172:同じ匂い
それから相馬はあの子、と話を続ける。
「藤江周と言ったか……俺にはまったく理解できない子だ」
「僕もですよ」
無表情だった相馬の顔に、微かな笑みが浮かんだ気がした。
「謎めいているというよりも、不思議で仕方ないんです。どうしてそんなに強くいられるのか。決して恵まれた環境で育った訳じゃない、むしろ辛いことの方がたくさん、いろいろあったんです。それなのに……」
すると。
相馬要はどういう理由か突然、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「あの子との出会いがあったから、あなたはまだ【そちら側】にいることができる……そうなんだろう?」
「……何ですか? 【そちら側】って、言うのは」
和泉は途端に警戒心を覚えた。
「もしかしたら今、俺が座っているここに、あなたが座っていたかもしれない」
「それはもちろん、その可能性がまったくないとは言い切れませんけどね」
相馬は真っ直ぐにこちらの眼を見つめてくる。
「あなたからは、俺と同じ【匂い】を感じるんだ」
同じメーカーの整髪料を使っているのか、それともコロンの話か。
そんな訳はない。
自分は周ほどに心が強くはないという自覚は充分にある。
現に彼を苦しめた富士原という男を、自らの手でどうにかしてやりたいと考えたことが何度もある。
彼は和泉の中に、確かに存在したその【心】を見抜いているのだろう。
「確かに僕にも、あまり人に言いたくない過去がありますし、心の弱い人間だという自覚もあります。何かのきっかけでいわゆる【闇堕ち】する可能性は高いでしょうね。それでも。周君だけではありません。僕を【こちら側】に引き留めてくれているのは……」
「もしかして、リョウを連れて来てくれた……?」
相馬は聡介のことに気づいたようだった。
「ええ、そうですよ。まったく、何をやってるんでしょうね、あのおじさんは……そんなんだから、悪い奴につけこまれていいように利用されるんですよ」
「リョウが言っていた……あんな人は見たことがない、と」
「僕もです」
それから和泉は相馬をじっと見つめ返した。
「あなたにだって、北条雪村という人との出会いがあったでしょう?」
すると彼は目を逸らした。
「兄が……」
「え?」
「どうしても俺を進学させてやるって、入れてくれた大学で雪村とは知り合った」
そう言えば、彼が母子家庭で育ったと聞いたことを思い出した。
「俺も初めは警察官になりたかった。その当時は知らなかったからな、身内に犯罪者がいる人間は、入ることができないと……」
代議士だった父親が汚職事件の末に逮捕された、ということも。
「だから自衛隊に? 確か、お兄さんもいらしたとか」
何か思うところがあるのか、相馬はすっと顔を強張らせる。
彼はしばらく黙っていたが、
「……俺は雪村を尊敬しているし、良い友達だったと思っている。だから……彼に伝えてくれないか。すまなかった、と」
その言葉に偽りはないだろう。
彼の場合は、愛する女性の深い苦しみを知り、共に闇へ堕ちる道を選んでしまった。
ただそれだけ。
「……承知しました」
恐らく北条はここに来ないだろう。
これ以上、かつての友人の【落ちぶれた】姿を見るのは忍びない……それに相馬もまた、今の自分を見られたくないという心理が働いているに違いない。
「さて、と。本題に入ってもいいですか? 五日市埠頭で転落死した3人組女性の事件なんですが」
「……よくわからないな」
「何がです?」
「冴子の娘が憎まれた理由もそうだが、その女達の行動が理解できない」
そんなの僕だってそうだ、と和泉も思った。
「俺の店にも来たことがある。猫が引っ掻いた、慰謝料を払え……良い写真が撮れないのは猫の躾が悪いせいだ、だから無料にしろ。ふざけた話だ」
「ごもっともです。まぁ、彼女達のことを簡単に言い表すなら……傍若無人でナルシストかつ、自己中心的で動物並みの思考力しか持ち合わせていない、メ……」
つい【メスブタ】と言いかけて慌てて止めた。
さすがに叱られるだろうと思ったからだ。
和泉が何を言いかけたのか悟ったようで、相馬が微かに笑う。
「世の中には、人間の姿をしたブタが多すぎる……」
彼流のギャグなのだろうか、ネタなのだろうか?
笑うべきかそうでないのか、和泉はしばらく悩んだ。
「あの夜、俺はどうやってあの女達を始末しようかと考えた。万が一にも冴子に疑いがかからないよう、事故に見せかける必要があった」
「……所轄は完全に事故扱いでロクに精査もしませんでしたが、僕は車に何か細工がしてあったのではないか、と考えています」
「例えばどんな?」
相馬は挑むような目でこちらを見てくる。
「そうですね……僕なら、猫が失礼をしたお詫びにご馳走します、とでも言って呼び出して車に乗せます。散々アルコールを飲ませて、五日市埠頭に向かう。できるだけ傾斜のある場所に停めて、女性の1人を運転席に移動させ、アクセルに足を乗せておく。ギアをニュートラルに入れて、サイドブレーキを引いておいて。ついでに車に何か細工をしてあれば、何も言うことはありませんよね。地元の交通課員も言っていました。あそこは夜景が綺麗で、よく若者が集まっては酒盛りをする場所だと。事故に見せかけるには最適だったのではありませんか?」
そんなところだ、と彼は答えた。
「車の中に黒い葉書を残しておいたのは、何らかのメッセージですか?」
「……いいね、が欲しかったのさ。自己主張の一環だ」
今度こそ、本当に冗談だろう。
しかし和泉は口角を上げるに留めておいた。
少し休憩しましょう。
和泉はいったん、取調室を出た。
想像していた以上に気持ちが削られている。
「和泉さん。少し私にも相馬と話をさせてもらえませんか……?」
そう声をかけてきたのは千葉からやって来た、長谷川理加子という女性刑事だ。
「ああ、ちょうどこちらから声をかけようと思っていたところです」
「大丈夫ですか? 少し、お疲れのようですが」
「……相当、覚悟して臨んだ方がいいですよ。神経をやられます」
彼女は真剣な顔ではい、と頷く。
「行きましょう、私も立ち合います」
※※※
「私、千葉県警捜査1課強行犯係の長谷川と申します」
新しく入って来た女性刑事を見ても、相馬は表情を変えることがなかった。
「船橋競馬場近くの、とあるモーテルで起きた殺人事件について調べています」
「例の大学教授の件だろう。あれは、俺がやったことだ」
即答である。
「……え?」
「名前は忘れたが、なんとかという教授を殺して欲しい、そう依頼を受けて実行した。具体的なことは既に調べてあるのだろう?」
長谷川理加子は怪訝そうな表情をしている。
「ですが、フロント係の目撃情報によれば、一緒に入って行ったのは身長160センチほどの女性だった……と」
「ターゲットを誘い出したのは、女装したリョウだ。俺は予め部屋に入って隠れておいて、そうして男を刺した」
和泉もだが、女性刑事も驚いて息を飲んだ。
「あの手のホテルは出入りをいちいち他人に目撃される危険性が少なくて、仕事をするには最適な場所だった。2階の部屋だったし、俺とリョウは【仕事】を終えた後は窓から外に脱出した」
確かに彼らであればそれも可能だろう。
「……依頼主に猫を渡しましたね?」
「ああ、そうだ。何度か接触しているところを警察に見られているな、とは思っていたが」
「それが成功報酬というか……支払い方法だったのですね?」
肯定の返事。
「それともう1つ。薬園台で起きた傷害事件についても、ご存知ですね? 野良猫を虐待していた男性が熱湯をかけられた事件です」
「あいつは、死んだか?」
「……いいえ、一命は取り留めました。ですが全身に火傷を追い、社会復帰はなかなか難しい状態です」
くくっ、と肩を震わせて彼は笑う。
「いっそ、死ぬよりも辛いかもしれないな……」
長谷川理加子は青い顔をして黙りこんでしまった。