15:きっぱり言うなぁ、こいつ
ああ、やっぱり和泉さんって笑顔がステキ!!
他にもしなければならない作業は山積みなのに、郁美は和泉から頼まれた物の鑑定を急ぐことにした。私情挟みまくりではあるが。
そんな訳で、自分にとって優先度の低い作業はすべて後輩に押しつけることにした。
「……っていうことで、よろしくね? 古川君」
その相手は、今年の春から新しくやってきた鑑識員、古川亜諸巡査部長である。
自分よりも若いくせに、昇進試験に一発合格で既に巡査部長にまで上がっているという、実に鼻持ちならない男だ。
ただし、確かに仕事はできる。
手先が器用なことに加え、細かい作業が苦にならない。それに何より彼の特技は似顔絵を書くことだった。
彼が作成した似顔絵が犯人逮捕に結びついた実績がいくらかあって、上の覚えもめでたい。
将来的には捜査1課に栄転するのでは、とまわりも囁いている有望株だ。
「嫌です」
「何ですって?」
「俺だって、いろいろ抱えてるんです。郁美センパイの私情にわざわざ付き合う暇なんてありませんので」
ムカー!!
この男、若輩者のくせに年長者に対する口の効き方がなっていない!!
しかし正論ではある。
いろいろと言ってやりたいことはあったが、口で勝てる自信がなかったので、
「それよりもあんた、その呼び方やめろっていつも言ってるでしょ?!」
と、論点をすり替えた。
今は異動で所轄の鑑識係になったかつての上司は、名字ではなく名前で読んでいた。
それも「短い方がいいから」という適当な理由で。
新しくやってきた若い鑑識員も同じことを言った。
『だって平林先輩って、言いにくいし』
「だいたい……」と、古川は忙しそうにキーボードを叩きながら続ける。「あの人、めちゃくちゃ黒い笑顔してたじゃないですか。郁美センパイ、都合の良いように利用されてるだけっすよ?」
「く、黒い笑顔って何よ……?」
「顔は笑ってたけど、眼が全然笑ってなかったです。ここらあたりでニッコリ笑っておけば、自分の依頼した作業を優先してくれるだろうっていう、下心が透けて見えました」
「そ、そんなこと……!!」
否定できるだけの材料がないことに郁美は気付いてしまった。
「い、和泉さんはあんたみたいにヒネた人間と違うんだからねっ?!」
「まぁ、優秀なデカだってことだけは認めますけど」
古川はそう返事をしてから、手元の作業に没頭し始めた。
なんていうのか、彼と話していると気がつけば相手にペースを持っていかれている。
このままでは先輩としての示しがつかない。今までは自分が最年少だったため、何かというとまわりに気を遣っていた郁美だが、後輩ができたことで嬉しくなり、少しばかり威張って見たくなったのもある。
「それより、こないだ頼んでおいたあの件、どうなってるの?!」
「とっくに終わってます。つい1時間ほど前に、報告したんすけど」
ぐぬぬ……!!
それが先輩に対する口の効き方なの?! と、言ってやりたいところだが、頼んだことを終わらせてくれた相手に文句の言いようもない。
扱いづらい男。
でも、悪い人間じゃないのよね。
※※※※※※※※※
起床後、点呼を取ったら各自準備を開始。
それから朝食の時間。
周はいつもの定位置に腰かけた。倉橋が来るまで待っていよう。彼はいつも必ず周の右隣に座る。
食堂の壁際にあるテレビはいつも決まって公共放送が映っていて、チャンネルを変えようものなら途端に大目玉を食らうことになる。周はボンヤリと昼のニュースを見ながら友人の到着を待った。
男性アナウンサーがローカルニュースを読み上げている。
『庄原市帝釈峡の神龍湖で、女性の遺体が浮かんでいるのが発見され……付近の様子から見て、崖で足を滑らせ転落したものと思われます……警察は事故の原因を詳しく調べています……』
友人はなかなかやって来ない。
どうしたんだろう? 周は立ち上がって食堂の中を見回した。
すると、トレーを手に立っていた倉橋と眼が合う。
こっち、と笑って手を振ると彼はなぜか、気まずそうな表情でこちらへ歩いてくる。
そうして近くにやってきた友人の顔はなぜか左側が赤く腫れ上がっていた。口の中を切ってしまったのだろう、唇の端に微かな血が滲んでいる。
「どうしたんだよ?! その顔……」
「……いや、ちょっと……」
周には思い当たることがあった。
「もしかして、あの教官か……?」
先日の人事異動で新しくやってきた指導者の1人に、富士原という武術専門の教官がいる。背丈はそれほど高くないが、丸太のようなその筋肉質の腕や、岩のようにゴツい顔立ち、やたらに大きな声。
外見だけで相手に恐怖心を植え付けるには充分だった。
その上初日から何人かが、掃除が行き届いていない、道具の扱いが粗雑だ、些細なことでほとんど言いがかりのような『注意』を与えた上でビンタを受けた。
倉橋はいったい何を叱られたのだろう?
返事はなかったが、恐らく自分の推測は当たっていると思う。
いつもなら他愛ない会話をして、和む一時のはずなのに、倉橋は先ほどから黙りこんでいる。
その時ふと、周は頬に誰かの視線を感じた。好意的ではない。どちらかと言えばむしろ敵意に近いような。
考え過ぎか。
「なぁ、護……」
「悪い。俺、教場当番だから。お先な」
そう言って彼は食事をかきこみ、急いで立ち上がって、食堂を出て行ってしまう。
何か怒らせるようなことをしただろうか? 急に周は不安を感じた。
するとその時、
「ねぇ、隣に座っていいかな?」と、声が聞こえた。
顔を上げるとトレーを手にした女子学生が2人並んで傍に立っている。
「あ、ああ……どうぞ」
同じ教場の学生だ。名前は知っている。確か若狭と能登。
彼女達も常に行動を共にしており、その名前から北陸コンビと呼ばれている。いずれもあまり目立たない、大人しい女性達だ、と周は思っていた。
1人がキョロキョロとまわりを見回し、
「あれ、倉橋君は? いつも一緒なのに」
「教場当番だからって、準備に行ったよ」
「そうなんだ~……ところで藤江君って、捜査1課の和泉警部補と知り合いなんでしょ?」
若狭が興味深々に聞いてくる。
「詳しいこと教えてくれない? やっぱり既婚者なんだよね?」
「さぁ……」
バツイチ独身、年齢不詳。変態的嗜好を持ち合わせており、非常に危険人物だと言いたいところだが、面倒なのでやめておいた。
「この子が知りたがってて、連絡先とか教えてもらえない?」
そう言って若狭は能登の肩を抱く。
「……一応、教えていいかどうか聞いておくけど、週末まで無理だぞ?」
通信機器の類一切は、週中ずっと教官に徴収されている。自由に使えるのは週末だけだ。
「ほんと? やったぁ!!」
「ただし、教えないって言われても俺を恨むなよ?」
女子2人は顔を見合わせた。
たぶん和泉のことだから、知らない女の子に連絡先を教えたくない、と言うに違いない。
その後隣の女子2人は、周に何か話しかける訳でもなく、よくわからない話題で盛り上がっていた。
周が今日の授業の予定を頭の中で思い巡らしていると、ふと、1人きりで隅っこに座って食事をしている亘理玲子の姿が見えた。
彼女は今まで、いつも一緒に食事をしている友人がいた。
しかしその相手はもういない。
既にでき上がってしまった女子のグループに入るのは嫌なのか、難しいのか、今はずっと1人のようだ。そして急に思い出した。
「なぁ、昨日のことなんだけどさ」
周は若狭と能登の会話に割って入った。
「俺、外出してたんだけど……帰ってきたら亘理巡査が、用具入れに閉じ込められていたのを見つけたんだ」
すっ、と女子2人の顔が強張る。
「誰があんなことしたのか、何のつもりなのか知らないか?」
瞬間的に空気が凍りついたような気がした。