120:空気が読めない筋肉マン
黄島真尋と言うのが彼のフルネームだと初めて知った。
北条警視の部下の中では一番年少で、全員から可愛がられている様子が伺える。
見た目はアレだが、話してみると案外しっかりしているし、彼ならうさこを大切にしてくれるだろう。
「班長、どこへ行くんですか?」
「警察学校……」
「えっ?!」
「の近くの、居酒屋だ」
「もしかして、何か表には出ていない極秘捜査ですか?」
運転席の黄島が訊ねてくる。
「まぁ、そんなところだ」
目的地に到着する。
今日は先日と違って、店は混んでいた。うさこの名前で予約しておいて正解だった。
奥のテーブル席に案内される。店の主人は手元に注意していたせいで、こちらに気づくことはなかったようだ。
「好きなだけ飲んでくれ」
はい、と若い黄島は嬉しそうだ。
「それじゃたちまちビールと、枝豆……ひゃあああっ?!」
「ど、どうしたんだ?!」
「ね、ね、猫―――っ?!」
そう言えばこの店には黒猫がいた。まさか彼が、猫が苦手だったとは。
可愛い、と喜んでいるうさこの横で、黄島は青い顔をして壁に縋りついている。
「……すまない、苦手だったとは知らなかったんだ……」
「クロ、ほらこっち」
他の客が呼んでくれて、黒猫は去って行った。
確か前は「そら」と呼ばれていた気がするが。どうやら客が好き勝手に名前をつけて呼んでいるようだ。
聡介はさりげなく店内を見回し、常連客がいないかを探した。店の主人と親しげに話している人間をチェックしておいて、さりげなく店を出た瞬間に捕まえなければ。
黒猫がカウンターの上に丸まったのを確認したら、安心したらしい。
黄島はビールのジョッキを傾けながら言った。
「そう言えば、こないだ隊長からも八丁堀にある猫カフェを探って来いって言われたんですよね」
「猫カフェ……」
どうしてそんなところへ?
「俺、猫苦手だって言ったのに……隊長の命令は絶対ですからね」
ブツブツ言いながらも、飲むスピードも食べるスピードも速い。
「何を調べてきたんだ?」
「なんかオーナーの男性について調べろって」
既に2杯目の大ジョッキが空になるのを、驚きの目で見つめながら聡介は考えた。
「それで、何がわかったんだ?」
「とにかくものすごい猫好きってことですね。俺には信じられませんが……あ、ハイボールください」
「どうしてそう思ったんだ?」
黄島は目をパチクリさせ、苦笑いしながらこちらを見つめる。
「……さすが強行犯係の刑事ですね、尋問されてるみたいだ」
いけない。他部署の若手に、自分の部下にするような態度を。聡介は軽く咳払いしてお茶を一口飲んだ。
「譲渡会っていうんですか、野良猫とか捨てられた猫を保護して、次の飼い主を探す活動をしているらしいです。ちなみにアルバイトの女の子に、オーナーがどういう人物かを聞いてみたんですけど、とにかくプライベートが一切わからなくて謎に包まれてるって言ってましたね。ただ、とにかく猫をこよなく愛する人間だということだけは間違いないって」
「謎の人物って、和泉さんみたい……」
ぽつりとうさこが言う。
聡介はチラリと彼女の様子を見た。
今日はいやに大人しい。元々そんなにおしゃべりなイメージはないが、まさか彼氏の前で猫を被っているのだろうか?
日頃の彼女は、和泉には躊躇なく噛みついているし、日下部に対しては実の兄のように遠慮がないのだが。
「あの、班長」
こちらの視線に気づいたのか、うさこが口を開く。
「何か……私、変ですか?」
「いや、なんでもない」
妙な空気になってしまった。
それにしても。先ほどからさりげなく黄島の様子を見ていたが、胸やけしそうだった。
よく飲みよく食べる。
そうは言っても日頃の運動量が半端ではないから、おそらく太ることはないだろうが。加えて若いということもあるだろう。
そう言えば和泉も今より若い頃は、こちらの奢りだと言うと遠慮も慎みもなく、大量に食べたり飲んだりしていた。
「もしかすると、隊長の古い知り合いかもなぁ……」
何杯目か分からないハイボールのジョッキを開けて、彼はお代りを頼んだ。
「え? なぜだ」
「いえね。ちょっとマイナーなんだけど、一部の男に人気の高い香水があるんです。その猫カフェにその香水の残り香がしていないか確認しろって言われて」
「結果は?」
「バッチリ残ってましたよ。俺はあんまり好きな香りじゃないですけどね~……」
北条の古い知り合い。
それから聡介はふと思い出したことがあった。帳場をたたんで尾道東署を後にする少し前。
彼が何かひどく怒っていたこと。
詳しくは知らないがどうやら彼には、独自の情報ルートがあるらしい。
ふと、黄島の動きが止まる。彼は聡介の肩越しに店の入り口を見ているようだった。
「どうしたの?」
「あれ……課長」
え? と、聡介も後ろを振り返る。
確かに長野課長が立っていた。自分達が座っている席は太い柱で少し見えにくい死角になっているためか、彼はこちらに気づくことなく奥へ歩き進んで行く。
黒猫が鈴を鳴らして長野の足元にまとわりつく。
彼は猫を抱いてカウンター席につこうとした……が。
「かちょー、長野課長~!!」
大きな声で黄島が手を振る。
聡介はぎょっとして、彼を止めようと思った。しかし。
「こっちこっちー」
呼ばれた長野課長は目をいっぱいに見開き、額に大汗をかき始めた。
それまでずっと俯いて作業していた店主が顔を上げる。
「な、なんで……?」
「だって、店混んでるし。知り合い同士だから相席の方が良いかと思って」
それは一般的に考えればそうなのだが、聡介的には少し目論見が外れてしまった。
予めこの2人にも言っておけば良かった。
この店で起きた強盗殺人事件を担当した刑事が長野であり、これは聡介のただの勘に過ぎないが、彼は今でも未解決事件の犠牲者となったこの家族と接触を持っているのではないだろうか。
ただし、店主の方はあまり快くは思っていない。
あくまで推測にすぎないのだが。
ふと思い出したことがあった。先日、聡介が1人でこの店に来た時、カウンター席にいた1人の女性客が言ったことを。
『長野さんに、もう放っておいてと伝えて』
長野課長は仕方なさそうに、すごすごとこちらへやってきた。元々小柄な彼が背を丸めるとさらに小さく見えてしまう。
「なんで聡ちゃん達、ここにおるん?」
「俺達は、高岡警部が連れてきてくださったからです。課長こそ、ここの店が行きつけなんですか?」
「そんなところじゃ……あ、お嬢さん」
長野はどう見ても【おばちゃん】であろう女性に向かって、生ビールを注文した。
「あの、課長。実は……」
「聞こえない~っと。わしゃ、モミじーとせらやんとお話するんじゃけん」
そう言って彼はポケットからぬいぐるみを取り出し、独り芝居を始めてしまった。
知らない人のフリをしよう。
聡介が手元にあったお通しに手をつけた時、
「ねぇねぇ、せらやん。あの事件って結局どうなったの?」
「あの事件って何? モミじー」
「……このお店に強盗が入った事件だよ、せらやん」
「それがね、モミじー。犯人の目星はついたんじゃけど、今は……もう生きとらんのじゃ」
思わず手を止めた。
向かいに座るカップルも空気を読んだのか、口を閉じて手を止める。
「え~、どうしてぇ?」
「あの事件の1年後にな、1人は事故で死んだ。もう1人は去年、病気で死んだ。どっちも遺体の引き取り手がのぅて無縁仏じゃった」
そうだったのか。
「でもぉ、何年も前の事件なのに……病気の方はどうして今まで捕まらなかったの?」
そうだ。聡介もその点が気になっていた。
「物証がの、どうしても確保できんかったんじゃ……」
「警察の怠慢じゃないの?」
「ほんまじゃのぅ」
そして1人芝居の舞台は閉じた。