174:真意
「冴子は、学生時代から……同じ年齢でありながらどこか母親のような、包み込んでくれるような優しさがあった。俺が彼女に魅かれたのは、それが原因だったのかもしれないな」
「分かる気がします……」
「そして男は……ある日、母を捨てた。どうやら飽きたらしい。俺のせいだと、母の虐待が始まったのはその頃からだ……」
和泉は息を呑んだ。
母親が自分の子供を虐待するという話は連日ニュースでも否応なく耳にする。
いったいどんな気持ちでそうするのだろうかと、いつも不思議でたまらない。和泉の母はいつも優しかったから。
亡くなる直前まで心配をかけてしまったことを、今でも申し訳なく思う。
「兄は俺を守ってくれた。それでも、そんな状況を見かねた叔母……父の妹だが、彼女が兄と俺を手元に引き取ってくれたんだ。彼女は独身で、決して収入に余裕があった訳ではないが、俺達兄弟を世話してくれた。兄を高校まで行かせてくれて、そして……」
確かに女性1人で子供を2人育てるのは、経済的になかなか厳しいだろう。
「兄は俺を進学させるため……その資金を稼ぐために、そして叔母の今後の生活を支えるために、高校卒業後、自衛隊に入隊した」
ああ、そうだ。彼の兄が自衛隊にいたと聞いた。和泉もまた、自分が警察に入った事情にも母のため、ということがあった。他の公務員に比べて比較的給与が高いこと。それが決め手だった。
「警察というところは」
相馬はすっかり気分が楽になったのか、リラックスした様子で頬づえをつく。
和泉もそれを見咎めることはしない。
「身元の確かな人間しか入れないらしいが、自衛隊というのはその点で、かなり自由だ。俺が入った時にも、いろいろなのがいた……」
その『いろいろ』にどんなのが含まれるかは想像に難くない。
「ひょっとして、先ほどおっしゃった【人間の姿をしたブタ】などですか?」
相馬は今度こそ、声を出して笑い始めた。
「あなたとは本当に気が合いそうだ。もっと違う形で出会えていれば……仲良くなれたかもしれないな!」
「そうですね」
喉の渇きを覚え、和泉はミネラルウォーターを一口飲んだ。
「よく、ニュースで聞きます。あとは実際に現場で働いている自衛官の方からも。内部では過酷な虐めがあるそうですね。もしかして、そう言う行為を行う人達のことを指してそう仰っているのでしょうか?」
先ほどまで口を開けて笑っていたのに、相馬は突然、黙りこんだ。
目がギラつき始める。
「兄が……」
「お兄さん?」
「兄が死んだ、俺の眼の前で」
「それは、いつの話ですか……?」
「俺が大学生の頃だ。何年前になるんだろうな」
※※※
「兄は元々少し気の弱い人間だった。引っ込み思案で、あまり自己主張のできない……そう言うタイプだった。だから学生時代も、不良に目をつけられて金品を巻きあげられそうになったことがある。それでも兄は決して従わなかった。叔母に迷惑はかけられない、と」
「そんなお兄さんはやはり、自衛隊でも……」
「そう。暴力は日常茶飯事。初めは軽く小突く程度だったのが、段々と強くなり……ある日の夜、複数人に幹線道路へ連れて行かれたらしい。走ってくるトラックの前に飛び出して、果たして無事に生きて向こう側へ渡ることができるか。そんなくだらないゲームに付き合わされたんだ」
頭の中に光景が浮かぶ。
ニヤニヤと歯を剥き出しにして笑う迷彩服の男達。
複数人がかりで1人を拘束し、大型トラックが走ってくるところへ文字通り投げ出した。
「幸いにも、兄は一命を取り留めた。だが大怪我をして……入院生活を余儀なくされた。そうして兄は精神疾患にかかった……」
「……そんなことが……」
「兄は除隊し、それから引きこもるようになった」
彼は弟を進学させるために、世話になった叔母の生活を楽にしたいと、そう願って入隊したのだ。志半ばに辞めなければならなくなったその無念さは、いかばかりだろうか。
「責任感の強い人だったから……毎日のように自分を責めるようになった。そうしてある日。兄は自殺した」
先ほど、自分の目の前で、と彼は言ったはずだ。
「どこから手に入れたのかわからないが、拳銃で……自分を撃った。あの光景は今でも目に焼き付いて離れない」
止める間があったのかなかったのかわからない。
発砲音。
飛び散る血。
その凄惨な光景は目に焼き付いて離れなかったことだろう。
「兄は遺書を書いてくれていた……」
そこに兄を追い詰めた人間達の氏名が書かれていた、と相馬は言う。
「すぐに俺は該当の人間を探した。当然だが、兄をそんな目に遭わせた奴らはすぐに処分されたらしいが。でも俺はそれだけではどうしても許すことができず、事件を公表するよう迫った。その回答は……言うまでもないだろう」
防衛省も警察庁も似たようなもの。
都合の悪いことは隠すものだ。
それに、と相馬は続ける。
「あなただってわかるだろう。処分されたのは末端の、切られたトカゲの尻尾だけだということが。本当に罰せられるべきは、兄の件を知りながら見て見ぬふりをした……それだけじゃない、笑って黙認していた直属の上官だ……!!」
和泉は戦慄を覚えた。
「いや、違う。奴は積極的に、部下達に兄を虐待するよう命じていた。先日のなんとかという、警察学校の教官と同じだ」
相馬は机の上に置いた拳を震わせた。
そうして、まるで和泉の後ろに兄の仇の姿が見えるかのように、射抜くような強い瞳を向けてきた。
「その人の名前は、遺書には……?」
「書かれていたさ、もちろん。だがそいつは……父親が防衛省の幹部にいるとかなんとかで、どこまでも甘い処分で済んだ」
和泉は思わず目を逸らしてしまった。
「だから俺は、兄の仇に復讐する為……自衛隊に入った」
「そのことなんですが」
ひどく喉が渇く。和泉はミネラルウォーターを口に含んだ。
「昨日、発砲音がして……雨宮さんが怪我をした時、様子がおかしくなりましたよね? 何かのトラウマだろうと思っていたのですが、もしかしてお兄さんの……?」
「それなのによく、自衛隊に入ったと言いたいんだろう?」
相馬は頬を歪めるような笑い方をする。
「ある程度は……慣れだ。あとは、そうだな。何が何でも兄の仇を討つ、その執念だけでやってきた」
それでも、と彼は続ける。
「あの時は冴子が血を流しているのを見て、冷静ではいられなかった……」
「あなた方が拳銃を所持していながら、一度も利用しなかった事情はもしかすると、万が一のことを考えて……ということですね?」
「射撃には自信がないからな」
相馬は答えた。
「それに。やはりあの音は、心をかき乱す……」
彼らだって極限状態にいたに違いない。
ごく冷静に、緊張の欠片もなくあんな大事件を起こしたのだとしたら、もはや本当の意味で人間ではない。
「雨宮さんはどこまでも、あなたに気を遣っていたわけですね」
彼女をリーダーとした、女性だけで構成される新しいチーム。
その話が実現していたら。
もしかして県警の評判はもっと良くなっていたかもしれない。
和泉はそんな、考えても仕方ないことを考えてしまった。
「ところで、あなたの復讐計画を半田氏は知っていたのですか?」
「……話してはいない。あくまでも俺個人の問題だからな。でも、薄々は察していたと思う」
「それで……お兄さんの仇は見つかった?」
「ああ、呉で出会った」
「それで……」
和泉は息を呑んだ。
「兄の仇を討ったかどうか、ということか?」
はい、としか言えない。
相馬は笑う。
「当然だ」
「……殺害、したのですか?」
いいや、と彼は首を横に振る。
「ただ殺したのでは、兄の受けた苦しみを思い知らせることはできない。だから死ぬよりもずっと辛い……そんな仕打ちを、私刑を課して俺は隊を去った……」