表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

175/177

175:天使な猫が舞い降りる

 和泉は思わず立ち上がった。

「すみません、ちょっと失礼します」


 思ったより、精神的に喰らったダメージは大きかった。

 自分はもっと図太くて無神経な人間だと思っていたが。やはり、昨日までの疲労が抜けていないのだろうか。


 動悸が激しい。

 おまけに、忘れようと必死に封じ込めてきた、自身の辛い過去を急に思い出してしまった。


 取調室を後にし、急いで廊下を走り、洗面所へ向かう。


 飲んだ水をすべて吐き出してしまった。

 鏡に映った自分の顔は真っ白だ。


 聡介は確か、今日も世羅の方に……半田遼太郎の方についているはず。

 周は……学校か。


 気がついたらすっかり、辛い時に誰かを頼るクセがついてしまったような気がする。誰にも頼らず、自分1人で生きて行くことは可能だと思っていたのに。


 顔を洗って、濡れた前髪をワイシャツの袖で拭く。


 取調室に戻ろうと廊下に一歩踏み出した時だ。


「和泉さん!!」

 どういう理由か、周が向かいから走ってくる。

「どうしたの? すごく顔色悪いけど、具合悪いの?!」


「……周君、どうしてここに?」

「ほら、昨日の事件のことで事情聴取するから来いって言われてたんだよ。この時期になるともう、通常の授業はほとんど終わって、あとは特別講義とか研修会とかそんなんばっかりだから……抜けてきた」

 周はものすごく心配そうな顔でこちらを見ている。


「そう……」

 冗談を言う元気も出ない。


「……和泉さんのことが心配だったから、様子を見に来たのもあるけど」

「え……?」

「だって昨日、いろいろ大変だっただろ。少し休めって言ったところでどうせ、無理してるだろうなと思ったけど……やっぱりか」


 夢でも見ているのだろうか、と和泉は思わず周の肩に触れた。


 夢ではない。確かに彼はそこにいる。


 皆と同じ、警察職員が着る紺色の制服。

 入校して間もなかった頃はそれこそ『着られている』感じが否めなかったけれど、今はよく似合っている。


 周がここにいることに今は何の不思議も感じない。


 少し前までは、まだまだ保護が必要な子供、そんなふうに思っていた。


「周君……」

「足踏むぞ?」

「いや、もう踏んでるし……痛いし……そもそも、まだ何も言ってないじゃない……」

「予測はつくだろ、簡単に」


 周は足をどけて、やれやれと首を横に振る。

「今日を頑張って乗り越えたらデートしてやるよ。ただし、卒業式が終わってから……最初の休みだから、もうちょっと先だけど」

「ほんと?!」


「そっちが何も事件抱えてなければ、の話だけどな」

 周はニカっと笑う。

「……うん」

 それしか言えなかった。

「無理すんなよ、じゃあな」


 ※※※


 我ながら単純だと思う。

 ニヤケそうになる顔を必死で引き締め、和泉は取調室に戻った。

「……何かいいことがあったみたいだな」


「ええまぁ……廊下でばったり、可愛い子猫ちゃんに出会って、癒されました」


 隠しきれないなら開き直ろう。

 せめて頬が緩まないようにだけ気をつけて、再び椅子に腰かける。


「……リョウとの出会いは俺にとって、もしかして兄が導いてくれたのではないか、そんなふうに思っている。あいつがいなければ今の俺はなかった……」

 唐突に相馬は語りだした。

「あいつもまた父親の愛情を知らない。父親は防衛省でもかなり名の知られた、高い地位にいる人間だった。でも家庭では、夫としても父親としても最悪だったとリョウが言っていた。気に入らないことがあるとすぐに殴る。その教育方針は、復讐こそ正義、だったそうだ」


 だからあんな人間が育ったのか。


 和泉は深く納得した。


「それで……彼があなたの復讐を後押ししてくれた、そう言いたい訳ですか?」


「と、いうよりも……兄の仇に復讐を遂げて、俺は隊を去った。そこにいる理由など何一つないからな。そうしたらリョウが……ついてきた」

 まるで野良猫が後をついてきたかのような言い方だと思ったが、黙っていた。


「あいつは俺の役に立ちたい、そう言ってくれた。あいつを利用するのは実に簡単なことだった。大したことでなくても、ちょっと褒めてやるだけですぐ調子に乗るからな。そもそも、人間として必要なものが欠けていたあいつは……冴子のために始めた『黒い子猫』を運営するのに、実にうってつけだった。さっきも言ったが、あいつは俺に利用されていただけだ。それだけは真実だ」

「……そういうことにしておきましょう」


 もし。

 もし彼が半田遼太郎ではなく、藤江周に、高岡聡介に出会っていたら?


 その人生は、まったく違ったものになっていただろう。


 どうしてさっきからそう、考えてみても仕方のないことばかりが浮かんでくるのだろう。



 話題を変えよう。


「……黒い子猫を結成するきっかけになったのは、Iさんの事件がきっかけだったと思っていましたが、違うんですね」

「……I? 誰だそれは」

「正確なお名前は存じません。ただ、あなたが呉にいた頃、可愛がっていた部下だったと聞きました。彼もまた、あなたのお兄さんと同じようにイジメに遭っていた。そうして自ら命を絶ったと……」


 相馬はふっと息をつく。「それは作り話だ」

「……えっ?」

「Iとは、誰の頭文字だろうな。誰がそんな話を?」


「都築さんという、現役自衛官の方が……相馬さんは可愛がっていた後輩のIさんにパワハラしていた犯人を自ら探し出し、沈黙していた上官達にも私刑を科した上で、自衛隊を去ったと聞きました。ですから我々は、それが『黒い子猫』の始まりかと思っていましたが」


 相馬は肩を竦めた。

「……あいつは昔から人の話を最後まで聞かないで、勝手に自分の思い出と合成させるクセがある」


「なるほど、そう言うタイプですか」

「一度だけ飲み会の席で、兄の話をしたことがある。そのIというのはきっと、都築のバディのことだろう……その人物は横須賀にいた頃、やはりパワハラ被害に遭って除隊したと言っていた。よくある話だ。警察だってそうだろう?」

「……ノーコメントとしておきます」


「仮に俺達の隊内でそんな事件があれば、リョウが黙ってはいない。気がつかないはずがないだろう?」

「ごもっとも……ですね」


「刑事のクセに、人の話を鵜呑みにするんだな」

「……だって、裏を取ろうにも自衛隊内部のことなんですから、そう簡単には……」


 それからふと、思い出したことがあった。

「ということは都築さんを襲ったのは……?」

 相馬は何の話だ? と、首を傾げる。


「相馬さんのことで、詳しいことを話してやると言ってくれて、まぁ……今となってはガセだったことが判明した訳ですが……れんが通りで待ち合わせをした時に、彼はチンピラに襲われていました。内部事情を知られたくないあなたが、指示を出したのかと思っていましたが……どうも違うようですね」


 ああ、と元自衛官であり猫カフェのオーナーは頷く。


「あれは自称、俺の追随者を名乗る隊員崩れや半グレ達が、それこそ勝手にやったことだ。上の指示を仰がない、自分達の判断だけで行動する。扱いづらい奴らだったが、やっぱり使えなかった」


「上の人って、大変ですね……部下の行動の責任を負わなくちゃならない訳ですから」


 ※※※※※※※※※


 もうダメかもしれない……。


 ビアンカは暗い気持ちで県警本部に向かった。事情聴取をするから来るようにと言われたからである。


 聡介は怒っているだろう。

 言うことを聞かずに帝釈峡へ向かってしまった自分のことを。


 何も言い訳はしない。


 県警本部に到着する。

 指定された部屋へ向かって歩いていると、向かいから、見覚えのある顔が。


「周?! 周じゃないの……」

「ビアンカさん?! なんで?」


 ビアンカはつい、眼を逸らした。

「ごめんね、詳しいことを話すと叱られるから……」


「叱られるようなことしたの?」

「だって……高岡さんの役に立てると思って……」


 本当に悪気はなかったのだ。

 ただ、彼のためになると思った、それだけなのに。


周にとっての【デート】とは、和泉のおごりで美味しいものが食べられる、というそれだけの認識です。

あしからず……。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ