20:父と息子の胸のうち
思えば昨日の夕方から今夜にかけて、最悪の一日だった。
帰宅した和泉は脱いだジャケットを怒りにまかせて、床の上に叩きつけた。
昨日は帝釈峡から帰ってきて、報告と相談をしようと近くに寄る前から、聡介はかなり様子がおかしかったように思う。
ボンヤリしているかと思えば、溜め息をついたり。
何があったのか知りたいと思うのは当然だろう。
それなのに。
『お前には関係ない』
あんなことを言われるとは思わなかった。
もちろん、聡介にだって踏み込まれたくない領域があるだろう。親しい父子だとお互いに思っていたとしても。
どこか体調でも悪いのかと、そう考えることにした。その時は。
あるいは長野と一緒に、その上、他の班の刑事と非公式の捜査に出かけたことで機嫌を悪くしていたのだろうか。
元々、他の班の人間と親しくするなというのがこの組織の暗黙の了解である。
だが聡介はそんなに器の小さい人間ではないはずだが。
基本的に一晩寝ると、嫌なことはすべて忘れられる父だから、今日はいつも通りだろうと和泉は楽観視していたのだが。
今日は一日、なるべく守警部とは接触しないようにし、通常業務を急いでこなした。
それでも様子は変わらなかった。
ふと和泉には思い当たることがあった。
ひょっとすると、聡介の元奥さんの絡んだ何かだろうか?
あの後、仲間から聞いた。部長から呼び出しがあって、帰ってきてからずっと様子がおかしかった、と。
でもあの件なら既に彼の中で決着がついていたように思う。だからこそ、自分に打ち明けてくれたのではなかっただろうか。ある程度は、だが。
当時、何があったのかすべては知らない。
もしかすると今になって、その件で誰かが何かを言ってきたのだろうか。
考えてみたがわからなかった。
結局、父は詳しいことを隠したまま何ひとつ胸の内を明かしてくれない。
ムシャクシャする気分で和泉が冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとした時、着信音が鳴り響いた。
ディプレイを確認して少し驚く。
思いがけないことに、周からだった。
最初の一声だけですぐにピンときた。
元気がない。
4月の入校から現在で半年以上が経過した。
いろいろなことに慣れ始めてきた頃だろう。そう言えば、教官達の顔ぶれも変わったと聞いている。
新しい指導者の中にはひょっとすると、彼にとって『敵』になりうる人物もいるかもしれない。
和泉が思うに、周のまわりを囲む人達は両極端なのだ。
彼のことを心から深く慕う者と、敵とみなし、どう頑張っても理解しあえない者と。
だから。
ただひたすら願うのは、周がどんな困難に遭っても心折れないでいてくれること。
都合がつけば今度の週末にでも会えないだろうか。
顔を見て、励ましの言葉でもかけてあげられたら。
と、思ったがこちらもいろいろと忙しくなりそうだと思ったその矢先である。
詳しいことはわからなかったが、どうやら親しくしている友人と行き違いがあったようだ。
警察学校は生涯を通じての友情を育む場所であり、かつ、いかにして他人を蹴落とすのかを学ぶ場所でもある。
友達でありライバルでもある。
競争心が妙な方向に作用して、諍いに発展することだってある。
警察学校のHPには『集団生活を通して仲間たちとの強い絆を育んでいくのです』などともっともらしく書いてあるが、人間、綺麗ごとだけでは生きて行けないのだ。
かく言う自分は、同期生と言えば日下部ぐらいしか覚えていない。
あとは誰がいたか、今どこでどうしているのか、さっぱりわからない。
和泉にとって当時まわりは敵だらけだった。
隙を見て足を引っ張ろうとする者、下心を抱いて卑屈に近づいてこようとする者。
後者はたいてい、座学でも優秀な成績を収めていた和泉のノートが目的だ。
ウンザリだった。
それでも周と話していると、初めに抱いた純粋な気持ちを思い出す。
紛れもない真っ当な【正義感】を抱いていたあの頃。
彼だけはいつまでも真っ直ぐな心でいて欲しい、そう願うばかりだ。
周との通話を終えて少し気分が軽くなったところで、和泉は風呂を入れに行った。1人だと風呂を入れるのが面倒なことが多く、ついシャワーで済ませがちになってしまうのだが、考えごとがしたくて今日は風呂に湯を張って浸かることにした。
支度をしていると再び、スマホが着信を知らせた。
すると、思いがけない人物からだった。
「……ビアンカさん?」
『あ、和泉さん? 高岡さんはもしかして今、お風呂とか?』
彼女は未だに自分達が一緒に暮らしていると思っているようだ。
「さぁ? 聡さんが風呂で寝て溺れていたとしても、僕の預かり知るところではありません」
『何言ってるのよ!!』
「……何か御用ですか?」
電話の向こうのビアンカは憤然とした様子で、
『何度も電話してるのに、ちっともつながらないんだもん。大事な話があるのに』
「愛の告白なら、今はやめた方がいいですよ?」
『な、な、な……何言ってるのよ、もうっ!! そんなんじゃなくて、今日のニュースを見て気になったことがあって……仕方ないから、和泉さんでもいいわ』
少し引っかかる部分もあったが、彼女が何を言おうとしているのか気にもなった。
「どのニュースですか?」
『ほら、帝釈峡で転落死したっていう女性の話。名前は出てなかったけど、もしかして今の私の職場の……同僚じゃないかって思って』
「……その、同僚の方のお名前は?」
『御堂久美』
ぞくり、と全身が粟立つのを和泉は感じた。
「ビアンカさん……明日、お仕事ですか?」
『私はシフト休よ。だから明日、高岡さんと会ってお話できたらな……って』
「残念ですが、僕とお会いしていただけませんか? それと出来れば、同じ職場の方にもお話を聞けるように手配してください」
和泉は彼女が何か言う前に電話を切って、すぐ守警部に連絡をした。
まさか被害者がビアンカの職場の同僚だったとは。
交友関係など、詳しいことが聞けると期待している。
果たしてどういう証言が飛び出してくることやら。
※※※※※※※※※
「……ただいま……」
誰にともなく言ってみる。
返事がないことに苦笑しつつ、聡介は靴を脱いだ。
廊下を歩いていると、昨日はタンスの影に隠れていた子猫がとことことこちらへ走り寄ってくる。そうして。足元にすりすりと身体を擦りつけてきた。
何の気まぐれだろう?
元々、猫は気まぐれな生き物か。
あるいは餌をくれる人間として認知したのか。猫の名前は結局【さば】に決めた。
聡介は笑ってさばを抱き上げ、リビングに入った。
買ってきた夕食をテーブルの上に置き、それから背広を脱ぐ。
にゃー、と足元でさばが鳴く。
猫の餌皿は空になっていた。
水か餌かわからないが、とりあえずいずれも新しいものを用意した。
子猫は水の入った皿に顔を近付ける。そうして水を飲んだ後、顔を洗っている姿を見て、聡介は和泉のことを思い出した。
昨日の夕方。
顔に出ていたのだろう。心配そうに声をかけてきた彼に、
『お前には関係ない』
あんなことを言ってしまった。
今頃、和泉はきっと、ひどく怒っていることだろう。
あるいは落ち込んでいるか。
しかし別れた妻との過去については、自分と娘達だけの問題だ。
和泉のことをどんなに、息子として心から大切に思っていても、これだけはどうしても関わらせたくない。
義理の息子達だってそうだ。
2人とも信頼できる。けれど。
それにしても……あの黒い葉書はいったい何だったのだろう?
お前達、とは?
何をしたというのだろう。
かつて義母と呼んでいた人は、ああいうタイプだから敵も多いだろう。義父だってそうだ。横紙破りだ、と秘かに噂されていたこともある。
でもまさかあれから何十年も経過した今になって、あの名前を聞くことになるなんて。
胃痛を感じた。
せっかく買ってきた夕食はダメになりそうだ。
聡介は棚から胃薬を取り出して服用した。さばが心配そうな顔でこちらを見上げているような……気がした。