16:楽しい逮捕術の時間だよ
「……そんなこと……」
若狭が何か言いかけた時、
「若狭、能登!!」
彼女達を呼ぶ声がした。
「早くしろよ」
そう命令口調で述べたのは、男子学生ではない。やはり同じ教場の女子学生の1人である。名前は谷村晶。
以前はあまり目立たなかったが、最近何となく存在感を増している同じ教場仲間だ。
周と同じぐらいの身長。ショートヘアーに、角張った顎の輪郭、あまり女性らしい柔らかさが感じられない。その上、まるで男のようなあの口調では。
気がついたら彼女を注視していたようだ。
「なんだよ?」
ドスの効いた声と共に睨まれ、周は思わず箸を落としそうになってしまった。
そうだ。彼女のことを誰かが【ボス】だと言っていた。ボスならば先日の事件のことを知っているかもしれない。
あるいは彼女が首謀者だったとも考えられる。
「なぁ、こないだの日曜日……」
周は亘理玲子に関する一連の事件について彼女に訊ねた。
すると谷村は、思いがけない返事を寄越した。
「点数稼ぎか? 委員長」
「……は?」
「それとも何か、ありもしないトラブルをでっち上げて、皆の休暇を取り消してやろうっていう魂胆なのか? そんなことをして恨みを買うのは損だぞ」
言っている意味がわからない。
確かに学生同士の間に何かトラブルが起きて、誰か教官に通報した場合、その相手の機嫌によっては週末の外出許可を一切取り消すなどの、考え得る限り一番キツいペナルティが課せられてしまう。
ちなみに『通報』した学生には教官から点数をもらえる。
これは警察と言う組織が、横のつながりを大切にするよりも、縦の命令系統にしっかりと従うべきだということを学生達に刷り込む為だと言われている。
「何言ってるんだよ。そんなこと関係ない……俺は見たんだ。亘理巡査が、用具入れに閉じ込められて、ロープで縛られていたのを。俺だけじゃない、護……倉橋も、上村もだ」
「夢でも見たんだろ」
そう答えて彼女はスタスタと食器返却口に向かう。
咄嗟に言い返す言葉が見つからなかった。
周はムカムカする気分を何とか抑え、急いで残りの食事を腹に詰め込んだ。北陸コンビは顔を見合わせ、同じく急いで食事を済ませていた。
当事者である玲子は、こちらのやりとりに気付いている様子はない。
※※※
本日一時間目の授業は逮捕術。
逮捕術と言うのは言わば護身制圧術である。
柔剣道では使用しない突きや蹴り、短めの木刀……もちろん怪我をしないように模擬……を使った剣術であったり、空手や合気道の技を使ったものだ。
警丈という長い棒を使った棒術もある。
要するに得物を使用した武術と言ったところか。
荒事が好きではない周にとって、常に憂鬱な時間であった。そうは言っても自分の身を守ることができなければ、将来、仲間の足を引っ張ってしまう可能性がある。
溜め息が出ないよう気をつけながら更衣室で道着に着替えていると、
「おい、藤江巡査」
野太い声で名前を呼ばれた。
やはり同じ教場の学生だが、今までほとんど会話したこともない彼の名前は確か、栗原だったはずだ。
背丈は170センチそこそこだが、全体にがっしりとした筋肉質の体つきである。
確か、柔道で全国大会に出るほどの実力を有していると聞いた。耳が餃子のように潰れているのが、長年の経験を物語る証なのだろう。
「なに?」
今まで滅多に口を聞いたこともない相手に、周はいたってフランクに応じた。
すると、
「これは忠告だ。女子達の間にある確執に、首を突っ込むな」
「……なんだよそれ……?」
しかし栗原は言うだけ言って、さっさと出て行ってしまう。
確かに、彼女達の間には最近確実に『何か』がある。
「栗原巡査の言う通りだ」
声が聞こえて振り返ると、いつの間にかすぐ隣にいたのは、上村だった。
「君はあれこれ首を突っ込み過ぎる。他人の心配より、自分の心配をしたらどうなんだ? 柔道はまだ初段に至っていないだろう」
「お前もな?!」
上村は無言のまま細い身体に白いシャツをまとい、道着を着こんで帯を閉める。
既に用意のできていた周は先に道場に入った。
柔道に関しては卒業までに技術の取得が間に合うのか。それは確かに不安ではある。
高校生だった頃、和泉の仲間で柔道の強い刑事にマンツーマンで稽古をつけてもらったこともあるが、どうもイマイチ上達しない。剣道の方は義兄が得意だという理由で、張り合って、既に初級を取得したのだが。
なお、柔道の授業について言えば、入校当初は柔軟体操ばかりをやらされていたが、今はすっかり技の習得に重きが置かれている。
そうなると張り切るのは経験者達だ。模範演技を見せろなどと言われようものなら、嬉々として仲間達を投げ飛ばす。
逮捕術の授業も似たようなもので、やはり格闘技の経験がある人間が調子に乗る。
嫌な時間だ。
※※※
道場に集まった学生達は全員、体育座りで立っている教官の顔を見つめている。
「今日は女子学生に頑張ってもらうわよ?!」
と、大きな声で叫んだのは北条ではない。
助教の雨宮冴子警部補である。
北条は制服姿のまま、道場の端っこで腕を組み、こちらの様子をじっと見守っている。
「教場当番、前に出て!!」
はい!! と大きな声で返事があり、教官の前に立ったのは先ほど話したばかりの谷村だった。
もしかして人前に出るのが好きなのだろうか?
目がやけに輝いている。
雨宮助教は彼女に模擬拳銃を渡す。ゴム製であり、当然ながら弾は入っていない。
「私の方に銃口を向けて」
谷村は言われた通りにする。
練習だとわかっていても、思わず喉を鳴らしてしまう。
教官は学生達を見回し、
「こんなふうに銃口を向けられたら、まずは不用意に身動きしない。相手が接近してくるのを待って」
雨宮は後頭部で指を組み、ホールドアップの姿勢を取る。
「私の背中に銃口をつけて」
やはり指示どおり、銃口が背中にピッタリとくっつけられる。
すると次の瞬間。
後頭部で組まれていた指が一瞬でほどかれ、降り下ろした左腕が拳銃を真横に弾いていた。そうしてすかさず女性教官は身体の向きを回転させ、谷村の手から拳銃を奪っていた。
まるで剣舞でも見ているようだ。
その素早く鮮やかな動きに、周はただただ驚きを禁じ得なかった。
「ただし、これで終わりじゃないわよ? まだ相手が観念しないようなら」
雨宮は谷村の背中を軽く突き、彼女を畳の上にひざまずかせる。
そうして銃の取っ手部分で後頭部を軽く叩く。
「こうして、反撃を封じこめておくこと。いいわね、くれぐれも力いっぱい殴ったりしないように。これは訓練よ?!」
そうだ、これは訓練だ。
でも。現場に出て、本当にこんなふうに銃口を向けられることだってあるかもしれない。そう考えたら急に寒気を覚えてしまった。
「それじゃ、谷村。あなたもやってみて。相手役は……亘理!!」
指名された玲子はびくっ、と身を震わせた。
「返事は!?」
はいっ、と上擦った声で返事をし、彼女は谷村と向き合う。
助教は模擬拳銃を玲子に渡し、
「少し離れた場所から、相手に銃口を向けて歩いてきて
そうして。見よう見真似で谷村は見事、玲子の手から拳銃を奪い取った。
ぐっ、と何か喉の詰まったような声がしたのはその時だ。
周は見ていた。組んでいた指をほどき、動かした谷村の肘が、玲子の脇腹を突き刺したことを。
防具でカバーされている部分だったが、その勢いは凄まじかった。
弾みなのか、故意なのかはわからない。
玲子は畳の上に膝をつき、苦しそうに咳き込んでいる。
咄嗟に北条が近づき、彼女の身体を抱き上げた。
「授業を続けて」
女性教官は無言のまま頷く。
きっと痣になるだろう……。
周はただ驚いて、様子を見ていることしかできなかった。