
それでね、と娘は続ける。
「警察に相談しようかどうしようかって……どこかでうちのお父さんのことを聞いたみたいで、一度会わせてくれないかって……」
「……そうか……」
猫が大きな欠伸をする。
学校内での問題に警察が介入するとなると、暴力行為が実際にあったとハッキリわかる証拠、痕跡が必須である。基本的には民事不介入といって、目に見える損害がない以上は踏み入ることができない。子供同士が他愛なくふざけていただけ、と言われてしまえば何もできない。
「……そうだ、それに……」
「それに?」
「そのいじめっ子の親御さんがね、教育委員会に名前を連ねている人らしいの。さらに言うならどうも……山西の家の関係者みたいで。だから担任の先生も強く言えない、みたいなことを仰ってたわ」
そうだ。元義母である山西信子の実家は教育者一族だった。
彼女自身、教育委員会に太いパイプを持っている。
「……まさか、あの葉書は……」
途端に、嫌な予感が胸に広がった。
『私はお前達がしたことを決して忘れない。必ず復讐する。同じ苦しみを味わえ』
それは過去の出来事を暗示しているのではなく、現在進行形の話なのではないか?
「え……?」
「いや、何でもない。紅茶のお代りをもらえないか?」
今はまだ、詳しいことは言えない。
話せばきっと余計な心配をかけてしまうだろう。
そんなことよりも。
その後しばらくは娘と、他愛のない近況や雑談を交わした。
走り回る子猫と、その姿をじっと見守る孫。
他愛のないそんな光景を眺めていると、いつしかささくれ立った気持ちが和らいでいく。
今の自分に必要だったのは、こんな緩やかな時間なのかもしれない。
聡介は再び膝の上にジャンプしてきた子猫を撫でながら、久しぶりに心から笑えている自分に気がついた。