175:天使な猫が舞い降りる
和泉は思わず立ち上がった。
「すみません、ちょっと失礼します」
思ったより、精神的に喰らったダメージは大きかった。
自分はもっと図太くて無神経な人間だと思っていたが。やはり、昨日までの疲労が抜けていないのだろうか。
動悸が激しい。
おまけに、忘れようと必死に封じ込めてきた、自身の辛い過去を急に思い出してしまった。
取調室を後にし、急いで廊下を走り、洗面所へ向かう。
飲んだ水をすべて吐き出してしまった。
鏡に映った自分の顔は真っ白だ。
聡介は確か、今日も世羅の方に……半田遼太郎の方についているはず。
周は……学校か。
気がついたらすっかり、辛い時に誰かを頼るクセがついてしまったような気がする。誰にも頼らず、自分1人で生きて行くことは可能だと思っていたのに。
顔を洗って、濡れた前髪をワイシャツの袖で拭く。
取調室に戻ろうと廊下に一歩踏み出した時だ。
「和泉さん!!」
どういう理由か、周が向かいから走ってくる。
「どうしたの? すごく顔色悪いけど、具合悪いの?!」
「……周君、どうしてここに?」
「ほら、昨日の事件のことで事情聴取するから来いって言われてたんだよ。この時期になるともう、通常の授業はほとんど終わって、あとは特別講義とか研修会とかそんなんばっかりだから……抜けてきた」
周はものすごく心配そうな顔でこちらを見ている。
「そう……」
冗談を言う元気も出ない。
「……和泉さんのことが心配だったから、様子を見に来たのもあるけど」
「え……?」
「だって昨日、いろいろ大変だっただろ。少し休めって言ったところでどうせ、無理してるだろうなと思ったけど……やっぱりか」
夢でも見ているのだろうか、と和泉は思わず周の肩に触れた。
夢ではない。確かに彼はそこにいる。
皆と同じ、警察職員が着る紺色の制服。
入校して間もなかった頃はそれこそ『着られている』感じが否めなかったけれど、今はよく似合っている。
周がここにいることに今は何の不思議も感じない。
少し前までは、まだまだ保護が必要な子供、そんなふうに思っていた。
「周君……」
「足踏むぞ?」
「いや、もう踏んでるし……痛いし……そもそも、まだ何も言ってないじゃない……」
「予測はつくだろ、簡単に」
周は足をどけて、やれやれと首を横に振る。
「今日を頑張って乗り越えたらデートしてやるよ。ただし、卒業式が終わってから……最初の休みだから、もうちょっと先だけど」
「ほんと?!」
「そっちが何も事件抱えてなければ、の話だけどな」
周はニカっと笑う。
「……うん」
それしか言えなかった。
「無理すんなよ、じゃあな」
※※※
我ながら単純だと思う。
ニヤケそうになる顔を必死で引き締め、和泉は取調室に戻った。
「……何かいいことがあったみたいだな」
「ええまぁ……廊下でばったり、可愛い子猫ちゃんに出会って、癒されました」
隠しきれないなら開き直ろう。
せめて頬が緩まないようにだけ気をつけて、再び椅子に腰かける。
「……リョウとの出会いは俺にとって、もしかして兄が導いてくれたのではないか、そんなふうに思っている。あいつがいなければ今の俺はなかった……」
唐突に相馬は語りだした。
「あいつもまた父親の愛情を知らない。父親は防衛省でもかなり名の知られた、高い地位にいる人間だった。でも家庭では、夫としても父親としても最悪だったとリョウが言っていた。気に入らないことがあるとすぐに殴る。その教育方針は、復讐こそ正義、だったそうだ」
だからあんな人間が育ったのか。
和泉は深く納得した。
「それで……彼があなたの復讐を後押ししてくれた、そう言いたい訳ですか?」
「と、いうよりも……兄の仇に復讐を遂げて、俺は隊を去った。そこにいる理由など何一つないからな。そうしたらリョウが……ついてきた」
まるで野良猫が後をついてきたかのような言い方だと思ったが、黙っていた。
「あいつは俺の役に立ちたい、そう言ってくれた。あいつを利用するのは実に簡単なことだった。大したことでなくても、ちょっと褒めてやるだけですぐ調子に乗るからな。そもそも、人間として必要なものが欠けていたあいつは……冴子のために始めた『黒い子猫』を運営するのに、実にうってつけだった。さっきも言ったが、あいつは俺に利用されていただけだ。それだけは真実だ」
「……そういうことにしておきましょう」
もし。
もし彼が半田遼太郎ではなく、藤江周に、高岡聡介に出会っていたら?
その人生は、まったく違ったものになっていただろう。
どうしてさっきからそう、考えてみても仕方のないことばかりが浮かんでくるのだろう。
話題を変えよう。
「……黒い子猫を結成するきっかけになったのは、Iさんの事件がきっかけだったと思っていましたが、違うんですね」
「……I? 誰だそれは」
「正確なお名前は存じません。ただ、あなたが呉にいた頃、可愛がっていた部下だったと聞きました。彼もまた、あなたのお兄さんと同じようにイジメに遭っていた。そうして自ら命を絶ったと……」
相馬はふっと息をつく。「それは作り話だ」
「……えっ?」
「Iとは、誰の頭文字だろうな。誰がそんな話を?」
「都築さんという、現役自衛官の方が……相馬さんは可愛がっていた後輩のIさんにパワハラしていた犯人を自ら探し出し、沈黙していた上官達にも私刑を科した上で、自衛隊を去ったと聞きました。ですから我々は、それが『黒い子猫』の始まりかと思っていましたが」
相馬は肩を竦めた。
「……あいつは昔から人の話を最後まで聞かないで、勝手に自分の思い出と合成させるクセがある」
「なるほど、そう言うタイプですか」
「一度だけ飲み会の席で、兄の話をしたことがある。そのIというのはきっと、都築のバディのことだろう……その人物は横須賀にいた頃、やはりパワハラ被害に遭って除隊したと言っていた。よくある話だ。警察だってそうだろう?」
「……ノーコメントとしておきます」
「仮に俺達の隊内でそんな事件があれば、リョウが黙ってはいない。気がつかないはずがないだろう?」
「ごもっとも……ですね」
「刑事のクセに、人の話を鵜呑みにするんだな」
「……だって、裏を取ろうにも自衛隊内部のことなんですから、そう簡単には……」
それからふと、思い出したことがあった。
「ということは都築さんを襲ったのは……?」
相馬は何の話だ? と、首を傾げる。
「相馬さんのことで、詳しいことを話してやると言ってくれて、まぁ……今となってはガセだったことが判明した訳ですが……れんが通りで待ち合わせをした時に、彼はチンピラに襲われていました。内部事情を知られたくないあなたが、指示を出したのかと思っていましたが……どうも違うようですね」
ああ、と元自衛官であり猫カフェのオーナーは頷く。
「あれは自称、俺の追随者を名乗る隊員崩れや半グレ達が、それこそ勝手にやったことだ。上の指示を仰がない、自分達の判断だけで行動する。扱いづらい奴らだったが、やっぱり使えなかった」
「上の人って、大変ですね……部下の行動の責任を負わなくちゃならない訳ですから」
※※※※※※※※※
もうダメかもしれない……。
ビアンカは暗い気持ちで県警本部に向かった。事情聴取をするから来るようにと言われたからである。
聡介は怒っているだろう。
言うことを聞かずに帝釈峡へ向かってしまった自分のことを。
何も言い訳はしない。
県警本部に到着する。
指定された部屋へ向かって歩いていると、向かいから、見覚えのある顔が。
「周?! 周じゃないの……」
「ビアンカさん?! なんで?」
ビアンカはつい、眼を逸らした。
「ごめんね、詳しいことを話すと叱られるから……」
「叱られるようなことしたの?」
「だって……高岡さんの役に立てると思って……」
本当に悪気はなかったのだ。
ただ、彼のためになると思った、それだけなのに。