21:昨日の約束
本日の業務は終了。
北条は当直の教官に挨拶をしてから、雨宮冴子と一緒に学校を出た。
今日は彼女と飲みにいく約束をしていた。
冴子が案内してくれた店は『おおみや』と看板の出た、個人経営の、いかにも地元密着型といった感じのこじんまりした居酒屋である。学校から歩いて5分ほどの場所だった。
赤提燈を横目に暖簾をくぐる。店内は半分ほどが既に埋まっていた。
「おじさんこんばんは!! ねぇ、2人座れる?!」
「いらっしゃい……って」
カウンターの向こうにはスキンヘッドにタオルで鉢巻を巻いた男性が、笑顔で出迎えてくれる。
年齢は50代ぐらいだろうか。
何かスポーツでもしていたのだろうか。身体が大きく腕も太く、逞しい体つきをしている。
「よぉ、冴ちゃんじゃないか。久しぶりだね!!」
彼女は店の主人と顔見知りのようだった。
「久しぶり!! 実は私ね、今月からこっちに戻ってきたんだ」
「へぇ~、またあの警察署かい?」
ここから最寄りの警察署と言えば、海田北署だろうか。
「違うちがう、今度は警察学校の教官なのよ」
「ふーん。ああ、すぐそこにある!! 今度は学校の先生か……って、あれ?!」
店の主人は北条を見ると、
「おお、新しく、いい人を捕まえたんか?」
「違うわよぉ~、この人は同僚。ま、大学時代からの友達でもあるんだけどね」
どうやら店主はかなり冴子の事情を知っているようだ。
彼女のことだからきっと、仕事帰りにここに寄って、あれこれとしゃべっていたに違いない。
テーブル席に座っている客達は既にでき上がっていて、大きな声で騒いでいる。
常連客の多い店らしく、棚に所狭しと名札の貼ってあるボトルが並んでいた。
冴子はカウンター席の一番奥、空いている椅子に腰かけた。
北条がその隣に座ると、突然、足元にふわりと柔らかい毛玉のようなものがまとわりついた。下を見ると、赤い首輪をつけた黒い猫が座っていた。
にゃあ、と鳴いて黒猫は膝の上に飛び乗ってくる。
「この子、このお店の看板娘なのよ。ね~? そら」
冴子は愛おしそうに黒猫の頭を撫でた。
彼女は昔から猫が好きだった。時々、大学の敷地内に入り込んでくる猫を見かけると、禁止されているのにも関わらず餌を与えたりしていた。
「とりあえず生でいいわよね? あとは、適当におススメをお願い」
あいよ、と店主は応じてこちらに背を向けた。
「……で、どうだった? 第50期生達の印象は」
北条は猫の頭を撫でながら冴子に訊ねた。
看板娘だと言う黒猫はすっかり人に慣れている。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら目を閉じる小さな生き物を見つめていると、自然と心が和んだ。
冴子はおしぼりで手を拭きながら、
「まぁ、今のところはなんとも。いろいろ聞いてるわよ? 夏の頃に何かいろいろと大きな問題があったらしいじゃない。それも捜査1課が出てくるほどの……ね」
彼女の言う大きな問題、と言うのが学校の中で起きた様々な事件だというのは明白である。
ただ、この件はほとんどの情報が外部には伏せられているはずだ。
詳しいことを知っているのは当事者と、担当する教場の学生及び、幹部ぐらいだろう。
「部外者には一切、情報が漏れないようにしていたはずだけど」
北条は横目で冴子を睨んだ。
まさか学生の誰かがうっかり情報を漏らして、そこから伝わったとか?
「そこはほら、蛇の道は蛇ってやつ」
「……あんたまさか、違法な情報ネットワークを持ってるんじゃないでしょうね?」
まさかぁ、と笑ったまま冴子は前を向く。
生2つね、とカウンターに大ジョッキに入ったビールが置かれる。
「話を戻すわ」
「何の話だったかしら?」
「やだ、50期生の子達のことでしょ? そうねぇ、ま、印象に残った子は何人かいるわね。雪村君のお気に入りのあの子、藤江君だったかしら。確かにホープね」
「そうね」
「一言で済ませるなら『いい子』ね。ただ……それだけに心配だわ」
冴子はビールジョッキに口をつけ、一口飲んでから続ける。「あんなに真っ直ぐで純粋な子が、果たして濁ったこの組織で上手くやっていけるのか。あまりにも綺麗な水だと魚も住めないって言うじゃない」
「水清ければ魚棲まず、ってやつね……」
「そうそれ!! それに……たぶん」
「たぶん?」
「今まで、教場の中に皆から等しく嫌われてた子がいたでしょう?」
「ああ、確かにいたわ」
そいつも今は刑務所の中だが。
いろいろな犯罪者を見てきたが、あんなクズは初めてだ。
「その子がいなくなったことで、今度は別の人間がターゲットになるわ。閉鎖的な警察学校でずっと禁欲生活を送っていたら、間違いなくストレスが溜まる。その発散先を求めて、憎むべき相手を探す……ミスをして皆の足を引っ張る奴とかね。そうして次第に暴力行為へと発展する……それでも正しいことをしている、と信じて自分に酔うのよ」
お通しね、とヒジキの煮物が入った小鉢が出される。
「今日の逮捕術の授業の時、雪村君も見たでしょ?」
膝の上の黒猫はぴょい、と床の上に飛び降りると、店の入り口に向かって走って行く。
新しい客があらわれたようだ。
北条はジョッキのビールを一気に喉へ流し込み、
「……もしかして上村柚季のこと?」
「え? ああ、あの細っこい子ね……そうね、それもある」
いつものことだが、武術の授業になると反則技を使ってまで、上村に攻撃して行く学生がいる。こちらに気付かれていないと思っているのか、だいたいいつも同じ人間がそれを行う。
藤江周もそのことに気付いていて、よく彼を庇っている。
これもお決まりのパターンだ。
「あの子ってかなり頭がいいし、銃の扱いも優秀だわ。ただ、あの体型じゃ無理もないと思うけど、武術全般はさっぱりみたいね。それだけに、そっちが得意な学生は、チャンスとばかりにあの子を攻撃するのよ。言ってみればコンプレックスの裏返しってとこ」
冴子もビールを一気に飲み干し、
「まぁ、現場に出ればもっと過酷なパワハラが待っていることを、あの子たちも知ることになるんでしょうけど……」
ふと北条は、和泉が警察学校にいた頃はどうだったのだろう? と考えた。
彼は成績優秀だった。
それだけに、あの男が是非にとHRTに引っ張ってきたのだが。
彼もまた、同期生からの嫉妬を一身に浴びてきた方に違いない。
加えてあの性格だから、周囲と上手くやって行く能力は皆無だっただろう。恐らく孤立していたに違いない。
出会ったばかりの頃の和泉は、愛想の欠片もなく、挨拶以外の言葉を交わした記憶は少ない。
あの頃、彼はとにかく『尖って』いた。
外敵から身を守るハリネズミのように。
その点が上村と共通している。
ただ、彼と和泉が大きく異なるのは、藤江周の存在だろう。
なんだかんだとあの二人は仲良くしている。
親しい相手がいるといないのとでは大違いだ。
そういえば和泉は最近どうしているだろう?
まぁ、殺しても死ななそうだか。
「はい、こっちはサービスね!!」
どん、とテーブルの上に置かれたのは刺身の盛り合わせであった。
「え、おじさん。サービスって……」
「久しぶりの再会を祝って、お代はいらんよ」
「うわ~、おじさんありがとう!! 雪村君、食べよ?!」
冴子は嬉しそうに箸を取りつつ、梅酒のソーダ割り頂戴、と店主へ注文した。
「ところで冴子……」
「なぁに? あ、このエビおいしいわよ?」
次から次へと箸を動かしている彼女の横顔を見ていて、北条はふと気になったことを思い出した。
「あんた娘がいたわよね、確か。名前……何だったかしら?」
冴子は一瞬動きを止めたが、すぐに、差し出された梅酒のグラスを口に運ぶ。
「いたわよ、確かに。名前は円香」
「元気にしてるの?」
「……さぁ? 何年か前に独立してからちっとも連絡寄越さないから、元気なんでしょ」
随分とあっさりしている。
母娘のあり方も様々、と言ったところだろうか。
「今、いくつになるの?」
「……23よ。ねぇ、それより……」
あまり娘のことを話題にされたくなさそうだ。
北条はこの話を切り上げることにした。