118:頭の中がお花畑
和泉は呆然と周を連れて店を出て行った北条の後ろ姿を見送った。
ショックで激しく動揺しており、上手く声が出ない。
胸に杭でも打ち込まれたような気分だった。
自分の知らないところでそんなことが起きていたなんて。
あのゴリラ、周はもちろん、きっと学生達を大切には扱ってくれないだろう。
そう感じてはいたが。目の前でその現実を突きつけられた和泉は、悔しさと歯がゆさと、たとえようもない強い怒りを覚えた。
「和泉さん、大丈夫ですか?」
「……え?」
守警部はすっ、と一歩前に出て、相馬要に近づく。
「恐れ入りますが、この女性が来店したことはありますか?」
と、大宮桃子の写真を見せる。
相馬はしげしげと見つめた後、
「すみません、わかりません」
では、と相方は質問を続ける。タブレットを見せ、
「このような黒い葉書、あるいは黒い子猫と言うサイトに心当たりは?」
この時ばかりは和泉も、相手の反応に注意を集中した。
即座に否定するでも、顔色を変えるでもない。ただ淡々と、
「さぁ……黒い子猫なら、わりと最近までここにいましたよ。幸い、良縁があって今では、とある家族の一員ですが」
守警部が次になんとつなげるのか、自分も思考を切り替えなくては。
そう思った時。
「にゃ~、いっちゃん、お腹空いたー」と、長野が文字通り首を突っ込んできた。「担々麺食べに行こうや。彰はハブねー、2人きりでデートなんじゃけん」
「え、ちょっと、課長……!?」
長野は守警部の手を取り、スタスタと店を出ていく。
結局、和泉だけが店に取り残された。
「あはは、お兄さん。どっちもトンビに油揚げさらわれちゃったね」
おかしそうにそう言うのは、恐らく半田遼太郎。
「よせ、リョウ」
確か、半田の方が上官だったのではないだろうか。
窘める相馬を見ていて、思い出したことがあった。
『あれじゃ立場が逆だって、皆が言ってたぐらい、いつも相馬さんの傍にくっついてた……』
和泉は何を言うべきか、何か言うべきか悩んだ。
それを遮るように、北条からの着信があった。
『彰ちゃん、降りてきて。命令があるの』
お願い、ではなく命令、ときたもんだ。
何を言われるのだろうかと怯えながら、5名分のコーヒー代を置いて、和泉は店を出た。
狭いビルの入り口。
北条と周が立っている。
「今夜、この子をあんたの家に泊めてあげて」
「え……?」
周は不思議そうな顔をしているが、少なくとも不愉快そうには見えない。
「積もる話もいろいろあるでしょ。じゃあね」
北条は片手を上げてさっさとどこかへ行ってしまう。
さっきまでの暗い気持ちは吹き飛び、和泉の頭の中はお花畑と化した。
「……迷惑なら寮に帰るけど?」と、周。
「な、何言ってるの!! 迷惑だなんてとんでもない!!」
いつ合い鍵を渡しておこうかと思って常に用意していた和泉は、今がチャンスだと思った。
「それにほら、あのオカマが命令だって言ってたじゃない? 逆らったら、後で僕が恐ろしい目を見ることになるんだよ!!」
それもそうか、と周は呟く。
「でも和泉さん……仕事中じゃないの?」
確かに、本当は他にもしなくてはいけない仕事が山積みである。
どうしよう?
すると周から思いがけない提案が。
「鍵、貸してくれたら俺……先に帰って夕飯の支度しておくけど?」
いつ彼に合い鍵を渡しておこうかと思って常に用意していた和泉は、今がチャンスだと思った。しかもそれ、帰ったら周がご飯の用意をして待っててくれるなんて、まるでプレ新婚生活みたいじゃないか!!
「周君、これ持ってて」
合い鍵を彼の両手に握らせる。
「なるべく急いで帰るからね?!」
「別に急がなくていいよ」
本当は他にいろいろ考えなくてはならないことがあるのに、すべて吹っ飛んでしまいそうになった。危ない。
周と別れてから和泉は真っ直ぐ本部に戻った。
すると。一課の部屋で長野と守警部が話していた。
どこかの店に食べに行った訳ではなく、出前を取ったらしい。空の器が机の上に並んでいた。
「……おい、ジジィ」
さっきのことが頭に甦り、和泉は長野に詰め寄った。
「なんでジャマするんだよ」
「べっつに~」
「お前には聞きたいことが山ほどある。そもそも、なんで大宮桃子の元フィアンセと接触したりだとか、あの猫カフェの存在を知っていたのか、知ってることを全部話せ!!」
「い、和泉さん、仮にも課長ですよ……?」
すると長野はせらやんのぬいぐるみを手にはめて、椅子の上に正座した。
「ワシ、お前と違って生安にも鑑識にも、お友達がたっくさんおるの。ちょっと知りたいことあるけぇ教えて~って頼んだら、大抵のことはわかるんじゃけんね~。」
レッツモミじー!! と掛け声をかけて、彼は椅子ごと移動し始める。
生活安全課に鑑識課。
要するに例の闇サイトの件と、大宮桃子の遺品のことを奴も把握したということか。
「課長、大宮桃子さんのお母さんが被害に遭った強殺事件を担当なさったそうです……」
「ああ、そうらしいですね」
なんだ知っていたのか、という顔をされる。
「帳場が解散した後も、個人的に大宮さん親子に接触していたそうですよ」
「……公務員としてどうなんですか」
「まぁまぁ、そこはいいじゃないですか。ちなみに大宮桃子さんの結婚式に、長野課長も招待されていたそうです。ところが急に婚約破棄の報せが入って、挙げ句、御堂久美さんの方の式に部長が呼ばれて……」
部長から代理で式に行けと命じられた長野は、やはり気が進まなかったのだろうか。自分にその役割を押しつけてきた。
おかげで今があるのだが。
「ただ、大宮さんのお父さんの方は苦々しく思っていたそうですよ。奥さんの事件のことが解決できなかったことで……随分と責められたそうです。そんな父親を宥めてくれたのが桃子さんだったと」
「きっと優しい人だったんですね。そのお嬢さんは」
「課長もそう仰っていました。だからこそ……」
「だからこそ?」
守警部は悲しそうな顔をする。
「彼女が誰かに復讐を依頼したりする訳がない。そんなことをするぐらいなら、自分で命を絶つ方を選ぶだろうって……」
実際、彼女はそうした。
思い出の帝釈峡で。
「だけど、御堂久美の元には黒い子猫から葉書が届いた訳でしょう。じゃあ誰が、依頼したっていうんです?」
「動機として最も強いのは、お父さん……ということになりますか。だとすれば確固としたアリバイがあることにも納得が行きます」
あのゆるキャラ親父、まさか、父親の方を疑っているのだろうか?
「いずれにしてもこの件については北条警視もお調べになっているようですし、関係者全員で一度、情報の擦り合わせをする必要がありますね?」
守警部の至極もっともな、まともな意見に、和泉はうなずくしかなかった。
※※※
その後、和泉は守警部と明日の予定を確認してから家路についた。
今の自宅マンションは3DKである。いつかきっと周と一緒に暮らそうと、猫の飼えるマンションにした。
ドアの前に立つと換気扇の回る音が。何やら料理の匂いも。
鍵を挿し入れて回すと周の靴が見えた。和泉はそのことに感動を覚えながら、玄関まで迎えに来てくれないかな……という期待を胸に後ろ手でドアを閉める。
残念ながらそうはならなかったが。
「ただいま~」
リビングのドアを開けると、明かりがついている。
周はソファに腰かけ、本を開いて何かブツブツ言っている。
「周君?」
「……あ、おかえりなさい」
ようやく気付いてくれた。
彼が手にしていたのは【刑事訴訟法】を扱った本だ。
「ごめん、勝手に本棚を漁っちゃった」
立ち上がって本棚に戻そうとする。
「かまわないよ。そうか、ちょいちょい試験があるもんね……」
和泉も本棚には様々な法律関係の書籍及び、仕事で必要な冊子を揃えている。このまま警部補で定年を迎えるつもりはなく、いずれは【警部】への昇進試験を受験しようと考えて、時間を見つけては勉強している。
「風呂、すぐに入れるよ? 夕飯の支度もできてるけど……」
風呂と聞いて彼の全身に痣があることを思い出し、和泉は暗い気持ちになってしまった。
自分のせいだ。
あの時、下手に介入したりしたから……。