24:あんたは間違ってる
あの富士原と言う教官については、周も噂で知っていた。
昨日の夜、風呂場で。隣の教場の学生同士の会話が聞こえてきたからだ。
『新しく来た富士原って教官、かなりヤバいぞ』
『ああ、そうみたいだな……』
『俺が知ってるだけでも、もう数人は殴られてるぜ。靴紐がゆるんでるだの、ボタンが取れかかってるだの、ほとんど言いがかりみたいな難癖つけて即ビンタ、だ』
『女子でも容赦ないんだってな?』
『そうそう……』
前にいた武術専任の教官は厳しかったけれど、一度だけ八つ当たりされたことがあるけれど、決して理不尽な暴力を振るうような真似はしなかったと思う。
2人の会話を聞いていた周は、倉橋がすっかり落ち込んで元気を失くした理由を改めて知った。彼もつい昨日、その富士原教官に言いがかりのような理由で殴られたと聞いた。
今は誰にもかまってほしくない。
そんな気分なのだろか。だとしたら、時間が経過すれば元に戻るだろうか。
それ以外に考えられない。
大切な友人が自分を避けるようになった理由は。
まわりの学生達が次々と立ち上がっているのを見て、周は時計を確認した。
上村も黙って片付けを始めている。
本当はもっと彼といわゆる『姉談義』をしたかったのだが時間がない。
食器を返却し、次の授業に備える。
1時間目の授業が終わったら次は柔道の時間だ。
逮捕術も憂鬱だが、こっちはもっと気が重い。
更衣室で道着を着替えている間、同じ教場の仲間達は全員、誰も一言も口を聞かなかった。
あの富士原に何を言われるのか、何のことで叱られるのか。
皆が怯えている。
余計なお世話かもしれないが周は上村のことがひどく気になった。ただでさえ細くて頼りない彼が、怪我でもさせられないかと……。
その時だった。
「おい、大丈夫か?!」
ガタン、と誰かが倒れたような音がした。
ロッカーに縋るようにして座りこんでいたのは先ほど、徽章を裏返しに着けていた、同じ教場の男子学生だ。
「大丈夫か?!」
周は急いで彼に駆け寄った。
額に大粒の汗が浮かんでいる。血の気を失って、顔が真っ白だ。
「つかまれ」
「……いいから、俺のことは放って……遅刻するぞ……?」
「放っとけるか!!」
「遅刻、したら……どんな目に遭わされるか……」
「今週は保健委員だ」
周は教場仲間に肩を貸して、医務室へと向かった。
その途中、
「昨夜……秘かに試験勉強してたら、遅くなって……寝坊しかけたんだ」
彼は話し出した。
「慌てて服を着替えたら、あのザマだ。運がなかったってことだろうな」
その話を疑う理由はない。ということは、あの教官はこちらの言い分になど一切耳を貸さず、表面に見えることだけで白黒判断するということだ。
それを【運】というのなら。
「怖くなったんだよ。ついさっき、あんなことがあって……その後にあの教官の授業だろ? ほんと、情けないよな」
「間違ってる」
「……え?」
「目に見えることだけが、すべてじゃない。あの教官がおかしいんだ」
教場仲間を医務室に送り届ける。
それから周は大急いで道場に向かったが、既に授業は始まっていた。
「遅れて申し訳ありません!!」
周は深く頭を下げた。
富士原がツカツカとこちらに歩いて来るのがわかる。
心臓がドクドクと早鐘を打っているのは、走って来たのと緊張のせいもあるだろう。
背中を汗が流れる。
「実は……」
医務室へ運んだ男子学生のことを言おうと、周が口を開きかけた時だ。
頬に強い衝撃を受けた。
富士原に殴られたのだと気付いた次の瞬間、周は畳の上に背中をつけていた。
視界の端に淵の濃い緑色が映る。
起き上がらないと。
頭がクラクラするが、どうにか立ち上がる。
「ワシの授業に遅れてくるなんて、ええ度胸しとるのぅ?」
「……仲間が……」
「言い訳はいらん!!」
今度は胸ぐらをつかまれる。
「お言葉ですが、教官」
富士原の背後から口を挟んだのは、上村だった。
「取調べにおいて、どんな被疑者にだって自らの供述を許されるはずです。彼の言い分を最後まで聞かずに【言い訳】だと断定するのは、司法をつかさどる者としていかがなものでしょうか?」
咄嗟にそう言う台詞が出てくるあたり、やはり彼は頭がいいのだな、とぼんやりする頭で周は考えた。
「……ええじゃろう、一応聞いてやろう。なんで遅刻した?」
「体調不良の仲間がいたので、医務室へ……連れて行きました」
「ああ? 体調管理もロクにできん奴に、足を引っ張られて遅刻しましたなんて、そんな理由が通用すると思うんか?!」
結局、この教官は上村の言ったことを何一つ理解していないのだと周は悟った。
侮蔑の気持ちがうっすらと湧きあがる。
「のぅ、お前……上村じゃったかのぅ?」
富士原は今度は上村を振り返った。
「あんなくだらん理由がお前の言う【供述】か?」
ロープを何本も撚り合わせたかのような教官の太い腕は、彼の細い肩をつかんで揺すっていた。
「お前……頭が悪いんか? 他人の世話を焼く前に、遅刻せずに授業に出席する方法を考える方がよっぽど大切じゃろ? のぅ、そう思わんか」
相当痛いのだろう。上村は段々と顔色が悪くなり、額に汗をかきはじめた。
「ふん、女みたいな顔しやがって。おまけに何じゃ、この細っこい身体は。ほんまに男か? ちゃんとついとるもん、ついとるんか?!」
クスクスと誰かが笑いだしたのをきっかけに、日頃彼のことを快く思っていない学生達の間に、嘲笑が伝染する。
そのことに気を良くしたのか、
「どれ……確認してみるかのぅ」
富士原は上村の下腹部に手を伸ばそうとする。
上村は身を捩って逃がれようとしたが、敵う相手ではない。
たまらず周は走り寄っていき、富士原の腕をつかんだ……つもりだった。
グローブみたいに大きくて固い。そして重い。
掴んだというよりも【触れた】という表現の方が正しいだろう。
「やめてください!!」
昨夜、呑み過ぎたのだろうか。
腫れぼったい瞼の下に隠れた小さな眼がギラリとこちらを睨む。
でも周は怯まなかった。
「人の身体的特徴や容姿をネタにして笑うのは、最て……絶対に間違っています!!」
最低、と言いかけて留まった。
道場の中が静まり返る。
それでも周は決して、自分が間違っているとは思っていない。
その時だった。
道場の入り口から見覚えのある顔が、紺色の制服姿で入って来たのは。
「つまらないことはやめなさい」
「しかしですねぇ、北条警視……」
「黙れって言ってるのよ」
この人が凄んでみせると、まさに泣く子も黙るであろう。
富士原は苦々しい顔で上村から手を離す。
「少し授業を見学させてもらうけど、かまわないかしら?」
返事を待たずに北条は上着を脱ぐ。
「気になったら、口も手も出すけど」
担当教官のおかげでその時間は、それ以上の騒動が起きることはなかった。
※※※
遅刻したことと、授業の進行を妨げたというもっともらしい理由で、周と上村は道場の掃除を命じられた。
「ありがとな、上村」
そんな訳で更衣室には今、2人だけだ。周は彼に礼を言った。
返事はない。
「……大丈夫か?」
上村は青い顔をしている。
外見のことで揶揄されたのがよほど堪えたのか、それとも単純に暴力に怯えているのか。
そしてふと思い出す。
自分も以前、彼に向かって『女みたいな綺麗な顔』と、からかったことがあることを。
「もしかして随分前のこと、怒ってるのか? そりゃ、俺があんなことを言う資格はないかもしれないけど……」
すぐに通じたらしい。
「……君はすぐに謝罪した。だから、もう怒ってはいない」
覚えていたのか。
「それより、急いだ方がいい。もうこんな時間だ」
上村は走りだす。
周もそれを追いかけた。