122:隊長さん、賭けに出る
それは一か八かの賭けだった。
猫カフェを出たあの後、北条は話したいことがあるからと、とある店に相馬をメールで呼び出した。
返信はなかった。
時刻は午後10時過ぎ。
流川にあるその居酒屋はいつも混雑している。隅っこで1人飲んでいても誰かが気にする訳でもない。ご機嫌になった客たちが大声で騒ぎ始めたら、ひそひそ話をするには持ってこいだ。
果たして相馬はやってくるのか。
半々だと思っている。
北条は、現時点ではアルコールは飲まないことにした。
炭酸水の入ったグラスを傾け、カウンター席の一番端でひたすら、じっと待つ。
そうして30分ぐらい経過した時だろうか。
店員は絶えず『いらっしゃいませ』と言っているから、いちいち入り口を確認することはしない。だが。
「お一人様ですか?」
「いえ、連れが先に来ているはずなんですが……あ、いたいた」
相馬の声だ。
北条は口元に持ってきていたグラスをカウンターテーブルに降ろした。視線は正面のまま、メニュー表の立てかけてあるところを見つめる。
「やぁ、待たせたな。忙しくて返信できなかった、すまない」
昔と変わらない口調で彼はすぐ隣に腰かけた。
おしぼりを持ってきてくれた店員にビールを頼んで、相馬は覗き込むような体制でこちらを見る。
「昼間はびっくりしたよ。来るなら来るって、予め言っておいてくれたらいいのに」
古い友人はメニュー表を取り、開いて内容を確認している。
「……警察がアポを取ったりしないのは常識でしょ。どうしてわざわざ、証拠隠滅や口裏合わせの準備をさせなきゃいけないの?」
北条は顔も視線も合わせずに、努めて平静を装って答えた。
すると相馬はやれやれ、と肩をすくめる。
「何を誤解しているのか知らないけど、いったい……何なんだ?」
生ビールが運ばれてくる。
「まぁ、いいや。久しぶりの再会を祝して乾杯と行こう?」
相馬はビールジョッキを持ち上げたが、北条はそうしなかった。
「そう言えば君は、昔からそうだったな。勝手に怒って機嫌の悪いまま、こっちの話なんてロクに聞いてくれなくて」
それからしばらく黙っている思ったら、相馬は大きなジョッキ一杯分をあっという間に飲み干していたのだった。若い頃はそれほど飲めなかったはずだが。
「ビックリしてるみたいだな? 前の職場で鍛えられてね」
通りかかりの店員にお代りを頼み、彼はスマホをテーブルの上に置いた。
「雪村、君1人なのか?」
「……どういう意味?」
「いや、冴子が一緒なのかと思ってた」
「アタシは同窓会のつもりであんたを呼んだんじゃないわ」
北条はその時初めて、相馬の横顔を見た。
学生時代とほとんど変わっていないと言えば嘘になるが、あまり年齢を感じさせないのは確かだ。海上自衛隊にいた頃の名残だろうか、少し日焼けの仕方が気になるぐらいで、シミや皺もほとんどない。
「君も若い頃と、少しも変わっていないね。雪村?」
こちらの胸の内を見透かしたかのように相馬は言った。
「そうだ。昼間、一緒に店に連れてきたあの男の子が今の恋人? 怪我していたけど、可愛い顔した子だったな」
「……あの子は既に、他のと成約済よ」
「人のことを物件みたいに言うんじゃないよ」
相馬は店員呼び出しボタンを押し、幾らか料理を注文してから、
「君は、学生時代から少しも変わらないな」
「どういう意味よ?」
「他に好きな相手がいる奴ばっかり好きになる。それでいて、変なところでお節介というか……君が仲を取り持ったおかげで、上手く行ったカップルは少なくなかった」
「そんなこと、あったかしらね……」
北条はだいぶ気の抜けた炭酸水を一口飲んだ。
「そう言えば冴子はどうしてる?」
「……さぁ?」
「なんだ、冷たいな。同じ職場だろう?」
「何人職員がいると思ってるのよ。部署が違えば会うことなんて、ほとんどないわ」
本当は毎日顔を合わせているが、黙っていることにした。
「それで……俺に話って何だ? 雪村」
こちらたこわさになりまーす、と妙な日本語と共に店員がツマミを置いていく。
「……あんた、妙な商売してるわね?」
北条はズバリ核心を突く質問をした。
相馬は眩しそうに目をパチクリ、またたきを繰り返す。
「妙な……って、ごく普通の猫カフェじゃないか」
「それは表向きよね?」
北条はスマホを取り出し、例の【ブラックキティ】なるサイトの画面を開いてみせた。
「これ、あんたが運営してるんでしょ?」
画面をのぞきこみ、しばらく指でスクロールしていた相馬だが、
「……何の話? これって、何? 俺は何も知らないよ」
本気で言っているのだろうか?
昔からこの男は本心を隠すのが得意だった。それだけに興味を魅かれるのも確かだったのだが。
わざわざ感情が表に出る左側がよく見えるように席を陣取ったのは、そこから何か読みとれないだろうかと考えたからだ。でも、あいにく読めない。
「……自衛隊を辞めたのはどうして?」
話を変えることにした。
相馬は運ばれてきたツマミに少し手をつけると、
「まぁ、いろいろあってね……」
「あんたぐらいの実力があれば、かなり高い階級も狙えたんじゃないの?」
自衛隊の階級制度がどうなっているのかは知らないが、おおよそ警察と似たようなものだろう。
北条の言うところの【実力】とは要するに戦闘能力の強さだ。
先を見通す能力、そして接近戦にも耐えうる技術。
学生時代、北条は酔っ払った挙げ句に相馬と一度だけ組み討ちをしたことがあったが、その身体能力の高さに驚いたことがあったのを、今でもハッキリと覚えている。
「……どうも俺は、世渡りが下手みたいでね」
ジョッキに残ったビールを一気に呷り、友人は飲み物のメニューを開く。
「嫌な上官っていうのは、どこにでもいるものでね。君だってそうだろう?」
「ええ、まぁね」
「何も見なかった、聞かなかったことにして、上にとって都合の良いことにだけ『はいそうです』って、頷いておけば俺も今ごろ……上から数えた方が早いぐらいの階級には行けてたかな」
「……それだけ?」
北条は相馬の瞳を覗き込んだ。
「それだけって、他に何があるっていうんだ?」
「……時々ニュースになるわよね。イジメにあった自衛隊員が自殺したって言う話」
すっ、と2人をまとう空気が変わる。
「あんたって昔から、弱い者イジメが許せない性質だったでしょ。もしかしてあんたが可愛がってた後輩が、上官や先輩から嫌がらせにあっていて、それが許せなかった……だから報復に出た。辞めた原因はそれなんじゃないの?」
しばらく沈黙が降りた。
相馬は答える代わりに、店員を呼んだ。
「日本酒飲み比べセットをください」
「同じものを」
北条も若い女性の店員に頼んだ。
「……そっちの事情は詳しく知らないけど、どうせウチと似たようなものでしょ。上官や先輩が黒いものを白だと言えば白、従わない人間には鉄拳制裁が待っている。あるいはただ単にストレスのはけ口として……力のない人間に八つ当たりする」
「海の上には逃げ場がないんだよ」
相馬は応えて言った。
「……何ヶ月も閉鎖された空間にいると、次第にストレスが溜まる。そう言う時、欲求不満のはけ口にされるのはやはり、立場の弱い人間だ」
「それで、あんたの大切な後輩が被害に遭った訳ね?」
「……誰かに何か聞いたのか?」
さぁ? と誤魔化して北条はグラスに残っていた炭酸水を飲み干した。
ちょうどタイミングよく日本酒セットが運ばれてくる。
「ウチは個人情報の宝庫だから」
なるほどね、と相馬は手ずから猪口に日本酒を注ぐ。
「それで? さっき訊いてきた【妙な商売】っていうのと、俺が自衛隊を辞めた理由って言うのに何か関係が?」
北条も自分で注いだ酒を口に運びながら、
「……上に盾突いてスッキリしたあんたは……同じような悩みを抱えている人の力になりたいと考えた。その結果がこのサイト、そうなんじゃないの?」
「よくわからないな……」
「警察も裁判所も、本当に苦しんでいる市民の味方になんかなってくれない。いつだって弱い人間が辛い思いをするのがこの世の中の常だと。ここに書いてあるわよね。【法で裁けぬ悪を裁く。ただし猫は気まぐれだから、必ずしも依頼を受け付けるとは限らない】ってね……あんた、猫大好きだったわよね」
「確かに、猫は大好きだよ。人間よりもよほどね」
2合ほど入っていた日本酒の燗は、あっという間に空になってしまった。
「それで? その黒い子猫は何をしでかしたんだ?」