28:車内マナーの向上にご協力ください
「自営業って、具体的にどんな仕事をしているんだ?」
聡介はリョウに訊ねた。
「うーん、簡単に言えば【便利屋】かな」
「便利屋……?」
「メインはお掃除なんだけど、庭木の手入れや畑仕事とか、引越しの手伝いとかね。ほら、今1人暮らしの年配者が多いでしょ? 足腰が悪くて動けないとか、そう言う人のために買い物に行ったりもするし、頼まれたら電気の取り換えだって、犬の散歩だってするよ。もちろん、お値段は良心的価格だからね?」
今の時代、そういう仕事なら確実に需要は多いだろう。
時代のニーズを上手く読んでいるというか、なかなか賢い。
「そうか……えらいな。それなら、お客さんに喜ばれるだろう?」
「うん。ありがとうって言われると、やっぱり嬉しいよね」
リョウは微笑む。
少し吊り気味の目が細められると、猫が笑っているように見えた。
それから話題は猫のことにうつった。
リョウは相当な猫好きのようで、いろいろなことを教えてくれた。聡介は猫を飼う方法についての本でも買おうかと思っていたのだが、彼のおかげで不要になりそうだ。
「ところでねぇ、おじさん。この子に首輪つけないの?」
そういえば、考えもしなかった。やはり必要だろうか?
「つけた方がいいんだろうか……?」
「絶対につけた方がいいよ? 猫ちゃんによっては、嫌がる子もいるから無理強いはできないけど……例えば迷子になった時なんて、首輪に住所と名前を書いておいたら安心だからね」
ああ、そうだ。
災害の多いこの国で、飼っていた動物が行方不明になって悲しんでいると言う話はよく聞く。
たとえペットであろうと大切な家族には違いないのだ。
「そうだ!!」
青年はカバンに手を突っ込み、
「これ、猫ちゃんに着けてあげて」
と、赤い首輪を取り出した。
「ついこないだ、迷子の猫ちゃんを探して欲しいって頼まれてね。無事に見つけたんだけど、今度は身元がわかるように首輪をつけようとしたら、ひどく嫌がっちゃって。それで結局、無駄になっちゃったんだ。僕だっていらないんだけど……なんか押しつけられて」
「いや、しかし……既に名前や住所が書いてあるんだろう?」
聡介はやや戸惑っていた。値段がいくらぐらいするのかわからないが、見ず知らずの人間に物をもらうのには躊躇いがある。
「問題ないよ、もう情報は消しておいたから。ほら、今って個人情報がどうとか……ものすごくうるさいじゃない?」
確かに。
「猫ちゃん、これ首につける?」
リョウがさばに話しかける。すると驚いたことに、にゃあと返事があった。
まさか……。
「だって、おじさん。はいこれ」
何となく受け取ってしまった。
いいのだろうか……?
それから電車が河内駅に着いた時。
連結部分の扉が開いたかと思うと、子供の黄色い声が車内に響き渡った。
ドタドタと足音を鳴らしつつ、奇声と共に、およそ3、4歳の男の子が聡介たちの近くに走って来る。
子供は通りがかり、キャリーバッグに猫が入っているのを見るや否や、
「にゃんにゃん!!」
耳をつんざくような叫び声で指をさした。
聡介は思わず手で耳を塞いだ。
さばはすっかり怯え、バッグの隅で震えている。つい先ほどリョウから、猫の聴覚は人間の約8倍で、大きな音が苦手だと聞いたばかりだ。かわいそうに。
保護者は、親はどこにいる?
聡介はあたりを見回したが、それらしい人物はいない。
子供はにゃんにゃん、にゃんにゃん、と騒ぎながら地団駄を踏み始める。触らせろ、と訴えているのだろうか?
「あの~、すいません」
どうしたものかと悩んでいたところに、知らない女性が聡介に声をかけてきた。
化粧が濃く、派手な格好の若い女性。
「猫、カゴから出してもらっていいですか? この子と一緒に写真撮るんで」
「……え?」
聡介としては外国語で話しかけれた気分だ。
「ウチ~、エンスタ女子なんですぅ」
エンスト? この女性が車に乗ると、必ずエンジンが停まるというのか?
だから電車に乗っているのか?
「ほらぁ、電車の中で子供と猫のツーショットってそうそうあるシチュエーションじゃないでしょう? 絶対バスること間違いないっしょ!!」
最早何を言っているのか理解できない。
頭の上にたくさんの「?」マークを飛ばし、聡介が呆気に取られていると、女性は手を伸ばして勝手にキャリーバッグのフタを開けようとした。
「ダメですよ」
やんわりと、かつ毅然と。
ヒジキでもくっつけているのかという、太いまつ毛の下に覆われた女性の目を真っ直ぐに見つめて聡介は答える。
「ここは公共の場所です」
それだけでこちらの意志は通じると思っていた。
ところが女性の返答は、
「……なにそれ?」
驚いた。
「……猫がもし、車内を走り回ったりしたら迷惑でしょう? 乗客の中には猫が苦手な方や、アレルギーの人もいるかもしれません」
「そんなの関係ないじゃん!! いいから、早くこの子に猫を抱かせてよ!!」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことか。
聡介はキャリーバッグを胸元に抱えた。
「お断りします」
「それなりにお礼はするからさ、お願い!!」
返事をしないでおく。
相変わらず子供はギャアギャアと騒ぎ、うるさいことこの上ない。
すると。車内に他の乗客がほどんといないことをいいことに、女性は罵声を浴びせかけてきた。
一応、見た目は性別【女】だが……なんだその言葉遣いは。
「……うるさいなぁ」
ややあって、面倒くさそうにそう言ったのはリョウだった。
「オバさん、日本語がわからないの? このおじさんはダメだって言ってんだよ」
「あたしはオバさんじゃないっ!!」
「じゃあ、バアさんだ。耳が遠くて聞こえなくなったんだね。かわいそうに」
和泉じゃあるまいし、そこまで言わなくても……。
聡介は焦りを覚えた。
息子なら頭を叩いて終わりだが、他人ではそうもいかない。
「てめぇ、ふざけんなっ!!」
女性の怒鳴り声に子供が一層、大きな声で泣き喚く。空いている車内とはいえ、騒ぎを聞きつけた人が、他の車両から集まってくる。
降りたくなってきた。
するとその時、電車が本郷駅に到着した。
「このまま、タダじゃ済ませないからな!!」
女性はそう捨て台詞を残し、子供の手を引っ張って下りて行く。
「……なんだったんだ……今のは?」
聡介は深く溜め息をついき、さばが具合を悪くしていないかと、バッグの中を覗き込む。
先ほど怯えて震えていた猫は、今は目を閉じて丸まっている。
「うるさくしてごめんな? さば」
伝わっているかどうかわからないが、とりあえずそう言っておいた。
「今の、あれだね。エンスタ女子ってやつ」
車窓から遠ざかる駅のホームを見つめつつ、リョウが呟く。
「エンスタ女子ってなんなんだ?」
「おじさん、ネットとかやらないの?」
「……まぁ、仕事で使わざるをえないんだが、どうにも苦手で……」
「綺麗な景色とか、可愛い動物の写真とかをSNSにアップすると【いいね】がもらえるでしょ? わかる? 僕の言ってること」
SNSのなんたるかぐらいは、聡介だって知っている。近年、それにまつわるトラブルや事件が多発しているためだ。
「少しは……」
「食べ物屋さんでさ、やたらに料理の写真撮ってる女、見たことない?」
ある。
冷めないうちに食べないと美味しくないだろうに、と何度か思ったことがある。
「ああいうのがエンスタ女子。さっきのオバさんみたいに、一部のユーザーは節度がなくて、評判悪いんだよね」
「そうなのか……」
それからリョウはバッグの中の猫に微笑みかける。
「いいご主人様に巡り合えたね、猫ちゃん。このオジさんは君のことをちゃんと守って、大切にしてくれるよ?」
こちらの呼び掛けには返事もしないくせに、彼が話しかけると「にゃあ」と返事をするさば……は、人を見ているのだろうか?
まさか、な。
そうして気がついたら尾道へ到着した。
「じゃあね、おじさん、猫ちゃん」
リョウは電車を降りると手を振って改札をくぐって行く。
不思議な縁を感じつつ、聡介も駅を出た。